本当の気持ち
気付いたら、わたしはナツメの上に跨り、両手で首を絞めていた。指の一本一本に力を込めて、本気で殺そうとしていた。
「──に────でよ……」
ナツメは苦痛の表情を浮かべて、何も言わずにわたしを見ている。抵抗もせずにただ、わたしに視線を合わせていた。
「──バカにしないでッ!!」
わたしは激昂する感情全てをナツメに向けていた。
「アンタに何が解るって言うの!! アンタに──何がっ……」
震える手で少しずつ、ゆっくりと締め上げていく。加える力が大きくなるほどに、ナツメは苦しそうな顔になっていく。
「────つば……さ……に……ひと……は……ころせない」
呼吸が出来ず、絶え絶えの言葉をナツメは必死に紡いでいた。
「つば……は……やさし……から……だれ……も……ころ……ない…………」
しかしその言葉もどんどん間隔が長くなり、途切れる。
ナツメは苦しそうにわたしの腕を掴んだ。その手には力なんて、入ってなかった。
「もう……やめよう…………。なく……なら…………つらい……なら……やめよ……」
そこまで言われて初めて気付いた。わたしは泣いているということに。
頬を横切った涙が、ナツメの顔に落ち、濡らす。
──どうして。──どうしてわたしは泣いているのだろう。
「ツバサはそれで幸せになれるの?」
ナツメの声が聞こえてはっと彼女の顔を見る。彼女は苦痛に顔を歪め、言葉を発することもままならない状況だった。
「煩いよッ!! わたしが幸せになる方法なら自分がよく知ってるよッ!! 口出ししないで!!」
そうしてわたしは更に指先に力を込めた。既にその時、ナツメの焦点はわたしには合っていなかった。
しかし、見ていると徐々にナツメの表情が穏やかになっていった。苦しそうではあるけど、そんなに切羽詰まったような、死の淵に立たされた様な苦しみは、その表情から感じ取れなくなっていた。
数回の荒い呼吸の後、ナツメは喋り始めた。
「……ほら……やっぱりツバサは……人を殺せない。痛みを知ってるから……殺すことなんて出来やしないんだよ……」
ナツメはわたしの下から這い出て、上体を起こす。
「どう…………して……」
わたしは何故力を緩めてしまったのか解らぬまま、自分の両の手を見つめた。
「……会いたい人に会う事がツバサの幸せでしょ? こんな所で遠回りしても、不幸が続くだけだ。──帰ろう、でないとボク達は二人揃って死ぬ。ホラ、もう眠く────」
ナツメはそう言い掛けて、意識を失った。
コンクリートの地面にナツメの身体が打ち付けられるまでの時間が、酷くゆっくりに思えた。意識も無く、だらりと肩から垂れ下がる腕──それが一瞬のうちに、彼女の死をわたしに連想させた。
──彼女を殺してはいけない──いや、殺したくない、死んで欲しくない、と、心の底からそう思った。
ナツメの体が地面に叩きつけられる。
一度小さく弾んで、それから地面に沈んだ。
「嫌ああああぁぁぁぁっ!!!!」
目を開けてっ、お願いだからっ、目を開けてっ……!
*
深夜二時。
誰も居ない病院の廊下は、立てた音を全て吸い込んでしまうのではないかという位、不気味な静けさに包まれていた。
お願いだから目を開けて──。
一体どれほどの回数、どれほどの時間、この願いを口にしただろうか。
あの後、あまりよくは覚えていないが、わたしは救急車を呼んで、ナツメをこの病院に搬送したらしい。一緒に乗って、病院まで来た。
わたしは混乱しながらも医師にナツメの状態を伝え、処置が終わるのを待っていたという。混乱しすぎて、あまり良く覚えてはいない。全部後で看護師に聞いた話だった。
ナツメの母親には連絡を入れたものの、様子を見に来るような言動は見られなかったらしい。本当にナツメの母親なんだろうか。
頭の片隅ではそんな事を思ったかも知れない。しかし、わたしの意識は完全に昏睡状態のナツメに向いていた。
わたしはナツメの側にずっと居た。寝たきりでも、目覚めることを信じてわたしは側に居た。医師によれば、一度目が覚めると回復はあっと言う間だそうだ。わたしには詳しい事は解らないけれど、つまりそれは目覚めないなら回復の見込みが無いという事だろう。もしもの事を考えると恐ろしかった。
「お願い……目を覚まして……!」
もう、これしか願う事は無かった。誰も居ない真っ暗な病室で、わたしは枯れる程涙を流し、祈った。
そして泣き疲れて眠ってしまった。
*
──髪の毛が、揺れた。
目を開けると、薄暗い場所に漂っていた。蒼い光が点在して、辺りを少しだけ照らしている。
まるで暖かい水の中に居るかの様にそこは心地良くて、不思議な場所だというのに安心感があった。水の中なのに呼吸が出来るというのが全く気にならない。
そして──その場所は──何も匂いがしなかった。
『貴女は──忘れている──』
何処からとも無く声が聞こえた。聞いた事の無い、少女の声が。
『ねえ、思い出して──。大切な『匂い』を──』
その声は、聞いたことがあるような、無いような、そんなものだった。誰の声だったか思い出せない、そんな。
(匂いって……誰の……? ……何の……?)
