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第8話:白壁の鎮魂歌(レクイエム)、アイの鎖を解き放て

「……シンジ、見て。わたくしたちの海が、あんなに……」

 倉敷川のほとり。かつて米蔵として栄えた白壁の街並みが、今は不気味な黒い霧に侵食されていた。

 雲海から実体化した牛鬼の「肉体」は、高梁から倉敷へと流れ込み、江戸時代から続く美しい景観を、神話の濁流で飲み込もうとしている。

「……ああ。だが、まだ終わっちゃいねえ。ここが、あいつの……バロンの『書き換え』の終着点なんだろ」

 慎二は、ボロボロになったデニムジャケットの袖を捲り上げた。

 右手の紋章は、もはや皮膚を焼き切らんばかりの白熱を帯びている。隣に立つ凛花――いや、瀬戸内を司る乙女・凛花の瞳には、かつての犠牲の記憶と、慎二への消えない想いが交錯していた。

「慎二、凛花さん! 倉敷アイビースクエアのつたが……!」

 数馬が叫ぶ。

 赤レンガの壁を覆うアイビーが、牛鬼の魔力によって「黒い触手」へと変貌し、逃げ遅れた人々を捕らえようとしていた。

「数馬、お前は市民の誘導を! 凛花、俺たちは川を遡って、バロンの元へ行くぞ!」

「ええ、シンジ。……わたくしの『声』を奪ったあの悲劇、今度こそ二人で書き換えて見せますわ!」

 二人は、柳の並木が揺れる倉敷川の石畳を駆け抜けた。

 川面からは、無数の「牛の角」を模した水柱が立ち上がり、行く手を阻む。

「……邪魔だッ!」

 慎二は、蒜山で手に入れた「火炎鎖」と、児島の「インディゴの鎖」を螺旋状に編み込み、巨大な**『双龍の鎖』**へと進化させた。

 オリーブオイルの潤滑とデニムの強靭さ。それは、農家として生きてきた慎二の日常と、凛花への愛が融合した究極の武器だった。

「……来たね。この美しきキャンバス、倉敷へ」

 中橋なかばしの上。

 バロンが、奪った『吉備津秘録・完結編』を掲げて立っていた。

 彼の背後では、巨大な牛鬼の心臓が、倉敷の蔵造りの建物と一体化し、ドクンドクンと脈打っている。

「バロン! あんたの言う『ハッピーエンド』のために、この街を、みんなの日常を壊させるもんか!」

「……日常? 慎二、君は気づいていないのか。……この『せとうち』の美しさは、彼女のような犠牲の上に成り立つ、偽りの平穏なのだよ。……私はそれを壊し、神話の神々が支配する、真の『永遠』を刻みたいのだ」

 バロンのモノクルが赤く光る。

 彼は本を破り捨てた。その破片が黒い蝶となり、街を埋め尽くす。

「……さあ、凛花。君の魂を、この牛鬼の瞳に捧げたまえ。そうすれば、君は二度と『声』を失う恐怖に怯えることはない。……君は、世界の理そのものになるのだから!」

 黒い蝶が、凛花を包み込もうとした。

「……嫌ですわ!」

 凛花が叫んだ。その声は、かつての犠牲を強いる神話への、明確な拒絶だった。

「わたくしは、世界の理になどなりたくありません! ……わたくしは、シンジが育てたオリーブを食べて、不器用な彼の言葉を聞いて、ジャージー牛乳の美味しさに驚く……そんな、ちっぽけな『日常』を生きたいのです!」

 凛花の指輪が、七色の光を放った。

 それは、過去の犠牲を「感謝」に変え、未来へ繋げる**『瀬戸の祈り』**だった。

「……シンジ! 今ですわ!」

「おうッ! ……全開で行くぞ、オリーブの誇り(プライド)を賭けて!」

 慎二は、倉敷川の水を鎖に纏わせた。

 火炎、インディゴ、そして瀬戸内の海水。

 三つの属性を乗せた慎二の鎖が、バロンの展開する「神話の防壁」を紙細工のように切り裂いた。

「……なっ、神話を物理的に破壊するというのか!? 人間の、ただの農家の意志が……!」

「……ただの農家じゃねえ! ……あんたに、この街の『アイ(藍・愛)』の重さが分かるかよ!」

 慎二の鎖が、バロンの胸元のモノクルを粉砕し、そのまま牛鬼の心臓へと突き刺さった。

 オォォォォォォォォォォッ!!

 街全体を震わせる、牛鬼の最後の断末魔。

 黒い霧が、慎二の放つ純白の光に浄化され、桜の花びらのような光の欠片となって、倉敷の空に舞い上がった。

 静寂が訪れた。

 朝日が、白壁の街並みを優しく照らし出す。

 バロンは、力なく橋の上に膝をついていた。

「……ふ。……私の描いた物語は、……君たちという『ノイズ』によって、台無しだ……」

「……バロン。あんたの物語は、誰かの犠牲の上にしか成り立ってなかったんだよ。……俺たちは、二人で新しいページを書いていく。……それだけだ」

 慎二は、バロンに手を差し出すことはしなかったが、その眼差しには怒りではなく、哀れみが宿っていた。

 バロンは自嘲気味に笑うと、光の霧の中に溶けるように姿を消した。……いつか、別の物語で再会することを予感させながら。

「……終わったのか? ……本当に?」

 物陰から、数馬が恐る恐る顔を出した。

 彼の眼鏡は割れ、服は泥だらけだったが、その表情は晴れやかだった。

「……ああ。……お疲れ、数馬。……お前の資料館、俺のオリーブの稼ぎで、絶対建て直してやるからな」

「……その言葉、録音しとけばよかったよ」

 数馬が笑う。

 そして、慎二は隣に立つ凛花に向き直った。

 彼女の体は、微かに透き通っていた。

 封印が完遂されたことで、神の末裔としての彼女の役割が終わり、元の場所へ還ろうとしているのかもしれない。

「……凛花。……行くなよ」

 慎二が、彼女の手を強く握った。

 デニムの鎖は消え、そこにあるのは、土と油で汚れた、人間の男の手だった。

「……わたくしの『声』は、もう海にはありません。……全部、あなたの心に届けてしまいましたもの」

 凛花が、慎二の胸に顔を埋める。

 彼女の体が、温かさを取り戻していく。

 神話の女神ではなく、一人の「凛花」として、彼女はこの地に留まることを選んだのだ。

「……シンジ。……わたくし、お腹が空きましたわ」

「……ははっ、やっぱりそれかよ」

「当たり前ですわ。……わたくしを『一生、美味しいもので満たす』と、後楽園で誓ったのは、どこの誰ですの?」

 慎二は、彼女を力いっぱい抱きしめた。

 倉敷の白壁の向こう側から、新しい一日の始まりを告げる、路面電車の音が聞こえてきた。


【エピローグ:潮風の招待状】

 数ヶ月後。

 牛窓のオリーブ園。

 そこには、元気にオリーブの収穫を手伝う(相変わらず世間知らずな)凛花と、彼女に振り回されながらも幸せそうな慎二の姿があった。

「シンジ! 早くしてくださいまし! 今夜は、数馬さんと一緒に『えびめし』パーティーなんですのよ!」

「わかってるよ! ……ったく、女神様が食いしん坊すぎるのも困りもんだぜ」

 慎二の右手の紋章は消えていたが、代わりに左手の薬指には、あの日、凛花が付けていた真珠の指輪が――慎二の指に合うように形を変えて――光っていた。

 瀬戸内海の風は、今日も穏やかに、新しい物語を運び続けている。




(第一稿完)

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