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切り取られた匂い  作者: 本郷透
3/13

三年ぶりの帰宅

 わたしは久し振りに家に帰る決意をした。身体の記憶によればわたしは今まできちんと家に居たらしいけれど、それでも魂の記憶はそうではない。三年分も家に帰っていないのだ。緊張する。

 家の前まで来て、わたしは入るか否か躊躇った。どんな顔をしてお母さんに会えば良いというのだろう。このまま店に逃げ帰ろうか。──いや、だったらどうしてここまで来たんだ。入ろう。入るぞ。

 意を決して扉に手を掛ける。しかし、すぐさまそれを離す。やっぱり入れない。

 わたしの心は何と臆病なことだろう。自分の家にも帰れないだなんて。拒まれている様な気がする。罪悪感が込み上げてくる。二周目、三周目、あまつさえ一週目の世界でもお母さんを悲しませてしまった。時間の流れの違うあの店の中で、わたしは過ごした。その間にどれだけ悲しませたことだろう。そうしてやったことを振り返れば謝っても謝りきれない。償いきれない。

 この世界のお母さんはわたしが居なくなった事には無関係。解っている。解っている──けれどっ!

「つぼみ? 貴女そこで何してるの?」

 後ろから聞こえた声に振り返る。そこにはわたしが会いたい様な、会いたくない様な、そんな人物が買い物袋を持って立っていた。

「……お母……さん……?」

「そんな所に居ないで早く家に入りなさい。心配したのよ? 貴女の学校で爆発があったって聞いて……」

「お──お母さん、立ち話もなんだから家に入ろう?」

「それもそうね」

 話してみると、案外あっさりと言葉が出てくる。

「ご飯、すぐに作るから」

「わたし、着替えてくるね」

 家の中で別れ、わたしは自室に入る。とても長い間立ち入ってはいないというのに、部屋はとてもきれいだった。この世界のわたしが使っていたのだから当たり前だけど。

 制服を脱ぎ、クローゼットからワンピースを手に取る。去年の誕生日にお母さんが買ってくれたものだ。そろそろ余所行きの服を持っていてもいいだろうと言うことで買って貰った、白いワンピースだ。流石に今着るのは場違いだから着ないけれど。随分と着ていない。だから手に取っただけだ。今着るのは別の、黄緑の部屋着として着ていたワンピースだ。

 手に取った白のワンピースをクローゼットに戻し、着替える。

 あ、そういえば荷物学校に置いたままだ……。


 居間に降りて行くと台所から調理の音が聞こえた。こんな生活音を聞くのはいつぶりだろう。あの止まった空間で過ごすようになってからというものの、食事をしなくても良くなっていた。あの空間から出た今はどうだかわからないけれども、そこの所はどうなっているのだろう。

 あ、そういえば店はどうなったかな。明日にでも様子を見に行こう。


「学校で爆発があったって聞いて、仕事休んで帰って来たの」

「──実験で使ってた硫化水素が爆発したの。匂いに気付いたわたしはすぐに学校から逃げたから、その後どうなったかがわからないよ……」

 お母さんが作った料理を久し振りに食べ、わたしたちは今、食後のお茶を飲みながら話している。

「学校は壊滅的だそうよ。殆どは爆発で吹き飛んで、生徒も数える程しか生き残っていないみたい。手続きが済むまで学校は休み、貴方たちは近隣の学校に迎え入れられると教育委員会から直々に連絡があったわ」

「そう……。手続きにはどれ位かかるの?」

「わからないわ。まだ何も目処が立っていないの。爆発の原因もつぼみに聞かなければ解らなかったわ。どうして硫化水素だと解ったの?」

「──硫化水素には独特の──卵が腐ったような匂いがあるの。その匂いが学校中からしたから、危ないと思って逃げたの」

「そう──。でも貴女にはそんな知識は無いんじゃないの?」

 ──ゾクリ、と。背中を冷や汗が伝う。母にはわたしの知識量が解る。教師をしている母には、わたしが今まで習ってきた事が手に取るように解るのだ。しかも今のわたしは文系コースに居るから、理系の知識なんて少し(かじ)った程度にしかない。