瞼が重い。今にも閉じてしまいそうだ。声を出すのも億劫で、訊きたい事も心中で呟いただけだった。
『それを思い出して──っ! それは貴女だけの──貴女の友人なら誰でも知っている『匂い』だから──っ!』
声は、わたしの言いたい事を理解していた。声を出さずとも、コミュニケーションが取れていた。
(わたし以外は……知ってる……?)
『そうっ──。貴女以外なら、知ってる『匂い』──』
──そんなの。
そんなの、見当も付かない……。
匂いを──嗅覚を司る能力はわたしのもの──いわば、わたしは匂いを専門とする能力だっていうのに、どうしてわたし以外の人には認知できるというのだろう。
……頭が重い。思考が上手く纏まらない。
瞼が閉じられる。わたしは夢の中でも、意識を失った。
*
ハッと我に返った。
ナツメの事が最初に脳裏を掠める。椅子に座ったまま眠った筈なのに、いつの間にか倒れてベッドに身体を預けていた様だ。
ナツメを見ると、規則正しい呼吸を続け、眠り続けていた。
──まだ──起きない──。
外はまだ暗かった。ポケットの中から手繰り寄せた携帯の画面には、夜更けを示す時刻が映し出され、わたしがあまり長い時間眠って居ない事を示していた。
時間が過ぎるのが遅く感じた。
もしも。もしもこのままナツメが目覚めなかったらどうしよう、と、恐ろしい考えばかりが頭を過ぎる。そんな不吉な予感を払拭するという行為も手伝って、わたしは疲弊していった。
眠れないまま、時間は過ぎていく。一時間、二時間、それ以上。恐怖や罪悪感、絶望に苛まれる時間というのは、想像しているよりも長く、厳しく、辛いものだった。
上手く眠れない日が続いた。食事も喉を通らなかった。鏡を見ればどれだけやつれたのかが解った。それくらいわたしは精神的ストレスを抱えていた。
上手く眠れたらそれは良い日。食事が喉を通る事は殆ど無かった。飲み込んで喉を通過しても、すぐに戻してしまう。栄養ドリンクを飲んでかろうじて意識を保っては命を繋いでいた。
そうして何度か夢も見た。眠れたとしてもそれは浅い──ノンレム睡眠だったから、わたしはよく夢を見た。
ナツメが倒れたあの瞬間を多く見る中で、時々、水の中でたゆたい、声を聞く。ナツメが倒れた瞬間の記憶は毎回同じでわたしを苦しませるばかりだったけれど、水の中に居る夢は違った。いつも『声』は違うことをわたしに囁きかけてきた。何度もその夢を見たけれど、わたしはその声の正体に気付く事は無かった。というか、思い出せなかった。
そうしてわたしはまた、あの夢の中に落ちていった。
*
『──ねえ、そろそろわかった? 『匂い』の正体……』
声はいつもの様に、夢の中でのわたしの意識が覚醒すると話しかけてきた。
(解らない……。解らないよ……。今は、それどころじゃあ……ないし……)
『知ってるよ。貴女の身に起こったこと全て、知ってる。でも、これは見つけないといけない、気付かないといけないことだから──』
(でも──本当にわからないよ……)
『一人で無理なら、協力を頼もうよ』
(協力……? 誰に……?)
「僕が協力してあげるよ」
聞き慣れない声がした。瞑っていた目を開けて声のする方を見ると、何も言えなくなった。
(お父……さん?)
「そうだよ。大きくなったね、つぼみ。お母さんに似て、綺麗になったね」
(お父さん……お父さん!)
