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切り取られた匂い  作者: 本郷透
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強い匂い

 気が付くとわたしはよく見知った、けれども長らく訪れていない場所に居た。目に映る景色は懐かしいと言っても過言で無い程にわたしから遠ざかっていた物だ。

 どうしてこんな所に居るのだろう、と、一瞬不思議に思ってしまったがそれも数秒の思考で解決した。二つの記憶が互いを消そうとして混乱したのだ。まるで本物が偽者を排除するかのような、そんな感覚。当然どちらの記憶も残っている。大切な身体の記憶と今まで積み重ねた魂の記憶。それら二つが噛み合わないからぶつかって、今みたいな事が起こる。厄介な事に巻き込まれた物だと溜息が出そうになる。

「眼帯……してるんだ……」

 片方の目を塞ぐ違和感、それが眼帯だと気付くのに時間は掛からなかった。指先でゆっくり触れて撫で回し、懐かしいその感触を思い出す。それが意味するのはたった一つ。過去にもあった事実で、わたしのちからが忌み嫌われているという事だ。

 どんよりとした灰色の空の下、雨の匂いに紛れて私は昼食を中断した。何かを食べている気分じゃない。さっきの記憶の混乱で少しだけど頭痛はするし、何よりこんなに雨の匂いがする場所での食事だなんて気が引けた。

 その場に弁当を置いてそっと屋上を立ち去る。午後の授業はサボる事にした。繰り返す時間の中では、一度位そのシナリオに背いたとしても問題は無いだろう。どうせ次があるのだから。

 階段を降りて、一階に着く頃には授業が始まってしまっていた。廊下には教師も学生も誰一人として居ない。教室で当たり前の様に授業を受けている。それが本来あるべき学生の姿なのだろうけど、今のわたしたちには関係ない。それより、探し人を見つける方が優先事項の高い事だった。

 あの時──三周目の世界で見かけた、黒髪の学生。一見男の子の様に見えるその人は、わたしと同じ制服を着ていた。わたしと同じ、女子校の、制服を。特徴の無い黒いショートカットヘアー。だけれども人並みはずれた赤い目が印象的で、忘れられない。彼女は今、この校舎の中に居るだろうか。

 一つ一つ、教室を巡り覗き込んで探すのが一番確実な方法だけど、それだと教師に見つかってしまう。それだけは避けたかった。余計な時間は掛けられない。時間は有限。有効に使わなくてはいけない。全てがリセットされてしまうまでの時間は、とても短い。

 あの時の彼女の制服の特徴を目を閉じて思い出す。わたしたちの学校の制服はタイの色で学年が識別出来る様になっているから、それを思い出せば探す手間も一気に減るだろう。

 確か────赤──。そう、目の色と同じ赤色だった。ともなるとわたしと同じ学年ということになる。

 ナツメ──といっただろうか。彼女の名前は。それが苗字なのか名前なのか解らない以上、探しようは無い。でも顔だけは覚えている。やはり地道に探そう。

 わたしは一つ一つの教室をこっそりと覗いて回った。教師に見つからない様にそっと扉から一人ひとりの顔を確認しては次の教室へと移動する。そんな地味で骨の折れる様な作業をずっとしていた。

 ──しかし目的の人物は見つける事が出来なかった。どの教室にも、居ない。

 何かの事情があって今日は欠席なのだろうか、わたしの作業は無駄に終わった。

「どうして居ないの……」

 学生が学校で勉学に励むのは当然の事だというのに、彼女は居なかった。前に見た時は病弱には見えなかった。だけど今学校に居ないとなるとサボっているとしか言い様が無かった。

「誰が居ないって?」

 不意に背後から声がした。心臓が飛び出そうな程に高鳴り、その一瞬で冷や汗が吹き出る。教師に見つかったのではないかとかなり焦った。恐る恐る振り返るとそこには探していた人物その人が立っていた。

