第7話:天空の猫城主、雲海に沈む嘘
「……シンジ、ここは……空の上なのですか? わたくし、また海に還ってしまったのかと……」
岡山県高梁市、明け方の臥牛山。
慎二と凛花、そして数馬は、登山道の途中で足を止めていた。
目の前に広がるのは、見渡す限りの白い海――雲海だ。
朝日を浴びて黄金色に輝く雲の波間から、ポツリと山頂の本丸が姿を現している。その幻想的な光景は、まさに「天空の城」そのものだった。
「……海じゃねえよ。霧だ。……だが、綺麗だな。オリーブの丘から見る瀬戸内海とは、また違う」
慎二は、凛花の横顔を見つめた。
新調したデニムジャケットが、朝露に濡れて深いインディゴブルーに輝いている。彼女のエメラルドの瞳が、雲海に反射して不思議な光を帯びていた。
「……慎二、凛花さん。見とれてる暇はないよ」
数馬がノートパソコンの画面を指差す。
「レヴィアタンの通信記録によると、彼らが狙っているのは、この松山城の本丸下に眠る**『土の楔』**だ。……牛鬼の『肉体』を現世に繋ぎ止めるための、最後の錨さ」
「……肉体。瀬戸大橋の角、蒜山の熱源、そしてここ。……あいつら、本当に牛鬼を完品で復活させる気か」
「……急ぎましょう、シンジ。……わたくしの、もう一つの『記憶』が、あのお城で泣いていますわ」
凛花が、真珠の指輪を握りしめる。
彼女の表情は、いつになく真剣で、そしてどこか悲しげだった。
三人は、霧に包まれた急勾配の登山道を駆け上がった。
松山城は、現存十二天守の一つであり、日本一高い場所にある山城だ。その堅牢な石垣と天然の断崖は、かつて多くの敵を退けてきた。
本丸の門をくぐった時。
「……誰だ、お前たちは。……ここは、私の城だぞ」
瓦礫の影から、不意に声がした。
姿を現したのは、一匹の……猫だった。
白と茶色のブチ模様。首には小さな鈴がついている。その猫は、慎二たちの前で作法正しく座り、人間の言葉で、威厳を持って語りかけたのだ。
「……なっ、猫が喋った!?」
数馬がひっくり返る。
「……ふむ。『守護者』と『女神』、そして『記録者』か。……遅かったな」
猫は、自らを松山城の「猫城主」と称した。
「……私の名は、三十郎。……この城の石垣に封じられた『土の楔』を守る、精霊さ。……だが、先ほど、黒い男たちによって、楔は奪われてしまった」
「……バロンか! どこへ行った!」
「……天守閣の最上階だ。あそこは、この山で最も霊力が集まる場所。……彼はそこで、奪った楔を使って、雲海そのものを牛鬼の『肉体』へと書き換えようとしている」
三十郎が、悲しげに鈴を鳴らす。
「……凛花。……お前は、かつてこの海を鎮めるために、自分の『声』を犠牲にした。……それを忘れたのか?」
「……えっ? わたくしの、声……?」
凛花が、自分の喉元を押さえる。
その瞬間。天守閣から、地響きのような爆音と、黒い霧が噴き出した。
「……素晴らしい! これぞ、真の神話の完成だ!」
天守閣の最上階。
バロンが、奪った『土の楔』――古い石柱――を魔法陣の中心に据え、悦に入っていた。
彼の手には、数馬の解析にあった「アーティファクト(リスト)」の一冊、**『吉備津秘録・完結編』**が握られている。
「……バロン! そこまでだ!」
慎二が、デニムの鎖を構えて天守閣に飛び込んだ。
「……おや、オリーブ農家。……ジャージー牛のミルクは美味しかったかね?」
バロンは、モノクルを光らせ、冷酷に微笑む。
「……君たちは、大きな勘違いをしている。……私は、牛鬼を復活させて世界を滅ぼしたいわけではない。……私は、この世界の『物語』を、より美しく、より強固なものに書き換えたいだけなのだ」
