聞きたくない
「絑音、おーい、絑音~」
朝起きたら、いつもはするはずのご飯の匂いがしなかった。でも、洗濯機が回っている音はする。下で何かあったのだろうかと思い、リビングに向かうと……いた。頭からすっぽり毛布をかぶって、ソファに体育座りでくるまっている。軽く肩を叩くと、もぞりと動いた。
「冷哉、頼むから、お願い、揺らさないで」
毛布から切れ切れにくぐもった声がする。頭の毛布をそっと取れば、絑音はまぶしそうな顔で目をぎゅっとつぶった。顔色が悪い。唇の色も、いつもの綺麗な桜色でない。蒼い。
「辛いのか」
「頭、痛くて、吐きそー……。起きたとき、から、頭痛が、してて。大丈夫だと、思って、洗濯、してたら、吐き気も、してきて」
目を覆い隠すように、顔を膝の間にうずめる。
「これは、ヤバイな、って思ったから、部屋行こうと、したんだけど、足に、力、はいらなくて、とりあえず、ここ来といた」
絑音の頬を触ってみる。熱くはない。逆に自分より冷たい。いつも温かい絑音が冷たいと、少し怖くなる。それに呼吸が浅い。
「みう、呼ぶか?」
みうとは冷哉が認めている看護士の女のことだ。絑音の具合が悪いとき、よく絑音を診てもらっている。
「いらない」とかすかな声がする。
「寝てれば、治ると思う。すまん、今日、何もできない、かも……」
哀しそうに、絑音は言った。
絑音を部屋まで運び、止まった洗濯機から洗濯物を取り出す。ふと、絑音の哀しそうな顔を思い出す。
こういうことはよくある。絑音の具合が悪くなって、代わりに、冷哉やみう達が家事をするのは。生まれたときから身体が弱いのは仕方のないことだし、代わりに家事をすることは何の苦でもない。
でも、絑音は本当にすまなそうな顔をする。「ありがとう」のあとに「ごめん」と言う。――はっきり言って、「ごめん」など聞きたくない。絑音は何一つ悪いことをしていないのに、謝る必要などないはずなのだ。
外でプリンを買ってきた。絑音はプリンが大好きだ。きっと食べてくれるに違いない。
「大丈夫か、絑音」
「……んー。吐き気は、おさまってきた」
吐き気があると食べたくないと言うのだが、今なら大丈夫かもしれない。
「プリン買ってきた。食べられるか?」
布団をきゅっと掴んで、しばし考え込み。
「たべる」
良かった。まだ自分よりも体温は低いが、顔色はさっきよりもいい。ほっとした。少しずつ回復しているようだ。
ちょびちょびとプリンを口に運ぶ。ゆっくり、ゆっくり。元々食べるのが遅いから、いつもの倍ほど時間がかかった。また疲れたのか、自分で布団にもぐる。
「おやすみ」
絑音の髪を軽く触って言ってやる。この言葉を言うと、笑ってくれるから。
「おや、す…み」
思ったとおり、絑音は笑ってまた目を閉じた。
「さて、次は何するかな」
冷哉は自分でできる限りのことをし、いつ絑音が起きてもいいようになるべくそばにいた。
「ん……?」
眠ってしまったようだ……って。
「絑音、あれ、いない」
慌てて周りを見渡せば、肩から毛布が滑り落ちる。絑音がかけてくれたに違いない。
匂いがした。そろそろ夕飯の時間。絑音のご飯の匂いだ。足音を立てないとか言っていられない。走って階段を下りる。
リビングのドアを開けた先には。
「あ、冷哉!なんか俺、寝たら元気になってさ。待ってて、今夕飯できるから」
明るく笑う。いつもどおりの絑音だ。近寄り、顔を確認する。健康的に白い肌。綺麗な桜色の唇。頬を触れば、温かい。そう、この温かさだ。
「……冷哉?動けない」
知らず知らずのうちに腕の中に抱き込んでいた。温かい。自分よりも温かい。それを感じたかった。
下から絑音が見上げてきた。コンタクトを外したその目は、漆黒。
「ありがとな。ほとんど、家事やってくれて」
絑音がお礼を言った。
「それに――」
言わせない。「ごめん」なんて聞きたくない。
その一言を言わせないために、冷哉は絑音の桜色の唇を、冷哉のそれで、塞いだ。