「──居た……」

「? ボクを探してたの?」

「うん……。一つ一つの教室を回って探してたの……」

「ここじゃ何だから、移動しようか」

「そうだね」

 彼女に誘導されてやってきたのは三階のスカイラウンジ。休憩所として使われているスペースだ。飲み物の自動販売機が設置してあり、昼休みにここで友人とお弁当を囲む学生も少なくない。しかしわたしが訪れたのは初めてだった。

「それで? どういう用件でボクを探していたの?」

「その前に聞かせて? どうして貴女は授業を休んでいるの?」

「それはこちらからも同じ質問をさせてもらうよ。でもそんな事をいちいち訊いていたら埒が明かない。さっさと本題に答えてよ」

「──解った。貴女は誰?」

「ハハッ。ボクを探していたっていうのに、ボクの名前も知らないの? 笑える話だね」

「そうだね。ふざけてるって自分でも思う。でも、わたしは貴女の顔しか知らない。何も知らないの。だから名前を教えて? 貴女が貴女であるという証拠を示して?」

 ──彼女が賢いなら…………あの事を覚えているなら、この質問の真意は伝わるだろう。

「──ボクはナツメ。霧生ナツメ。ボクがボクである証明なんて、そんなの簡単だよ。見えるんでしょ? この目。だからそんな質問をしたんでしょ?」

「貴女が貴女であってわたしはほっとした。これでようやく次の話に進める。──貴女が知っていることを話してくれる? わたしは今、情報が欲しい。あの世界から放り出されてからまだ間もない。わたしに圧倒的に不足しているのは、情報。それによってこれからどうしたらいいか、それを決められる」

「ボクが何を知ってると思ってるの? 下手をすればボクは君よりも何も知らない」

「──話してくれるつもりは──ないんだね」

「当然でしょ。名乗らせるだけ名乗らせといて自分は名乗らない──そんな怪しい相手に何を教えたいと思う? この世界ではそれじゃあやっていけない。簡単に騙されてしまう。それは破滅を意味する事」

「ごめんなさい。名乗るのを忘れていた事には謝るよ。でも、それを言ったからと言って教えてくれるつもりも無さそうだけど……」

「ああ、解る? ボク、誰とも協力するつもりって無いんだ。いつも自由気ままに好き勝手やるのがすきなんだ」

 ──ああ、この子は典型的な一人っ子だ。自己中心的で甘やかされて育ってきたんだ。それを思わせるには十分な言葉と態度だった。

「ボクは自分の考え、理論で動くよ。馴れ合いなんて、ごめんだよ」

 ──反吐が出る、と吐き捨てて、彼女は近くの階段に向かって歩き出した。

「待って! 何処へ行くの?」

「何処だって関係ない事でしょ? ボクは学校なんかに残るつもりなんてない。家に帰るよ」

「待ってよ」

「まだ何か、話すことがあるの?」

「そうじゃなくて、そっちには行っちゃダメ」

「どうして? ボクの勝手でしょ?」

「そっちから──僅かにだけど──卵が腐った様な匂いがするの……。嫌な予感がする。ここを離れよう」

「そんな嘘、誰が信じるのさ」

「いいからっ!!」

 わたしはナツメの手を取って、彼女が向かったのと反対方向に走った。

「ちょ……ちょっと!!」

「ここに居ちゃダメだよ!」

「何で!」

「解らない。でもっ」

 早く学校から立ち去れ、と本能が告げる。ここは危ない、逃げろ、と。

 走るごとに匂いはだんだん強くなる。階段を駆け降りて一階に着くと気分が悪くなるほどの強い匂いが鼻を突く。

「うっ……」

 その匂いに耐えられなくて思わず口と鼻を手で覆う。

「──確かに」

 ナツメの手を握っている力が弱まったお陰で彼女はわたしから手を離した。

「確かに、僅かだけど腐った卵の匂いがするね。これはきっと硫化水素だ。理科室から漂ってくる匂いだね。一年生が実験してるのかな。硫化水素はその匂いが強いから鼻が麻痺してしまう。そうして大量に吸い込んで死んでしまう人だって居る。あんたの勘が正しかったね。早くここを出よう。ついでに言えばあの気体は可燃性。少しでも火の気があれば爆発するよ」

