それぞれの傷
駅前の交差点を渡るとナツメとの待ち合わせ場所に着く。時間より僅かに早いけれどもナツメは既にその場所に居た。
「おはよう、ナツメ。早いんだね」
「おはよう。そんなに早くないよ。十分前行動なんて当たり前の事だからね」
ナツメは建物の壁に寄り掛かって腕を組んでいた。見た事の無い私服姿はまるで男の子の様だった。
「じゃあ、行こう。案内して」
「ちょっと待って。お母さんにお使い頼まれてるの。ちょっと付き合ってくれない?」
「いいよ。どこに行くの?」
「行きつけのお店だよ」
駅前の小さな店の一つに入る。白く清潔感のある茶葉の専門店。わたしがいつも通うその店はまるでおとぎ話の中に出てくる店の様だ。
「ここは──」
「わたしの大好きなお茶のお店。ここのお茶、美味しいんだよ」
店内はむせ返る程に色々な茶葉の香りが混ざり合って、その匂いを主張していた。わたしを買って、選んで、と言わんばかりに。
「あら、つぼみちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは。いつものお茶三百グラムください」
「はい。いつもありがとうね。ここよりも安いお店なんていくらでもあるのに」
「ここのお茶は香りが良いですから。いつもお母さんも言ってます」
「ありがとう。今日は少しだけおまけしてあげるわ」
「本当ですか? ありがとうございます」
ここの店主とはもう顔馴染みとなってしまった。わたしは常連で、よくお母さんとも訪れるから親子共々顔と名前を覚えられている。
「そっちの子は? お友達?」
「あ、はい。これからわたしの家に行くんです。待ち合わせが駅だったからお母さんにお使いを頼まれて」
「そうなの。ねえ、あなた、お茶は好き?」
「え──ああ、はい。緑茶ならよく飲んでます」
「うちは紅茶だけじゃなくて色々な茶葉を置いているから良かったらまた来てくれる?」
「はい。今度また来てみますね。今は持ち合わせが無いので」
「楽しみに待ってるわ。お名前聞いてもいいかしら?」
「ナツメです」
「いい名前ね」
「ありがとうございます」
それからわたしたちは他愛も無い話をしてからわたしの家へと向かった。
「あそこのお店、可愛いよね。おとぎ話に出てくるお店みたいでさ」
「そうだね。今度行ってみようと思ってるよ」
「あそこのお茶はとても美味しいよ。────ねえ」
「どうしたの?」
「昨日の夜、ナツメと電話で話した後にシンイチロー君から電話があって、午後五時に桃李神社に集まって欲しいって言われたんだけど、ナツメのところにもその手の電話、行った?」
「ああ、シンイチローからの電話ね。ツバサから電話が来る前に来たよ。電話を切った直後にツバサから掛かってきたから吃驚したよ」
「そうなんだ──。ということは、今日もまた全員集まりそうだね」
「だね。ボクもまだ美影に訊きたい事あるから丁度良いけどね」
「へぇ? 質問の内容を聞きたい所だけどそれは集まった時にしておくね。二回も話すのは面倒でしょ?」
「うん。面倒なのは嫌い」
わたしたちは駅からの長い道のりをただ歩いた。
「ただいま」
「お邪魔します」
家に着いても、お母さんの出迎えは無かった。
ナツメも家に来るのは初めての筈なのに、緊張した様子も無かった。
「お母さん、ナツメを連れて来たよ」
「ああ、いらっしゃい、ナツメさん。そしておかえり、つぼみ」
「適当に座って。今お茶入れるから」
「お構いなく」
「あたしはミルクティーにしてね」
「解ってる」
台所でお湯を沸かし、お茶を準備する間にチラリと二人の様子を見る。ソファに座って対面しているその様子はなんだか緊張感があって、居心地が悪いように感じた。
マイペースにお茶やらお茶菓子を持って行ける雰囲気ではなかった。
「──名前、教えてくれる? つぼみが昨日呟いた位でフルネームを知らないの」
「霧生ナツメです。ツバサ──つぼみさんからお礼を言いたいと伺ったのですが……」
「ええ。あの子を助けてくれてありがとう。貴女の化学の知識が無ければあの子も今頃他の学生と同じように死んでいたかもしれないわ」
「匂いに最初に気付いたのはつぼみさんです」
「それでも文系のあの子には化学の知識はない。危険だと判断する事は出来なかったと思うわ」
「ボクもつぼみさんが気付いてくれなければ死んでいたかもしれません」
「なんにせよ、ありがとう」
「こちらこそ。──お話はそれだけでは無いように思えますが?」
「何て頭の良い子なのかしら。素晴らしいわ。お礼を言うだけならこんな風に家に呼んだりしないわ」
「お茶、入ったよ」
丁度お茶が入ったからお茶菓子のクッキーと一緒に持って行ってわたしもナツメの隣に座る。
「飲んで。美味しいのよ」
「いただきます」
閑話休題。お茶を飲んで一息つく。
「それでお母さん、ナツメを呼んだもう一つの理由って何なの?」
