アロマキャンドル
『何を見つけたら良いか──解った?』
何処からとも無く、声が聞こえた。
「解ったよ。わたしが見つけるべき、『匂い』……」
わたしは大きく息を吸った。
「わたしが見つけないといけないのは、貴女の──ううん、貴女と、わたしの匂い、だね?」
『そうっ、それっ! やっと気付いてくれたっ。探してっ、早くっ! この世界から抜ける前に、早くっ!』
「強香!」
わたしは与えられた能力を最大限に生かして、この世界に存在する匂い全てを自分の下へ集めた。
この世界は本当に不思議だった。匂いを発するものが何も居ない。それどころか、空間にあるべき匂いが何も無い。探すべきものは明白だったのだ。
「ッ!? ──どうして……」
『どうしたの? 早く』
「どうして、解らないの……?」
『自分の匂いが解らないの?』
「解らない……解らない解らない解らないっ!! どうしてッ!? どうして解らないのっ……」
『──貴女の匂いが解らないというなら、わたしの匂いを探して……。わたしの匂いなら、解るかも知れないから……』
声の言う事を信じて、わたしはもう一度力を振るう。集中して、丁寧に自分の周りに手繰り寄せていく。何も無い中を泳いで、泳いで、そして見つける。
「──あった。──見つけたよ、貴女の匂い」
『それを掴まえて。もう、時間が無いから。匂いがする場所まで走って』
わたしは言われた通りに走った。不思議と、この声の言う事を疑う気にはなれなかった。全て信じて、ただ言葉を受け入れて、わたしは走った。
匂いの出所には、何も無かった。ただぼうっと蒼い光が浮かんでいるだけで、走り出す前と何ら変わりない景色だった。
『掴んで、早くっ』
そっと手を伸ばして、匂いを掴む。
見えない上に形も無いものだから、しっかり掴まえられたか不安だった。でも、声は急かしてこない。多分無事に掴まえられた。
『やっと、見つけられたね』
「貴女のお陰だよ。ありがとう────わたし」
いつもより長い夢は──終わった。
*
──髪を撫でる感覚があった。優しく髪をすいていく、そんな手つきが心地よかった。
目を開けると、朝だった。こんなにしっかり眠れたのはいつ振りだろう。
身体を起こすと、わたしは硬直した。
ずっと望んでいたことが──実現したのだから。
「ナツメ──」
そう、ナツメが起き上がっていた。
わたしの視線の先には、病院着のまま、優しく微笑むナツメが居た。
「おはよう、ツバサ」
「ナツ……メ…………。これは……夢……じゃないんだよね?」
大粒の涙が頬を横断してシーツに落ちる。わたしはいつからこんなに泣き虫になったのだろう。
「よかった……本当に、よかった……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
ナツメに腕を伸ばして抱きしめた。そして、溢れ出る涙を堪える事無く、全て流した。
「ボクは簡単には死なないよ」
ナツメもそう言ってわたしを抱きしめた。
お父さんの言っていた事は本当だった。わたしは溢れそうな感情を涙に込めて、そのまま溢れさせた。
「──ねえ、ツバサ」
「……なに?」
「ツバサが手に持ってるのって、何?」
ナツメに言われて初めて、自分が何かを持っていることに気が付く。そう、わたしは右手に何かを握っていた。ナツメは肩に当たるその感触でわたしが何か持っていると判断したのだろう。
「アロマ──キャンドル……?」
「でもそれにしては──何も匂わないと思うけど? ツバサ、ちょっと香り強めて」
「うん……。強香。…………あれ?」
「どうしたの?」
「香りが──全くしないの……」
「え? そんなわけ……」
「本当だよ。わたし、匂いを司る能力持ってるんだから、わかるよ。これからは何のにおいもしない」
「蝋の匂いも?」
「うん、全く」
「そんな事って……」
「うん……わたしもありえないって思った」
二人で顔を見合わせて、わたしたちは不思議がっていた。
そのうち看護婦が来て、ナツメの意識が戻ったことを知らせると、軽い検査をして、ナツメは退院できる事になった。
*
ナツメが退院してからは、わたしの家で一悶着あった。