「……実験室の人たちを……見捨てるって言うの……」

「ボクたちには関係の無いことだよ。余計な事をして運命を捻じ曲げるのがいけないっていうのはあんたの方が理解してるんじゃないの?」

 ──彼女の言う通りだった。

 わたしはあまりの悪臭にその場に膝を付いた。

「ホラ立って。早く校舎から出ないとボクらも危ないんだから」

 ナツメの促す通りにわたしは立ち上がり、昇降口に向かって走り出す。どうして彼女はこの匂いに耐えられるというのだろう。ハンカチで口元を覆わなければ、あまりの不快感に吐きそうになる。心なしか、少しだけど頭痛もする。早くこの空間から立ち去りたい。


 校舎から出て、学校の敷地を跨ぐか跨がないかというところで、背後から爆音が聞こえてきた。恐らくさっきナツメが言っていた通りに爆発したのだろう。あれで何人が怪我をして、命を落としたというのだろう。

「早く行こう。ここに居たら怪しまれるよ」

 ナツメはそんな事お構い無しに足を進める。もう硫化水素の匂いはしない。わたしは口元を覆っていたハンカチをポケットにしまった。

「どうして……」

「何か言った?」

「どうして貴女はあれだけの爆発があったというのに、動じないの。多くの人命が失われたかも知れない。心を痛めることは無いっていうの?」

「──甘いね。あんたは甘い。そこまで真っ白じゃ生きていけないよ。手の届く範囲にしかボクらが手に出来るものなんて無い。他の物は捨ててるも同然なんだよ」

「それが人の命でも!? 解らないッ! どうしてそんなに冷静でいられるの!?」

「──世の中では多くの人が毎日──いや、毎秒命を落としてる。けれどもそれはボクらの知らない海の向こうでの話だったり、見えない場所での話。人間はそれがたまたま見える場所での出来事ならば同情の涙を流すけれども、見えないところの出来事なんて知らない。それと同じことだよ。見える範囲にある命だけれども、ボクには直接関係無い。だからいちいち悲しんでいられない。あんたはどうなの? そうやって見ず知らずの命の為にいちいち涙を流してあげるっていうの? お優しいことだね。胸焼けしそうだ。そんなに弱いのに協力が欲しい? 笑わせるよ、本当。もう少し強くならないと、これから生きていけないの、知ってるでしょ?」

 ナツメの非情な言葉はわたしの胸を抉った。抉られた傷は深く、早々簡単に治るものではないだろう。何も言い返せなかった。彼女が正しかった。

「────ごめんなさい。──貴女の言ってる事が──正しいよね……。わたし、ツバサ。──雪白ツバサ。本当の名前はつぼみだけど……そう呼んで」

「やっと名乗った。まあ、いいや。──合格だよ。ボク一人で行動するなんてあれ、全部嘘だから。ボクだって情報が無いと何も出来ない。乗りかけた船からは降りる事だって出来ないんだから。でも、そう簡単に情報を渡す訳にはいかないからね。試させて貰ったよ。ツバサ、アンタは合格。これからよろしく頼むよ」

 ナツメは右手を差し出してきた。わたしも同じく右手を差し出してその手を握る。

「じゃあ、まずは誰にも見付からない場所に行こうか。制服で学校サボってるの見付かったら大変でしょ」

「家に帰って着替えようにも親が居るからね……。それにわたし、長いこと家に帰ってないからお母さんが心配するし……」

「ツバサの家も母子家庭なの?」

「うん。お父さん、わたしがまだ小さい時に私を庇って死んじゃった」

「交通事故か何かで?」

「ううん。黒い何かに飲まれちゃったの。わたしがあの時話しかけなければそんなことにはならなかったんだけどね」

 重い話はどうも苦手だ。雰囲気を緩和するようににこりと微笑む。

「そっか……。ツバサの能力は家系的なものだったんだ。ごめん、嫌な話思い出させて」

「いいよ。もう終わったことだもん」

「ボクの家は両親が離婚したんだ。ボクが生まれる前に父さんが家を出て行った。そしてその一ヵ月後にボクが生まれてそれから母さんと二人で暮らしてる。でも母さん、デザイン系の仕事してるから現場を飛び回ってて家には殆ど居ないんだ。幸いお金には困ってないからご飯も何もかも問題ないけどね」

