師匠は甘くない
空に浮かぶ白い雲と島。昼には太陽が、夜には紫に輝く月が。人だけではなく、動物も亜人も精霊も魔物も、この世界には様々な種族が住んでいる。
――ラクレスツォーリ。青い海と空に浮かぶ紫の月には、神々が住んでいると信じられている信仰深き国。
その国の隅にあるタザム村。海と山に挟まれているが発展度は低く、外交も貿易も乏しいその村に、魅惑的な容姿をした美青年と平凡な少女いた。
「今日から此処がお前のアトリエです」
「此処が……」
村の小さな商店街の角に佇む猫型の店。屋根裏部屋がある1階建ての可愛らしい造りで、窓からカウンター越しに対話出来るようになっている。
木で出来た暖かみのあるシンプルなドアを開けて見ると、外装とは裏腹に中は殺風景だった。二つの大きな本棚、基本の調理器具、一人用のテーブル、それだけだった。
「寝床は屋根裏部屋にありますから、後で確認なさい」
「はい、師匠」
師匠と呼ばれた男は、白に近い水色の髪を腰まで伸ばし、月と同じ紫の瞳を持つ。作り物だと思う程、恐ろしく美しい男だった。
「もう一度復習しますからよく聞きなさい。今日から一年、貴女は私が与えた課題をこなしつつ、このアトリエを経営しなければなりません。一年後、見事課題を全て終え、決められた金額をアトリエで稼いでください。わかりましたか?」
「はい、師匠」
美しい男は表情をピクリとも動かさず、淡々と言い渡す。少女が返事をすると軽く頷き、二冊の本と少量のお金が入った袋を渡した。
「これは私からの餞別です。アトリエの軌道が乗るまでの間、苦難も多いでしょうが死ぬ気でやり遂げなさい」
「はい、師匠」
励ましているのだろうが、死ぬ気でとはあまりいい言葉ではない。
処で、先程から同じ返事しかしないこの少女。名はマル。犬みたいな名だが、本名が長いから呼びにくいという理由で、師匠と呼ばれたこの男にあだ名を付けられたのである。もう少し呼びようがなかったものか。
マルは師匠と同じで表情を変えない。というよりも緊張からか、表情筋が固まっている。
「では私はこれで。途中、抜き打ちで様子を見に来ますので、精進を怠らないように」
「はい、師匠」
男はそれだけを言うと、アトリエから去っていった。
マルは男が出ていったドアを見詰めながら暫くしてその場に座り込む。否、へたり込む。
「はー。本当に私此処でやっていくんだ」
男がいなくなったことにより緊張が解れたのか、マルはキョロキョロとアトリエ内を見回す。オレンジ色の壁は明るさを出し、空調の為か天井にはプロペラが回っている。二つの大きな本棚は数冊の本しかなくガランとしていて物寂しい。
壁に掛けられた梯子を前に好奇心をかられ、屋根裏部屋に登れば、木目調の床は暖かさを帯、真っ白なクローゼットは猫足が目に入る。一番目を引いたのは猫型のベッド。外装も家具も猫ばかりとは、マルは猫好きなのかと思われそうだが、確かにマル猫は好きだが家具にまでは拘らない。この家具の原因はあの師匠と呼ばれた男にある。
『犬か猫、どちらがいいですか?』
此処に来る前に聞かれた言葉。普通ならその二択しかないのかと言いたくもなるが、どちらかといえば猫派のマルは素直に猫がいいと答えた。その結果がこれだ。
屋根裏部屋の窓を開けると、ふわりと暖かい風が入りタザム村の商店街を一望出来た。都会のように賑やかとは言い難いが、住民同士の仲良さそうな声が聞こえる。
「今日からこの村で錬金術師として頑張らなきゃ」
そう意気込むマルは、早速自分がやらなければならない課題を知ろうと、再び一階へと降りた。持ってきたリュックの中から取り出した1冊のノート。そこには師匠から与えられた課題が書かれている。緊張からごくりと喉が鳴り、ゆっくりと表紙を捲ればびっしりと書かれた課題にマルは目眩がした。
【4月の課題】
〇錬金術LV5以上
〇初級錬金術の本を10頁解読
〇ランクE以上のアイテムを錬成
〇薬5品錬成。品質は上質以上