「友達も一緒だったの──。理系の友達が……」

「そう──。その子も無事だったのね?」

「うん。少し話してから家に帰ったよ」

「その子、一度家に連れていらっしゃい。貴女を助けてくれたお礼を言いたいの」

「解った。明日、連れてくるね。それよりもお母さん、仕事は良いの?」

「ええ。学校側も休みをくれたわ。娘が学生だものね、心のケアをしてあげろということでしょう」

「わたしは大丈夫だよ」

「でも折角だから休ませて貰おうと思ってるわ。しばらく家の事もしていないもの。貴女との時間も作りたいと思うし」

「そっか……。わたし、友達に電話してくるね」

「行ってらっしゃい」

 リビングから出ると時計の長針は既に一周していた。手を付けなかったお茶は既に冷め切っているだろうがそんなことは一向に構わない。

 携帯電話を取り出し、登録した番号に電話をかける。数回のコールの後にナツメは応答した。

『もしもし? どうしたの?』

「こんな時間にごめんね。話があったの。わたしのお母さんがね、ナツメに会いたいって言ってるの。今日わたしを助けてくれたお礼を言いたいんだって」

『それでわざわざ? ──いいよ。どうせ学校は壊滅的なんでしょ?』

「その話も明日してあげる。わたしのお母さん、教師なの。色々な情報をくれると思うよ」

『わかった。ツバサの家って新市街?』

「そうだよ。駅前。ナツメの家は?」

『ボクの家は第二中学校の側だよ。ツバサの家からは遠いと思うな』

「丁度駅の反対側だね。じゃあ、九時に駅で待ち合わせしようか」

『解った。九時に駅ね』

 さらさらと何かを書き取る音が、電話の向こうから聞こえた。

「それじゃあ、また明日」

『ああ、おやすみ』

 その一言で通話は終了した。わたしも通話画面を消し、携帯をポケットの奥に押し込む。リビングのドアを開けるとお母さんがお茶を飲みながら書類に目を通していた。

「──やっぱり仕事、残ってるんじゃないの?」

「んー? 貴女が気にすることじゃないわよ。それにこれは貴女の転入書類。これが無いと何処にも行けないわよ~」

 無表情なのに楽しそうな口調をしている母を見ると違和感しか感じない。

「──ねえお母さん」

「なあに?」

「明日、来てくれるって」

「そう。何時?」

「九時に駅で待ち合わせ。家に着くのは十時になるんじゃないかな」

「わかった。その時間までには色々用意しておくわね」

「色々って?」

「色々よ。貴女にはそれなりに関係の無いこと」

「? ふうん?」

 わたしは覚めたお茶を啜った。

「ああ、そうそう。明日駅前に行くなら茶葉を買ってきてくれる? セイロンがいいわ。お金は用意しておくから」

「うん、わかった」

「さーて、お風呂入って来ようっと」

 お母さんは大きく伸びをして書類をテーブルの上に纏めると部屋を出てお風呂場に行ってしまった。一人残されたわたしは秒針の音が鳴り響く部屋で一人物思いに耽っていた。

 明日は忙しくなりそうだ。

 ナツメを家に招き、店の様子を見に行く。その途中で紅茶の茶葉を買うというお使いもある。少しでも動けるように早めに休もう。時計の針は既に午後九時を回っていた。

 自室に戻ったわたしは電源の入っていない携帯電話の画面をただただ見つめていた。誰かから連絡が欲しいわけではない。しかし何故だか目が行ってしまう。携帯電話なんてまともに使うことなど無いというのに。


 どれ位の時間こうしていただろう。不意に携帯が振動した。見ると画面は着信を告げるものへと変わっていた。掛けて来た相手は誰だろう。──シンイチロー君?

