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切り取られた匂い  作者: 本郷透
8/13

実験

 帰宅する頃には既に日は落ちていた。物静かな夕闇だけがあたりを包み、音を根こそぎ吸い込んだ。

「また遅くまで何処に行ってたの! 連絡を寄越しなさいって言ったでしょう!」

 わたしはまた、例によって過保護な母親に叱られていた。もう高校生だというのに、どうして小学生の様な扱いを受けねばならないというのだろう。

「ごめんなさい。図書館に居たから携帯電話、使えなかったの」

 わたしは演じた。謝るような気分ではないけれど、こんなところで時間を使うというのも癪だ。

 上手く謝る事が出来ただろうか。母の反応は無い。

「──あまり、心配かけないでよ」

 母はそれだけ言うと台所へと消えた。わたしは部屋に戻り、考えを纏めることにする。

 *


 誰を殺そうか。

 家に帰ってきてからはそれしか考えていなかった。

 美影の行動を邪魔する為には誰かを殺す必要がある。さて、誰にしよう。

 わたしは白紙に円を描き、ルーレットを作る様にその中を線で区切った。十二に区切った円の中には自分を除いた十人の名前を書き込んだ。タクト、メア、トウヤ、ハルカ、レオ、ラン、マリ、キキョウ、シンイチロー、ナツメ。

 そして円の中心に先端をよく尖らせた鉛筆を立てて、手を離した。軽快な音を立てて倒れた鉛筆が指したその名前は──。


 *


 そこには数名の人間が居た。悲壮感漂う表情をした人、栄養失調の所為か顔色が悪い人、そして理由もよく解らずにそこに居る、ただのバカ。大人も子供も混在して、一見して彼らに共通点は無い。

 けれども彼らには少なからず共通している事があり、寧ろその点が無ければ今ここには集めていない。この人達はわたしが見出した、いわば実験体だった。

 理系ではないわたしが実験をするなんて、笑える話だと思う。実際学校でも実験の手順、過程、結果、そういう事は習ったけれども、自分の手を動かして実験するという事は無かった。だからわたしの中で実験というのは知識でしかなかった。実技という認識はこれっぽっちも無かった。だから今回、この実験をするに当っては少々心許無い所があった。でもこれをしないでは先には進めない。わたしが計画している事は大きなリスクを孕む。

 ああ、勘違いしないでね。リスクって言うのは触れ幅の事であって、必ずしも危険を示すだけの言葉じゃないから。危険が大きい分、得られる物も大きいんだよ。

 集めた人たちがざわめきだす。ちょっと待たせすぎたかな。そろそろ始めよう。

 わたしはその場に居る人達全員に向かって、意識を集中させた。

 匂いを消して、彼らの世界から匂いを切り取る──。今ここにいる全員の嗅覚はわたしが支配しているんだ──と、自分に言い聞かせて彼らの世界から匂いを切り取る。その場に充満しているカビ臭い匂いは知らないうちに感じられなくなっていったのだろう。ざわめきの中から、その事を指摘する声が聞こえた。

 この場に居るのは死を切望する人だ。インターネットの掲示板で噂を流し、この場所に集めた、貴重な実験台。あんな胡散臭い書き込みを信じて来る様な人間は本当にどんな手段を使ってでも死にたいと願っている人なのだろうという判断の元にわたしは殺す決意をした。

 しかしただ殺したりはしない。実験というからには、自分の力を試さないと。それは能力的な意味でもそうだし、わたしの知恵についてもそうだ。作戦を立ててどれだけ相手を──対象を上手く貶める事が出来るかどうかを今日は試す。

 わたしは人々を集めた廃墟から、少しだけ離れた場所に居た。わたしがその実験の被検体になって命を落としては本末転倒だからだ。

 わたしはある液体をある固体にかけた。シュワシュワと発泡しながらその液体は黒い固体を溶かして変質させていく。生じた気体の匂いが僅かながら、わたしの鼻を突いて、顔を歪める。不快な匂いが嗅覚を支配した。