「……書き換える? 勝手なことを!」
「……君のその右手の紋章、そして彼女の指輪。……それらは、かつてこの海を鎮めるために払われた『犠牲』の象徴だ。……凛花、君は、かつて守護者であった男を愛し、その男を守るために、自らの『真の名前』と『声』を海に捧げた。……それが、この瀬戸内海の平和の正体だ」
バロンの言葉が、凛花の心に突き刺さる。
失われていた記憶。……それは、あまりにも切ない、愛と犠牲の物語だった。
「……嘘、ですわ。わたくし、そんな……」
「……私は、その悲劇を、ハッピーエンドに書き換えたい。……牛鬼という強大な力を、世界を支配する『王の象徴』とし、君と、君の愛する守護者を、その王の隣に立たせる。……どうだ、凛花。私の側に来ないか?」
バロンが、凛花に手を差し伸べる。
ミステリーの真相。それは、バロン自身の「歪んだ愛」による、世界の再構築計画だった。
「……凛花。……行っちゃダメだ」
慎二が、凛花の前に立った。
彼の右手の紋章が、激しく、そして「温かく」輝き始める。
「……バロン。あんたの言う『ハッピーエンド』がどんなもんか知らねえが。……凛花の声を奪い、この海を恐怖で支配するような物語、俺が、このデニムの鎖で焼き切ってやる!」
慎二が、オリーブオイルを纏った火炎鎖を、バロンに向かって振り下ろした。
「……ふむ。相変わらず、野蛮だな」
バロンが石柱に手を触れると、天守閣の床から、巨大な「土の壁」が現れ、慎二の攻撃を受け止めた。
「……この松山城の『土の魔力』は、君の火炎などでは通用しない。……さあ、牛鬼の肉体よ! 雲海から這い上がれ!」
バロンの叫びと共に、石柱が砕け散り、黒い霧が天守閣を飲み込んだ。
窓の外の雲海が、急速に凝縮され、巨大な「肉体の塊」へと姿を変えていく。
……牛の角を持ち、雲で構成された、山のような巨大な牛鬼が、高梁の街を見下ろしていた。
「……う、うわああああ!」
天守閣が、牛鬼の咆哮によって崩れ始める。
「……シンジ! 危ないですわ!」
凛花が、慎二を突き飛ばし、崩れ落ちる瓦礫の下敷きになろうとした。
「……凛花!」
慎二は、反射的に彼女の体を抱き寄せ、デニムの鎖を天守閣の梁に絡ませた。
二人は、崩れ落ちる天守閣から、雲海の中へと真っ逆さまに落ちていく。
「……はぁ、はぁ。……凛花。……無事か?」
霧の中、慎二は、凛花を抱きしめたまま、地面に伏せていた。
ここは、松山城の下、二の丸跡。三十郎が、バリアを張って彼らを助けてくれていた。
「……シンジ。……わたくし、……思い出しましたわ」
凛花が、慎二の胸元で、涙を流していた。
「……わたくし、かつて、……あなたを、愛していましたわ。……そして、あなたを守るために、……」
「……バカだな、あんた。……俺は、あんたを守るために、オリーブを育ててきたんだぜ」
慎二は、凛花の涙を、デニムジャケットの袖で優しく拭った。
「……バロンの言うことなんて、気にするな。……俺が、あんたの声を、あんたの名前を、この海から取り戻してやる。……必ずな」
慎二が、凛花の額に、そっとキスをした。
その瞬間。二人の指輪と紋章が、今までで最も強く、そして「純白の光」を放った。
「……おやおや。……感動的なシーンだな」
雲海の中から、バロンが、牛鬼の肉体の上に立って、現れた。
「……だが、物語は、ここからクライマックスだ。……牛鬼の肉体、心臓、角、そして、君たちの『犠牲』。……全てが、揃った」
バロンが、指をパチンと鳴らす。
すると、牛鬼の咆哮が、さらに大きくなり、高梁の街が、黒い霧に飲み込まれ始めた。
【第8話へ続く】