〇装飾品3品錬成。品質は上質以上
〇依頼10件以上熟す
「今月だけでこんなに……。勉強しながらアイテムを錬成して、村の人の依頼を熟すなんて無理だよぉ……。それもたった1ヶ月でって、今何日!?」
マルは壁に掛けられたカレンダーを見て青ざめた。この世界は1年を12ヶ月で分ける。1ヶ月は28日であり、7日毎に週分けされる。今日は4月5日。課題の期限は残り23日しかない。
「鬼だ……」
カレンダーの前で項垂れるようにへたり込む。泣き出したい気分だ。
思えばあの師匠の下で弟子として過ごした3年間。厳しい修行の毎日だった。無表情で毒舌。容赦なく切り付けられる心と積み上がる課題。涙が枯れ果てる事はなかった。
それでもマルは逃げ出さなかった。いや、逃げ出したいと思った事はあったがしなかった。それはどんなに失敗しようと怒られようと、師匠は出ていけとは言わなかったからだ。
マルは器用な子ではない。錬金術師としての才能もあるとは言い難い。錬金術師を抜きにしても、マルはどちらかと言えばドジな方であり、家でも怒られてばかりいた。もう何もしなくていいと。自分は役立たずだと。
しかし師匠は違った。何度失敗しようとも、見捨てず再び課題を与えてくれる。呆れたり、悪魔も逃げ出すような冷笑で怒られたりはするが。どんなに失敗しても「もういい」と言って終わらせる事がない。それがマルにとってどれだけ嬉しいことか。
「……出来ないと思ったら出来ない。まずは手を、頭を動かす、ですよね師匠」
泣き言など言っていられない。自分は此処まで来たのだからやり遂げなければ、3年もの間錬金術を教えてくれた師匠に申し訳ないと、マルはやる気を出す。
「まずしなきゃいけない事は……勉強? それとも錬成?」
何から手を付けたらいいかわからない。もう一度課題を確認する為にノートを見ると、4月の課題の下に小さめの文字で最初にするべき事が書いてあった。
「師匠……」
厳しいだけではない。慣れない場所でマルが立ち止まらないよう、しっかりと道を示してくれている。自分の事を考えてくれる事が嬉しくてツンと鼻先が痛む。溢れそうな思いを抑え5月の課題の頁を見れば、4月よりも更に課題は増えていた。当然今月のように道を示してくれるような言葉はない。課題だけが月毎に増えている。
「し、師匠ぉぉ……」
厳しいだけの人ではない。確かにそうなのだが、決して甘くはない。それがマルの師匠だ。
「見るんじゃなかった……ううん、落ち込んでられない。時間は待ってくれないんだから! 今しなきゃいけない事から始めよう」
もう一度4月の頁に戻り、最初にするべき事の項目を読む。
「えっと、まずは村の人に挨拶。依頼を受けるからには住民の人との交流は大切だもんね。次に店の品揃えと価格調査……なんで?」
錬金術師として仕事を熟す上で、商売としての知識のいろはも知らないマルにとって、なぜ価格調査をしなければならないのかわからなかった。それでも師匠がしなければならないと書いてあるのだから、しておかなければならないのだろうと鞄にメモ帳とペンを入れる。
まだ日は高い。それほど大きくはないタザム村。ご近所の人達に挨拶ぐらいは出来るだろうと、マルはアトリエを出た。
この国ラクレスツォーリの錬金術師は、師の下で錬金術を3年間学ばなければならない。基本的な技術と知識を身に付けた後、一人前の錬金術師になるべく知らない土地で錬金術師の卵として暮らさなければならないのだ。
師匠に与えられた課題を全て熟し、最後に国の審査を乗り越えてやっと一人前の錬金術師として認められる。師匠に与えられた課題は何年掛かるかわからない。例えクリアしても、その先の国の審査をくぐり抜けのは至難の技。審査に落ちた者はもう一度師匠から課題を与えられるが、国の審査を受けられるのは3度までと決まっている。なので、錬金術師になれるのはごくわずかなのだった。
果たして、マルは一人前の錬金術師になれるのだろうか―――