わたしはお父さんに向かって駆け出していた。
水の中に居るというのに、不思議と身体が浮くということが無かった。それも夢の中だからだろう。深く気にする余裕なんて無かった。
「触っちゃダメだ」
すぐに触れられる様な距離まで近づくと、お父さんは右手をわたしの顔の前に出して、静止を促した。
「触ったら、いけない決まりなんだ」
(どうして……?)
「触れてしまったら、僕の身体は散ってしまう。それくらい脆いんだ。夢に介入するというのは難しくてね。今だって辛うじて存在を保って話をしている。ふとした瞬間に、僕の存在は揺らいでしまうかも知れない。だから、今は黙って僕の話を聞いて欲しい」
(…………わかった)
「つぼみは、新しい力を手に入れたんだよね」
(うん……。香りを……操る力だよ)
「力がある者は、その使い方を間違えてはいけないって言うのは知ってるね?」
(勿論。でもっ……)
「安心して。つぼみを咎めるつもりはないから。僕はつぼみがしたことを全部知ってる。だからまずは聞いて」
コクリ、と小さく頷くと、お父さんは話を続けた。
「愛するものの為に、その力は使うべきなんだ。でもつぼみは間違えてしまった。仕方無いよ、間違わない人間なんて、そんなの気持ち悪いからね。問題はそこじゃないんだ。それは、いい」
お父さんの「間違えてしまった」という言葉が深く突き刺さる。いけないことをしたというのは、自分が一番良くわかっている。それを指摘されるというのは、なかなかに辛いものだった。
「ねえ、つぼみ。君が愛するものはなんだい?」
突然の問いかけに、わたしは答えることが出来なかった。わたしが愛して良いのか、本当にその資格があるのか、そういう考えが邪魔をした。
「愛することに資格なんてないよ。そうか、つぼみは大切なものが沢山あるんだね。それはとても良いことだよ」
どうやらお父さんにはわたしが考えていることが全て筒抜けの様だった。嘘なんて吐くだけ無駄になる。
「じゃあ、つぼみが大切な人達の大切なものってなんだと思う?」
(わたしの大切な人達が……大切にしているもの……?)
わたしの頭の中には、ナツメを始めとした選ばれた子供達の顔が、一人ずつ浮かんでは消えた。そしてその最後に思い浮かべたのが、お父さんと、お母さんだった。
「なんだ、ちゃんと解ってるじゃないか。ここまで来たら、すぐにわかるよ。特に最後に思い浮かべた二人が最も大切にしているものが何だか、解るかい?」
(お父さんと──お母さんが──一番大切にしてるもの……?)
「解ってるじゃないか。つぼみは正しいよ、自信を持って答えを口にしてごらん?」
「わたし──なの?」
わたしがこの世界で初めて言葉を口にすると、突然お父さんの身体が発光した。
「ああ、そろそろ時間みたいだ。僕の力も大分弱まったなぁ……」
それは二周目の世界で梓さんが消えた時とよく似ていた。
「お父さん……消えちゃうの?」
「ここからはね。でも、いつかきっとまた、夢を介して会えるから。だから──お母さんによろしく。帰れなくてごめんねって、伝えてくれるかな?」
「待って、行かないで。わたしもっとお父さんと話していたいよ、お父さんと一緒に居たいよ。だからお願い、行かないで。わたしを独りにしないでッ……」
自然と頬を涙が伝った。あまりに泣き過ぎて涙なんてとうに枯れ果てたと思っていたのに、まだ溢れ出る様に流れた。
「つぼみはもう、独りなんかじゃないだろう? 君を慕ってくれる大切な仲間が居る。同じ悩みを共有して、一緒に苦しんでくれる人達が居る。だから──」
「でもっ! わたしはその大切な人を傷つけた! 殺そうとしてしまったッ! 愛される資格も、大切にされる権利すら、わたしにはもう、無いんだよッ!!」
「大丈夫。絶対に大丈夫だから、素直な気持ちを伝えてごらん。正直に話してごらん。彼らなら、きっとわかってくれるよ」
お父さんの身体は足元から徐々に消えていく。そしてその消滅はもう、肩の辺りまで迫っていた。
「本当にお別れだよ、つぼみ。最後になるけど、聞いてくれるかな?」
「何? 消えちゃう前に早く教えて」
「僕はつぼみの事を、心の底から愛しているよ……」
──そう言い終えた瞬間、お父さんは完全に消え去った。穏やかな笑顔を浮かべて、まるでこれから眠るのではないかという位、穏やかに消えて逝った。
わたしはその場に泣き崩れ、お父さんの言葉をただひたすらに思い出していた。