「もしもし?」

『──こんな時間にすまない。明日の午後五時、桃李神社に来て欲しい。話はそれだけだ。では、また明日』

 そう告げると電話は切れた。一体全体、何だというのだろう。

 シンイチロー君がどんな子なのかはわからないけれど、理由もなしに呼び出すような事はないだろう。相手はわたしたちよりも幼いのだ。携帯電話も持っていない。固定電話から掛けているだろうから、家族に聞かれる恐れもあったのだろう。

 ますます明日は長い一日になりそうだ。

 わたしはそのまま布団を被って眠ってしまった。


 翌朝、いつもの習慣で早朝に目が覚めた。この身体は毎日こんな時間に起きていたのだなと感心する。生活習慣は身体に馴染んでいるようだ。まだ日が昇り始めたばかりだ。シャワーでも浴びて頭をすっきりとさせよう。


 身体の曲線をなぞる水はゾッとする程冷たく、心臓を射抜く様に強く身体を穿った。これ位の方が身体を目覚めさせるには良い。本当は身体に悪いらしいけれど。

 髪の毛の水気をバスタオルで吸い取りながら廊下を歩く。朝ごはんくらい作ってあげようかな。

 年頃の女の子らしくもなく、濡れた髪の毛をそのままに台所に立つ。やたらシンプルなエプロンを纏い、冷蔵庫の中身を見る。痛みかけたサニーレタスとトマト、そして卵が入っている。

 そしてバスケットには切った食パンが入っている。──作るものは決まった。

 早速フライパンに油を引き、温める。その間に野菜を洗い、切る。フライパンが温まった所で卵を二つ割り入れ、火が通るのを待つ。そしてついでに冷蔵庫に入ってたベーコンをフライパンに放り込んだ。パンにマーガリンを塗ってレタスとスライスしたトマトを乗せる。

 程よく火が通った所で卵とベーコンをパンに乗せて完成だ。美味しそうな匂いが部屋中に広がる。パンを少し焼いておけば良かったかな、とは思ったけど、これはこれで美味しそうだ。

 パンを皿に盛り付けてテーブルに並べておく。続いてお湯を沸かす。朝は紅茶に限る。取り分けセイロンティーはお母さんもわたしも好きな茶葉だ。ティーバッグではなく、茶葉から入れたものは香りも違う。わざわざティーセットまで買ったお母さんの気持ちは今ならよく解る。良い香りは心も身体も軽くなる。そんな効果があるような気がする。

「ふぁ~あ。おはよう、今日も早いのね。休日なんだからもう少しゆっくり寝てても良いのよ?」

 お湯が沸いた頃、お母さんが起きてきた。

「いつもの習慣だよ。朝ごはん、出来てるよ」

「ありがと~う」

「今お茶入れるね」

「よろしく~」

 茶葉をスプーンで二杯ティーポットに入れ、お湯を注ぎ砂時計をひっくり返して四分待つ。その間にお母さんは待ちきれなかったのか、わたしが作ったパンを頬張る。

「美味しいわね、相変わらず」

「ありがとう」

 身体の記憶によれば朝ごはんは毎日わたしが作ってるようだ。どうしてかは知らないが、毎朝早起きなわたしがお母さんに代わって作っているというだけの話なんだが。

「お母さん、お茶入ったよ」

 温めたカップに紅茶を注ぎ、お母さんに渡す。ふわりと漂ってくる香りはいつもより強烈な気がした。

「つぼみ、あんたも食べなさい。冷めて──はいるけどとっても美味しいわよ」

「うん。紅茶の香りもいつもより良いよね」

「そう? いつもと同じだと思うけど? アンタ、そんなに嗅覚良かったっけ?」

 ──言われてみればそうだ。わたしはどうしてこの世界に来てからこんなに匂いに敏感だというのだろう。

 ──それも今日、皆に会って訊いてみれば解ることだろう。まずはナツメを家に連れて来て、お母さんに会わせよう。

「じゃあわたし、そろそろ行って来るね」

「いってらっしゃい。食器の片付けはやっておくから」

「ありがとう。──いってきます」

 わたしは食後に身支度を整えて家を出た。駅までは歩いて一時間ほど掛かる。この街は結構な広さを誇っているから。

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