 ナツメの家庭は我が家よりも大変な事情を抱えている様に思えた。他の家庭の事情を知るのなんて初めてだからそんな事思うのかも知れないけど。

「旧市街、行こうか。あそこなら大丈夫。大抵の職場は新市街だから人なんて殆ど居ない。農家の爺さんや婆さんは子供を見慣れていないから見つけても放っておいてくれるだろうし」

「そうだね。旧市街なら安全かも」

 わたしたちは旧市街の中でも更に人の居ない奥の方、森の方へと足を進めた。子供の足では一時間くらい掛かるであろう長い一本道もわたしたちの足なら三十分と掛からずに着ける。

 適当な路地裏から旧市街へと抜ける。予想通り誰も居らず、人目を気にする事も無い様だ。

「旧市街ってどこか座れる場所とか無い訳?」

 長く歩きすぎて疲れたらしいナツメが言い出す。

「さあ? わたしも新市街に住んでるからこっちには来ないし……。よく解らな……あっ」

「何かあったの?」

「そこに階段があるよ。きっとどこか開けた場所に出られるんじゃないかな?」

「えー……。薮蚊出そう……」

「鳥居が見えるからきっと神社だね。石段には落ち葉が残ってる。きっと掃除がされて無いんだね。神主はもう居ないだろうね。ここなら休めるよ」

「じゃあ、行こうか。でもその前に」

 ナツメはふと視線を逸らした。ずらした視線の先には寂れた駄菓子屋があった。人が居るのか居ないのか、それすら解らないほどに寂れて、不気味な雰囲気を醸し出していた。

 ナツメは恐れる事無く駄菓子屋のドアを開けた。立て付けが悪く、ギシギシと軋んでいた。なかなか開かないそのドアを両手で開ける。強引に開けると扉は取れそうだった。

「ちょっとナツメ……。壊れそうだよ……」

「大丈夫でしょ」

「壊れたらどうするの!」

「大丈夫だって。──すみませーん、誰か居ますかー」

 ナツメの呼び出す声は薄暗い店内に吸い込まれて行った。返ってくる音は無い。

「やっぱり誰も居ないんじゃないかな……」

「いや、居る。商品は並んでるし、埃も少ない。最近までここに人は居たよ。まあ良いよ」

 ナツメは財布から硬貨を取り出すとその三枚をカウンターと思しき台に置いて冷蔵庫のラムネを二本掴んで店を出た。

「──全然冷えてないね。コンセント繋いでないな……」

 石段を上りながら一本のラムネを目の前に突き出す。ナツメは購入したうちの一本をわたしにくれた。

「誰も居ないんだもん。電気の無駄だよ」

「だとしても客が来ることを見越して冷やしておくのが常識でしょ……」

「きっと店主はご老人なんだろうね。年金で暮らして──子供と触れ合うのが好きだったんじゃないかな、趣味で駄菓子屋を営んでいた。それが自然かもね。この辺は田畑が多いからそっちに行ってるんじゃないかな」

 この畑と水田の多さなら、一家で一つは田んぼも畑も持っていると思う。

「それにしても長いね。この石段」

「そうだね。それに不気味だよ」

 ──不気味。そう、不気味。連なった紅い鳥居は所々欠け、(コケ)が多くの面積を覆っている。その全てが同じ様に、桃李神社という掠れた明朝体がコケの隙間から見える。湿気があるわけでもないのにじめじめと重い空気は身体に纏わりつく。

「ここは不気味な場所だ」

 ナツメもどうやら同じ事を感じたらしい。怪訝そうな顔をして当りを見回している。

「湿気があるわけでもないのに苔が多いなんて、本当に不思議。ここだけどこか切り取られた場所みたいだ」

 ──切り取られた。その単語にわたしは敏感に反応してしまった。この世界そのものが切り取られた世界であるだろうという事に気付いてしまっては反応してしまうだろう。

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