 発生した気体は、廃墟の内部へと繋がる通機構から彼らの居る場所へと流れ込む。廃墟とはいえ、割と状態の良い場所だったから、こういう事が出来る。

 ちらりと彼らの様子を見る。鏡を上手に使ってわたしが今居る場所から様子を確認できる様にしてある。

 つまらなそうに携帯を弄りだす学生、相変わらず何かに怯えている女性、疲れた様に地べたに腰を下ろす男性。先程までと何ら変わらぬ、一般人の姿がそこにはあった。──と、いうことは、だ。彼らはこの臭気を感じていないという事になるだろう。

 実験成功。一つ目の目的は達成された。あとはもう一つの結果が出たらわたしの実験は終了する。


 窓も何もない、光すらろくに差さない様なふざけた環境で何も知らない一般人は暇そうにしている。その様子を遠い場所から見ながらわたしはその時を待った。

 ──ドサリ。

 一時間ほど経った頃だろうか、何かが倒れる音がした。

 音のする方向を見ると、見ると中年の男性が倒れていた。それを見た他の人たちはざわめき、倒れた男に近寄った。何があったのかわからないままに一人、また一人、と、次々に人は倒れだした。

 そうして全員が床に伏した時、初めてわたしは彼らに近寄った。廃墟の中に入り、彼らの様子を調べた。大丈夫、一時間しないと彼らは死ななかった。だからこの空間には即効性がある程の濃度の期待は漂っていない。長居しなければわたしも死なない。

 床に転がる死体の皮膚には緑色の斑点が出ている。図書館で調べた通りだった。これなら確実に死んでいるだろう。


 *


 硫化水素は即し濃度に満たない濃度を長時間吸引して死亡した場合、遺体に緑色を帯びた暗紫赤色や緑色を帯びた暗赤褐色の死斑が現れたり、遺体の臓器が灰緑色になることがある。


 図書館で調べた本の中に、そんな記述があった。死んだかどうかを調べるには丁度良い、わかりやすい目印になるという事で、わたしは硫化水素を使うことにした。ナツメが以前言っていた様にこの気体は可燃性──つまりは燃えやすい為、死体の処理にも困らない。火を放てば爆発と共に全て吹き飛ばしてくれるだろう。そう、わたしたちが通っていたあの学校の様に。

 異臭を放つということでわたしが真っ先に思いついたのがこの方法だった。ナツメとこの世界で出会ってから起こった、不慮の事故。それがこの実験の方法をわたしに思いつかせたのだった。


 *


 わたしはその場に漂う匂いの強さに、思わず顔をしかめた。硫化水素だけではない、他にも何か、匂った。

 鼻を通り越して感じるその匂いの正体に、わたしは薄々気付いていた。ただ、認めたくなかっただけだった。

 早く焼いてしまおう──そんな考えばかりが先走った。

 廃墟を後にしてからの行動は、迅速だった。

 残っていた物質を全て廃墟内で反応させて空間を密閉した後、離れた場所からあらかじめ用意しておいた導火線に点火する。それだけで証拠を残さずに全てが終わるのだ。

 わたしは百均のライターで導火線に火を点けた。それはすぐに廃墟へと向かい、派手な爆発を起こした。

 その様子を、何処か他人事の様に、わたしは遠くから見ていた。わたしには関係ない、遠い世界の出来事──そう、感じた。自分が起こした爆発だという事なんて微塵も感じなかった。どうしてだろう、現実味が無かった。

 ここは旧市街。田んぼと畑の街だから人なんて滅多に来ない。だから近隣で誰かが見ているという事もないだろうし、救急車や消防車がここまで来るのも遅い。

 わたしはそっとその場を離れた。


 そのままよろよろと家路を急ぐ。なんだか身体中から嫌な匂いがした。それは無臭化しても消えない匂いで、早くお風呂に入りたかった。身体を洗いたい。匂いを完全に落としたい。でもそれは叶わない。

 ──思いの外、ストレスだったらしい。どうでもいい人を殺すだけでこんなになるなら、復讐なんて夢のまた夢となる。


 でも。


 この鼻の奥に残る匂いは──忘れられない匂いは、どうにも嫌だった。何よりも嫌だった。気持ちが悪くて、頭が痛くて、おかしくなりそうだった。早くどうにかしないと、気が狂ってしまいそうな程に、その匂いはわたしの精神を侵した。

