残り香
それから数日が経った。わたしたちの転入する学校はまだ決まっていない。未だに学校に通わないまま、時間だけが過ぎていく。何もしない日々というのは退屈で、時間の流れがのんびりとしていた。
わたしはあの一件以来、ナツメと連絡を取り合うことも無くなった。一つの鍵を見つけてほっとしているのだ。とはいえ、一ヶ月近く同じ家で暮らした人が急に居なくなると、何だか変な感じだ。お母さんはお母さんで、毎日わたしにご飯を食べさせる為に忙しそうに働いている。ずっと家に居るわたしは家事を負担して毎日を過ごしていた。
「ねえ、つぼみ」
「なぁに?」
お風呂上りに前髪を全部上に上げた状態のわたしに、お母さんが話しかけてきた。
「明日、ナツメちゃんを家に呼べる?」
「うーん……どうだろう。連絡してみるね」
わたしは携帯電話を持って退室した。
廊下で電話帳に登録されたナツメの携帯の電話番号を探し出して、通話のボタンを押す。
数回のコール音が続く。しばらく話していないだけでこんなにも緊張するものなんだろうか。
「……もしもし」
「も……もしもし、ナツメ?」
「どうしたの?」
「お母さんがね、明日家に来れないかって言ってるの。明日、予定はある?」
「いや、無いけど……なんだろう、おばさんがボクに用事……? ツバサは何か聞いてる?」
「ううん、何も。ただ、ナツメを明日家に呼んでって言われて、それで……」
「そっか……解った、行くよ。何時に行けば良い?」
「あ、ちょっと待って。訊いてくる」
「解った」
わたしは携帯電話を耳から離すと保留ボタンを押してリビングに戻る。
「ねえーお母さん、何時に呼んだら良いのー?」
「えーっとそうね、じゃあ夕方の六時くらいに来てって伝えてくれるかしら?」
「解った」
再び廊下に戻り、わたしは保留を解除する。
「夕方の、六時だって」
「うん、解った。じゃあ、それくらいの時間に行くよ。じゃあね」
「うん、また明日」
通話はそこで終了した。
「ナツメ、明日来てくれるって」
「良かった。渡すものがあったからね。来てくれないと困るのよ」
「渡すものって?」
「内緒。貴女にもあるわよ。取っておきのプレゼントがね」
お母さんはウィンクしてまた仕事に戻った。
わたしとナツメにプレゼントって──一体なんだろう……。
それが二人同じものなのか、違うものなのか、それすら解らずに一日が終わった。
*
翌日、ナツメは指定した時刻より少し早く家に来た。
「……久し振り」
「……久し振り。あがって待って。お母さん、まだ帰ってきてないの」
「じゃあ、遠慮なく」
玄関先でそんなやり取りを交わしてリビングに入る。
少し前まで泊まり込んでいたとはいえ、今は一応客人。わたしもそれなりの対応をした。
紅茶を入れて、適当な茶菓子を出す。戸棚にあったクッキーの箱を開け、皿に盛るとナツメの所まで持っていた。
「あ、ありがと」
「ナツメはコーヒーの方が良かった?」
「いや、紅茶で良いよ。あの店の茶葉の味、知らないし」
紅茶を蒸らし終え、温めたカップに注ぐとふわりと良い香りが広がった。
「……強香」
わたしはその香りを強めた。
「いい香りだね。強めて貰うとその良さが伝わりやすくなる」
「わたしの力って、きっとこうやって使うんだよ。今度は間違わない様に慎重に使うんだ」
最後の一言は自分に対する戒めだった。二度と同じ過ちを犯してはならないという、自分に対する、一言。
「そうだね。お茶菓子も美味しいし」
「それも駅前で買ったの。紅茶を買ったお店とは反対方向にあるんだけどね、とても美味しいの」
「へぇ……ツバサは駅前に良く行ってるんだね」
ナツメはそう言うとまた一口クッキーを齧った。
「うん。駅前って賑やかで見てるだけで楽しいから」
「そうなんだ……。ボクは、逆かな。人が多い程に孤独になる」
「どうして?」
「だって、皆作り物みたいだから。廻る世界の中で、ちゃんと記憶を引き継いで生きて居るのはボク達だけだと思うんだよ。時間が来たらリセットされるなんて、ゲームみたいじゃない?」
「──確かにそうだけど、その作り物でも良いから心を埋めたいと思ってしまったんだよ」
「ボクは、一人だけ生きて居るっていうのが寂しく思えるんだよ」
