初めての殺人事件
「また…… ですね」
手帳を見ながら草むらに目をやる平塚巡査長だった。厳しい顔で見ている先には、男性の死体がビニールシートに包まれていた。その横には、死体の傷口を座って見ている桐谷警部の姿があった。
「酷い傷だな。これを見た限りでは、ナイフの様な物じゃなく、まるで刀傷だな」
そう言って、手を合わせて拝む桐谷だったのである。その言葉に、
「侍の居る時代じゃあるまいし、刀傷だなんて」
平塚もそう言って手を合わせていた。
「だがな、これだけ深く長い傷を負わせるとなると、そう思わざるを得ないのだよな」
立ち上がってそう呟いた桐谷は、そのままその場を離れた。
この死体を見ると、誰もがそう言うに違いない。そんな傷だったのである。背中には縦に入った一本の傷。そして、腹部には横一線の傷。まるで、剣道の胴を受けた後に背中を上から斬られた様な、そんな傷だったのである。平塚は、
「昔の言葉で言うと、人斬りってところか」
そう言って桐谷の後を追った。
二○一二年 二月。
大きな川の畔で、一角だけが平らな地形の広い草むら。河原のキャンプも出来る場所とあってか、ふと足元に目をやると、コンビニの袋やパックジュースの飲み滓などが捨てられたままだった。
「しかし、ここを利用する人達も考えようだな。もう少し、モラルってものを考えたらどうなんだ」
目の前に転がっていたジュースの空き缶を手にした平塚が、そう言った。それを横目に、
「でも、その利用していた者が、この死体を見つけたんだからな。フフフ…… お前の言いたい事も解るがな」
草を掻き分けながら、手掛りになりそうな物を捜す桐谷だった。
そして、
「この事件を解決した頃には、俺達は神奈川県警だ。この事件、俺達の手で解決するぞ」
そんな桐谷の気合の入った言葉を聞いた平塚も、
「はい」
と、歯切れの良い返事をした。
この二人は、今年の夏に神奈川県警へ移動する事になっていたのである。移動後は、刑事課の課長の席が待っていた桐谷。そして、主任を任される事になっている平塚だったのだ。
だがこの事件。二人の思っている様な、そう簡単に解決できるものではなかったのである。
警視庁では、その日の昼から、その事件の捜査本部が設けられた。
少し小さめの会議室。そこで行われる会議には、十名ほどの刑事が椅子に座っていた。
「それでは、今朝発見された死体の件で捜査会議を始める」
ホワイトボードの前に立つ桐谷がそう叫んでいた。そして、目の前の机に広げられた数枚の写真。その中から一枚の写真を手に取ると、それをホワイトボードに張り付けて、
「今日、発見された男性の死体。これについて情報を話して貰おう」
そう言った桐谷は、目の前の平塚に目をやった。それを受けた平塚は、手帳を広げて立上ると、
「被害者の名前は『佐藤銀二』。
住所は東京都世田谷区に住んでいまして、工場を営んでいました。
しかし二年半ほど前に、自宅兼工場だった住居が全焼しています。
その現場からは、妻の『佐藤恵子』と、近隣に住んでいた『泉純也』の、二人の死体が発見されました。
始めは、事故として調べられていましたが、発見された二体の死体には、何者かに依ってつけられた傷痕が発見され、殺人事件と断定されました。
その後の捜査の結果、旦那である佐藤銀二の犯行と言う事が判明し、逮捕に至りました。
ところが、数日前に拘置所から仮出所した佐藤が、何者かに殺害されたというのが今回の事件となります」
そう言って、静かに椅子に座った。
その話を聞きながら、机の上から佐藤恵子と泉純也の写真を取り出した桐谷は、後ろのホワイトボードの方に振り向くと、平塚の話した順番通りに、二人の写真を貼り付けて行った。そして、ボードマーカーを手にした桐谷は、
「みんなの記憶にも新しい事件だと思うが、この佐藤銀二は殺人を犯していた」
そう言いながら、恵子と泉の写真から佐藤の写真に向かって線を引くと、
「その殺人者が、何者かによって殺されたと言う訳だ。そこで、我が班にその捜査が一任された」
そう言って、マーカーを戻した。その後、刑事達の方に鋭い視線を向けた桐谷は、
「平塚は丸山を連れて、二年半前に在った火災現場付近を捜査してくれ。俺と堂島は、拘置所を出た後の佐藤の足取りを調べる。他の者達は、二年半前に殺された泉純也の周りを調べて欲しい。それでは、一端、会議を終わる」
そう言って、目の前の書類を片付け始めた。
部屋の中では、会議に参加していた刑事達が一斉に立ち上がって頭を下げていた。
そんな中、昨年に捜査課に配属になったばかりの丸山は、前の佐藤恵子・泉純也殺害事件の事を知らなかった。
『丸山啓太』二十三歳。初めての殺人事件だったのである。
コンビを組む様に言われた平塚の下に向かった丸山は、
「平塚先輩。その佐藤恵子と泉純也の二人は、何故…… 佐藤銀二に殺されてしまったのですか?」
急ぎ足で外に向かう平塚を、額に汗を滲ませ、必死の形相で追い駆けながら尋ねていた。
すると、パトカー後部座席のドアを開けて、自分の上着を放り込んだ平塚が、ドアを閉めるなり丸山の方を向いた。その時、いきなりの厳しい視線に、身動きが取れなくなった丸山だった。
そんな丸山に、顎で『助手席に乗れ』と指示を出した平塚は、運転席のドアを開けながら、
「そうか。お前は知らなかったな。運転しながら話そうか」
そう言って、シートベルトを締めていた。もちろん、緊張気味の丸山は、慌てて自分のシートベルトを締めるのだった。