帰宅早々にわたしはお母さんに頬を打たれ、とても怒られた。しかしそれも愛あるからだと思うと、何だか嬉しくて顔がニヤけてしまう。
「ちょっと聞いてるの!? 人がどれだけ心配したと──」
「お母さん」
「何よ……」
「ありがとう。大好きだよ」
にっこりと笑ってそう告げると、お母さんも困ったような、照れたような、そんなどっちつかずな表情になっていた。
それからわたし達は桃李神社を訪れた。美影さんに、このキャンドルが何かを教えて貰う為に。
「本当に大丈夫? 数日間寝たきりだったのに、いきなりこんなに歩いたりして」
「平気平気。大丈夫だって」
ナツメは飄々とわたしの前を歩く。石段を登る様子を見ても、入院前と変わった様子は見られなかった。わたしはナツメの後ろをただ付いて行った。
「美影」
石段を全て登りきって神社に着くと、ナツメは早々に美影さんを呼んだ。
「はーい」
美影さんは間延びした返事を返して、木の上に現れた。
「久し振りですね、二人とも。何かありましたか?」
「何も無ければこんな寂れた神社に来たりしないよ。見て欲しいものがあるんだ」
「何でしょう?」
「これ──」
わたしは木の上から降りてこない美影さんに、白いアロマキャンドルを差し出した。
「それ、何ですか? ここからだと距離があって、その小さな物が見えないんですよ。こちらに投げていただけますか?」
わたしは何も言わずに指示に従った。下から上に、アロマキャンドルを放る。
投げたそれは美影さんの手元に吸い込まれる様に納まった。
美影さんは手にしたそれをじっくりと眺め、そして一呼吸置いて言った。
「──おめでとうございます」
「「え?」」
わたしとナツメの驚きの声が重なった。
「これは──『鍵』です」
──言葉を失った。
ナツメが命を賭けて、わたしがその精神的ストレスを抱えて手にした、たった一つのアロマキャンドル。そんなものが、この世界を抜け出す鍵になるというのか。
横に居るナツメをチラリと見る。ナツメも驚き、目を見開いていた。
「これは、ツバサさんの鍵です。『無臭のアロマキャンドル』、それが、鍵だったのです」
「──じゃあ、一つ目を──見つけたって……言うの……?」
「そういうことになります。これで一歩、この世界から脱するという目標に近づきました」
*
鍵は、美影さんに預けることになった。わたしが持っているよりも、誰からも干渉を受けない美影さんが持っていた方が安全だろうという三人の判断で。
「大切に保管させていただきます。ツバサさんが恐らく命まで賭けて手に入れたものなんでしょう、そんなものを杜撰に扱うわけには行きませんから」
美影さんはそう言って、いつもの様に微笑んだ。
それを合図とするかの様にナツメは帰宅し、わたしは美影さんと共に神社に残された。
「──あのね、美影さん」
「何ですか?」
「今回鍵を手に入れるに当たって、命を賭けたのはわたしじゃないの」
「? と、言いますと?」
「生死の境をさまよったのは、わたしじゃなくて、ナツメ。わたし、ナツメを殺そうとしたの」
「どうしてですか?」
わたしの口から出た言葉は、きっと衝撃的だった筈だ。しかし美影さんは驚く様子を見せずに、静かに問い返した。
「貴女が──嫌いだから」
「フフッ、面白い冗談ですね。本当に嫌いなのはナツメくんではないんですか? 私の事が嫌いで、どうしてナツメくんを殺そうと思ったのです?」
「冗談なんかじゃないよ。正真正銘、わたしが嫌っているのは、貴女」
「ならばどうして、私ではない誰かを殺す必要があるのです? 解りませんね」
「貴女をこの世界に閉じ込める為。貴女はわたしから大切なものを三つも奪った。だから復讐しようと思ったの。この世界に居る限り、貴女は梓さんには会えない。貴女がわたしにしたのと同じ様に、わたしも貴女から大切な物を奪ってやろうと思った」
「考えが子供ですね。そんな事したって、私と梓が会うのを先延ばししているだけだというのに」
「だって、嫌いな人だけが幸せで自分が不幸だと、癪じゃない。だから嫌いな人の幸せは妨害したくなる。人間としては当然だと思うけれど?」
「そうですね。でも貴女がそんな行動に出るとは予想外でした。私はてっきり、ナツメくんがそうするかと思っていました」
「ナツメにも何かしたの?」