わたしたちは、知れば知るほどに正反対だった。それでも仲良くしていられるのは、無意識のどこかが同じだからだろう。
「ただいま~」
そんな話をして時間を潰していると、お母さんが帰ってきた。
「ちょっとつぼみ~、運ぶの手伝って頂戴~」
「うん、今行く」
わたしはカップをテーブルに置いて玄関に行くと、お母さんは二つの大きな箱を抱えていた。
「これ……何?」
「貴女たちへの、プレゼントよ」
「?」
わたしはお母さんに指示されるままに渡された箱をリビングに運び込んだ。
「さあ、開けてみて」
わたしとナツメは一度顔を見合わせて、箱を開けた。
──そこに入っていたのは、新しい制服だった。
今までのとは全くタイプの違う、セーラー服。白を基調として、襟のラインやスカートの色は爽やかな青緑色だった。
「貴方達の、制服よ」
「おばさんっ……これッ……」
制服を手に取ったナツメは動揺していた。
「ナツメちゃん、安心して。お金は県からの補助金が出て、全額負担してくれるそうよ。私は運んできただけ」
お母さんはナツメが動揺した理由をきちんと理解していて、その事を告げるとナツメはほっと胸を撫で下ろしたみたいだった。
「ねえ、着てみてよ」
お母さんは唐突にそんな事を言い出した。
「解った。ちょっと待ってて」
わたしは自室に戻り、着替えた。ナツメもリビングで着替え始めた。
*
少しして、着替えを終えたわたしはリビングに戻った。
「……似合ってるじゃん」
「ナツメは──前の制服のほうが似合ってたかもね……」
「ボク、男っぽいからね。こういう可愛い系の服は似合わないんだ」
「わたしは逆だよ。ボーイッシュな服装が似合わないんだ。背もあまり高くないし」
「そろそろ入っても良いかしらー?」
部屋の外からお母さんの声が聞こえた。
「いいよ、入って」
わたしに促されて部屋に入ったお母さんは、一度わたしたちをじっくり見ると、満足そうに頷いた。
「うん、よく似合ってるよ二人とも」
「ありがとう。ねえ、お母さん、この制服は何処の学校の制服? わたし、この近所でこの制服見たことないんだけど、もしかして遠いの?」
「いいえ、遠くないし、見た事無いのも無理はないの。だってその制服、デザインも新しいものだから」
「──どういうことですか?」
「貴女たちは私立の、桃李大学付属高校に編入になったのよ。それで、桃李は来年から制服のデザインを変えるっていうから、その試作で貴女たちの制服を作って貰ったの」
「え? 私立?」
「驚くのは解るわ。でも安心して。授業料も何もかも、今まで通り。足りない分は奨学金で賄えるわ」
「じゃあボク達はその奨学金を将来返さないといけないんですね」
「いいえ、貴女たちに関してはその返金義務はないわ。だって事故だもの、貴女たちが望んで学校を変えている訳ではないのだから、これくらいしてくれないと。大人は子供がのびのび育てる様な環境を作らないといけないのよ」
お母さんは自分に言い聞かせる様に、まるで独り言の様に言った。
「新しい環境にいきなり変わって最初は戸惑うかも知れない。でも、すぐに適応できるから安心して。貴女たちなら新しい友達もすぐに作れると思うわ。頑張りなさい」
お母さんの言葉は温かく、胸にすっと入ってきた。
「そのうち教科書も届くと思うから、確認してね。学校に行くのはゴールデンウィークが明けてからよ。間違えないでね」
お母さんはそう言って退室した。
リビングに残されたわたしとナツメも、それぞれ着替えて制服をしまった。
*
ナツメは夜遅くに帰って行った。お母さんが泊まっていくと良いと言ったにも関わらず、用事があるから、と、帰ってしまった。
お母さんも早々に寝てしまい、起きているのはわたし一人になった。
温かくなってきたとはいえ、夜はまだ寒い。それでもわたしは外の空気を吸いたくて窓を開けた。空には雲一つ無く、青白い月明かりが静けさを増した街中を照らす。物音全てを切り取ってしまったかのような街からは、人々が生活していた後の残り香が漂ってきた。
わたしはそれを大きく吸い込み、吐き出す。まるでその日の香りを記憶するかの様に。そして手を肩の高さまで上げると匂いを全て消した。
「──おやすみ」