「理由が一つだけだとは言っていないわ。いくつもあるかもしれない」
「話をややこしくしないで」
「はいはい。──ナツメさん、貴女の転入の手続きをしようと思うの。貴女の家庭の事情は把握しているつもり。お母さん、今お家に居ないでしょ? それに、事故の事は連絡した?」
「確かに母は家には居ません。今は九州に居ると言っていました。事故の事は連絡していません。母は放任主義なので」
「それは旗から見たら虐待にも見えなくはないんだけどね。人様の家庭の事情にはあまり深く関るつもりはないわ。でもね、転入の手続きは未成年だけでは出来ないわ。だから帰って来れないあなたのお母さんに代わってあたしが手続きをしてあげる」
「──本当ですか?」
「ええ。子供には存分に学んで欲しいもの。それにあたしは学校勤務だからその手の書類や手続きには詳しい。あたし以外にそこまでする人なんて居ないと思うの」
「──ありがとうございます」
「印鑑だけ必要だから、また後日持って来てくれるかしら?」
「解りました」
話している間中、わたしたちはお茶を飲む事はあってもお菓子に手を付けることは無かった。食べている時間も無い程に重要な話だったし、会話の店舗も早くてそんな暇は無かった。
「あ、そうそう、ナツメさん」
「はい?」
「お母さんが帰ってくるまで、家に泊まっていてもいいのよ?」
「そんな、悪いです」
「子供が一人で暮らすっていうのは精神的にも良く無いわ。家にはあなたと同じ歳の娘も居る。あたしは全然構わないわ。娘が一人増えたみたいで楽しいしね」
「お母さん、人に対する善意に関しては一度言い出すと聞かないの。大人しく従った方が楽だよ」
小声でそう耳打ちするとナツメも諦めたのか、お言葉に甘えます、と小さく言った。
「お母さんが帰ってくるのは、いつ頃?」
「いつでしょうね──。ボクにも解りません。自由奔放なので」
「貴女のお母さんにはあたしから連絡を入れておくわね。連絡先、教えてくれる?」
お母さんとナツメはわたしを差し置いて、何やら親密になっていく。
「荷物取りに行ってきますね」
「いってらっしゃい。つぼみも行くの?」
「うん。まだこの辺の道に慣れてないと思うから。送ってくる」
「二人とも、気をつけてね」
「うん」
「はい」
玄関を出ると途端に溜息が出た。今まで家に人を呼んだことなんて無かったから無意識のうちに緊張していたんだろう。
隣を見ればナツメも同じように深呼吸をしている。同じように緊張していたのかもしれない。
「ツバサのお母さん、いい人だね」
「アハハ……。ちょっと強引なところあるけどね」
自分の母親がいい人だと言われたのは初めてだ。しかしあれはいい人というよりは強引なだけだと思うが……。そんな事を考えると思わず浮かべた笑顔も引きつる。
「どうしたの?」
「いいや──なんでもないよ……」
「ふぅん?」
「あ、ねえ、ナツメ。少し寄り道してもいい?」
「何処に?」
「わたしが今まで居た場所だよ」
見に行くのは店だ。旧市街と新市街の狭間にある、アンティークショップの様な外観をした建物。古くて趣があって、さっき行った茶葉の店とは違う意味でおとぎ話の中にありそうな建物。
わたしが九十九君と、エリーと出会った場所。
廻る世界を──繰り返す世界のことを教えてくれた場所。
「大切な人との短い思い出を忘れてきたんだ」
「その人に貰ったものでも忘れたの?」
「ううん、思い出そのものを忘れてきちゃったんだ。だから、取りに行きたいの。大丈夫、ここから近いから。旧市街との間にある場所だよ」
「いいよ。でも遅くなるとツバサのお母さんが心配するんじゃないの?」
「大丈夫。お母さんは少し位なら誤差だって言って許してくれるよ。それにまだお昼だよ? あんなに太陽も高くて空も明るいのに心配するだなんて、過保護だよ」
「だってツバサのお母さん、何か娘大事って感じがするんだもん。遅くなったら過度の心配をしそうだよ」
短い対面だけでよくもまあそこまで見抜いたものだ……。ナツメの観察眼には注意しよう。余計なことまで見透かされるかもしれない。
「お母さんのことは気にしないで。お昼は遅くなっても大丈夫だから」
「わかった。でもその場所って遠いの? 旧市街って言っても広いよ?」
「ここからならそれなりに近いはずだよ。店の場所が変わってなければね」
「同じ世界なのに、そんな変化ってあるの?」
「あるよ。全く同じ世界を繰り返してる訳じゃないもん。微妙な所が微妙に変わってるんだよ。例えば、駅前のお茶のお店。今まであそこにウーロン茶は無かったんだよ。でもこの世界ではどんな茶葉も扱ってるって言ってた。そのくらい些細な事が違ってくるんだよ。気付かなくても困らないような、そんな些細な事がね」
「そういうものなの?」
「そうだよ。──あ、見えてきた」
「目の前に空き地しか見えないけど?」