「いいえ、何も。でも、そういう考えを持っているのはナツメくんだとばっかり思っていたので」
「ナツメは、わたしなんかよりもずっと大人だよ。わたしみたいにこんな幼稚な事はしない」
「フフッ、解りませんよ。私たち十二人は年齢がいくつであれ、子供なのです。この世界に居る限り、大人にはなれない。貴女も知っているでしょう?」
「そうだね。でも、人間的に成長する事は出来る」
「噛み付いてきますね。そこまで私が嫌いですか?」
「うん、大嫌い。正直、鍵を預けるのも嫌なくらいだよ。でも、仕方無いんだよ。貴女以上の適任者は居ない。きっとそれが貴女の役割なんだね。嫌だけど」
「それで、私を嫌うツバサさんは、これからも私に対する嫌がらせをするつもりですか?」
「しないよ、そんな事。知ってる? 争いって言うのはレベルが同じものの間でしか成立しないんだよ。だから、私はそんな安い挑発には乗らないし、貴女よりもレベルが上である事を主張するよ」
「随分と子供っぽい事言ってると思いますけどね」
「この世界で大人になれないって言ったのは美影さんじゃない」
「そうですね。ところで──」
「何?」
「転入先は決まりましたか?」
「さあ? 全部お母さんに任せてわたしは復讐に精を出してたから、知らないよ。今月末には決まるんじゃないの?」
「そうですか。じゃあ、そういうことにしておきましょう」
美影さんは何やら楽しそうに言った。
「何? ニヤニヤと……。まさかわたしたちの転入先、知ってるの?」
「さあ~? どうでしょうね~♪」
「……わたし、貴女のそういう所も嫌い」
「嫌いで結構で~す♪」
美影さんは楽しそうに木の上に腰掛けて、足をバタバタさせている。
「でもね、美影さん」
「はい?」
美影さんは、急に声の調子を変えたわたしを見て、足を止めた。
「わたしはもう、他人が幸せかどうかなんて気にしないことにしたの。他人を不幸にする事にエネルギーを使うよりも、わたし自身が幸せになる為に使うことにしたから。だからもうこんな事はしないよ」
「そうですか──。少しだけ、成長したんですね」
「そうだよ。大人にはなれなくても、子供を卒業する事はできる。人間、何も大人と子供の二択にしか分類できないわけじゃないんだよ」
「そうですね。というかそんなの分類する必要なんて無いのかも知れませんね」
もうすぐ、日が暮れる。活気のあった街に、夜という静寂が訪れる。
わたしはその曖昧な時間を、紫にも、紺にも、オレンジにも、黄色にも見える、混ざり合った色をした空を見ながら家路に着いた。
帰宅してリビングに入ると、そこにナツメの姿はもう無かった。
「ナツメちゃん、お母さんが帰ってきたから、家に帰るって言ってたわ。どう? この一ヶ月、友達と一緒に生活してみて、何か感想は?」
お母さんはそんな事を聞いてきた。
「そうだね──楽しかったよ。家族以外と暮らしてみるって言うのも、悪くないかなって思えた」
「そう。──貴女、中学校の修学旅行でもそんな事言わなかったのに──成長したのかもね」
「そうだね。わたしだっていつまでも幼いままではいられないんだもん。いつかは大人になってしまう」
「親っていうのは、それが嬉しくもあり、寂しくもあるのよね。子供が巣立っていく事は勿論嬉しいけれども、家に一人居なくなるだけで寂しくなっちゃうのよ」
「そうなんだ……。ねえ、お母さん、わたしね、ナツメの看病をしていた時に、夢を見たの」
「へぇ、どんな?」
「お父さんが、出てきた。わたしと話をして、お母さんに似て、綺麗になったねって言ってた」
「そう。沢山話せた?」
「うん。お母さんに、よろしくって言ってたよ」
お母さんはそれをわたしが見たただの夢だと思って話を進めている。今はそれでいい。わたしたちの力は、普通の家庭で生活していたお母さんには理解しがたいものだから。いつか、いつの日か理解できるようになったら、また改めて話そうと思う。
帰宅してから気が抜けたのか、わたしはソファで眠ってしまった。夢を見る余裕も無く、深い眠りの中に落ちていった。数日間の疲れが堪りまくっていたのだろう、後で聞いたお母さんの話によれば、丸一日眠っていたという。その事実を聞いた時はとても驚いた。