 堪らず帰路にあったコンビニに立ち寄り、制汗スプレーを購入した。あえて香りのついた物を。そして公園でそれを服に思い切り吹き付けた。わたし自身にこびりついた匂いをそれで上書きするかの様に、かなりの量を吹き付けた。

 ──気付けばスプレーの缶は空になっていた。

 吹き付けても何も出てこないそれを地面に落とし、ブランコに力無く座り込んだ。

 先程よりは少しだけマシになったけれども、まだ微かに残っている。その僅かな残り香さえ不快で、わたしは無臭化しようとした。──最初からこうしていればよかったのだ。

 でも、匂いは消えなかった。

 本能にこびり付いたかの様に、脳の奥に焼き付いたかの様に、その匂いはわたしの奥深くの部分に根付いていた。これは匂いじゃなくて、記憶だ。本能が鳴らす、警鐘だ。近づくな、これ以上は危険だと、生存本能が告げる。

「……案外わたしの神経も細いね……」

 誰も居ない公園で一人、自嘲するかの様に笑う。 誰に対して向けた訳でもない言葉は虚空に消え、やがて日は暮れた。


 帰宅すると、胃の中から込み上げてくる物があった。酸っぱいそれが何なのかは考えるまでも無く解った。耐え切れずトイレに駆け込み、それを吐き出す。胃酸は喉を焼き、少し痛んだ。

「ちょっとつぼみ、帰ったならただいまくらい言いなさい……って、アンタ一体どうしたの?」

 わたしが帰宅して早々にトイレに駆け込んだ為に心配した母が様子を見に来た。わたしに向けられた心配は吐いているという現状によって更に増幅する。

「何でもないよ……。大丈夫だから……」

「吐いておいて何でもない訳無いでしょ。何処か具合悪いの? 病院行く?」

「本当に何でもないから……」

 なおも心配する母を大丈夫だからと遠ざけ、わたしは着替えを持ってお風呂場へと向かった。一刻も早く匂いを消したい。母とナツメには、解らない様に制汗スプレーの匂いを消してある。

「お帰り」

 脱衣所の扉を開けようとすると、背後から声を掛けられた。母とは違う、低音。

「……ただいま」

「何かあったの? 顔色悪いけど」

「何でもないよ。少なくとも、ナツメには関係ない……」

「何でもないことないだろ。さっき吐いてたみたいだし、それにそんなに顔色悪いのに何も無いって事はないでしょ」

「……ナツメには、関係の無い事だよ」

「じゃあ、おばさんには話せる事なんだよね?」

 とても嫌な事を言われた様な気がした。聞きたくない言葉が、ナツメの口から発せられた。わたしはナツメに顔を向けず、黙って俯いた。

「──わたし、お風呂入って来るから」

 それだけ告げるとナツメは、ごゆっくり、とだけ言ってその場を立ち去った。何も追求してこない事に、少しだけ安堵して熱い湯に浸かった。

 お風呂には、入浴剤を入れた。お湯は色付いて、鮮やかなピンク色に染まった。でも、わたしの心はお湯の色と同じ様に明るくはならなかった。寧ろ、深く沈んでいた。

 何とかあの不快な匂いを忘れられそうだったけれど、無理だった。でも、何となく解っていた。一生消えないかもしれないと、薄々解っていた。

 わたしはお湯の中に顔を着けて、息を静かに止めた。


 *


 その後気分が優れないからと自分の部屋に戻ったわたしは、ベッドにだらりと横になっていた。

 気だるい。動くのが億劫で、何もしたくない。

 今日自分がしでかした事の大きさを考えれば当然だ。精神的にも体力的にも、わたしの手に負えるスケールではない。人を殺す事の重大さを、わたしは今日、身を持って知った。けれどもやめるわけにはいかない。

 これは練習でしかないのだから。本番ではミスをせず、狙った相手を確実に殺したい。殺す本人に恨みなんて全く無いけれど、仕方無いよね。目的の為に手段は選んでいられない。

 余程疲れていたのか、知らないうちにわたしの意識は闇の中へと堕ちていった──。

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