「あ──そっか。ナツメには視る能力は無いんだもんね。ちょっと付いて来て。入れば多分、解るから」
わたしはナツメの手を取って店の扉にもう片方の手を掛ける。すると周りの景色が変わった。
真っ暗で何も居ない場所。掴んでいたナツメの手もいつの間にか離している。どこに行ってしまったというのだろう。
『この店の主よ──』
不意に何処かから声が聞こえた。聞き覚えも無い、低く枯れそうな声が。
「──誰っ?」
『我は──かつて願いを叶える店として機能していたもの──』
「もしかして、このお店の──。ナツメを何処にやったの?」
『心配するでない。ここはお前様の内面の世界。外の世界には何ら影響せんよ。時間も進まぬ。話を聞くが良い』
「話って何の話?」
『この店の継承についてだ──。お前様はこの店の主であった。主たるもの、責任を持って場を管理するのがその勤め。しかしお前様はふらりとどこかに行ってしまった。我から見ればそれは我を放棄したという事──』
「違うっ! わたしはこの店から出たくは無かった! でも誰かに──何者かに引きずり出された! わたしは自分の意思でここを出たわけではないっ」
『自らの意思は関係ない。出たか出ていないか、その事実──結果のみが重要なのだ。お前様はここから出てしまった。だからもうこの店の主ではなくなった。──立ち去るが良い。この店はじきに終わる。主が居っては巻き添えを食うだけなのだよ。悪いことは言わない。早く元居た世界に戻れ』
「待って。わたしは今、忘れたものを取りに来た。一度位中に入れてくれても良いでしょう?」
『叶わぬ相談だ。既にここはお前様のものではない。対価を払え。さもなくば何も返せぬ。ここがそういう場所だとお前様が一番良く知っておるだろう──』
わたしは唇を噛み締めた。それこそ血が滲む位、強く。悔しかった。思い出すらも対価を払わないといけないというこの店のシステムに抗えない──抗う術を持たない自分が情けなかった。
『去れ──』
言葉はそこで途切れ、周りは元の景観を取り戻した。
「ツバサ? どうしたの?」
「────なんでもない。──わたしの忘れ物はここにはなかったみたい。ごめんね、変な事に付きあわせて。ナツメの荷物、取りに行こう……」
涙が溢れそうになるのを堪えると自然と声も裏返る。感情を誤魔化す様に足を速める。涙なんて流れなければ良いのに。涙なんて弱い心の象徴。そんなもの、無くなれば良いのに。
我慢していたのに流れた一筋の涙に、ナツメは気付いただろうか。
涙が乾くまで、わたしはナツメの前を歩き、振り返らなかった。見られたくは無い。弱い自分が恥ずかしい。ナツメはこんなに強いというのに、同じ歳のわたしはどうしてこんなにも弱いのだろう。
人の死にいちいち心を痛め、他者の痛みを享受し、そうして自分の心をわざわざ傷つける。どうして──どうしてわたしはこんなにも弱いのだろう。
「ボクの家はそっちじゃない」
気が付けばとっくに駅を越えていた。駅裏の、ビルが並ぶ市街地。そこはわたしにとって未知の領域だった。涙ももう乾いて、その跡すら残っていない。ナツメに前を変わろう。
「──案内、お願いね」
「────任せな」
──上手く笑えていただろうか。わたしの思っていたことは、伝わらなかっただろうか。
それからの道は、酷く入り組んでいてとてもじゃないけど一度通っただけでは覚えられそうに無かった。帰りもナツメの案内が必要だろう。
「──着いた」
ナツメがそう言って目の前で立ち止まった家は、わたしの家よりも広く、シンプルなつくりの家だった。
「入って。適当に休んでて。リビングはそっちだよ」
「わかった」
促されるままに示された部屋の扉に手を掛ける。その部屋は生活観の欠片も無く、嫌に清潔感があった。窓から差し込む光に照らされたその部屋には、必要最低限の家具と、少しの小物しかなかった。ナツメは一体どうやって生活しているのだろう。掃除はされているのか、埃が積もっている様子は無い。
とても清潔な空間だけど、とても綺麗な部屋だけど、ここには──。
「人間の匂いが……しない……」
ナツメは本当にここで生活しているのだろうか。疑いたくなる程にこの空間には人が居た痕跡が無い。
「──準備、出来たよ」
背後から声がしたから振り向くとそこにはボストンバッグを肩に掛けたナツメが立っていた。
「そんなに荷物少なくて良いの?」
「良いんだ。下着と制服、それと私服一着あればそれで十分だからね。これ一つで足りる」
「そう──なんだ……」
「行こう。もうしばらくこの家に用は無い」
吐き捨てるようにそう言うとナツメはそそくさと部屋を出て行ってしまった。わたしも置いていかれないように小走りで後を追いかける。ナツメは靴を履くと無言で玄関の扉を開けた。
「早く行こう──。ここにはしばらく──帰りたくない」
わたしにはナツメが呟いた一言が、聞こえなかった。