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第4話:紺青(こんじょう)の街、女神はジーンズに着替える

 旭川を下るボートの上で、夜が明けた。

 朝日に照らされた児島湾は、鏡のように穏やかだ。だが、慎二の右手の紋章は、依然として微かな熱を帯びたまま、南――瀬戸大橋のそびえる児島方面を指し示している。

「……シンジ、見てくださいまし。海が、あんなに青いですわ」

 ボートの縁に身を乗り出し、凛花が感嘆の声を上げる。

 後楽園での死闘を終えたばかりだというのに、彼女の好奇心は尽きないらしい。風にたなびく芋ジャージの袖が、どこかシュールで、それでいて愛おしく見えた。

「ああ。児島の海だ。……数馬の奴、資料館を放り出してまで俺たちを逃がして……。無事だといいんだが」

 慎二はオールを漕ぎながら、親友の安否を案じた。

 数馬が最後に叫んだ言葉。――『鷲羽山わしゅうざんへ行け』。

 そこには、牛鬼の完全復活を阻止するための、最後の楔が眠っているという。

「……シンジ。先ほどの、あの黒い男たちが言っていた『レヴィアタン』。わたくし、少しだけ思い出しましたわ」

 凛花が、真珠の指輪を愛おしそうに撫でる。

「彼らは単なる略奪者ではありません。……この世界の『ことわり』を書き換え、神話を自らの所有物にしようとする、歴史の編纂者エディターなのです。わたくしのような存在は、彼らにとっては『書き換え可能なデータ』に過ぎない……」

「データだか何だか知らねえが、勝手に人の運命を上書きさせるかよ」

 慎二はボートを児島・味野あじのの古い港に寄せた。

 ここは古くから繊維の街として栄えた場所。今や「国産ジーンズ発祥の地」として世界中にその名を知られている。

「とりあえず、その格好じゃ目立ちすぎる。潜伏するにしても、まずは着替えだ」

「わたくし、この『いもじゃーじ』も動きやすくて嫌いではありませんわよ?」

「……俺が耐えられないんだ。女神をジャージ姿で戦わせてるって、神様にバチが当たりそうでな」

 二人が辿り着いたのは、児島ジーンズストリート。

 路地裏にまでジーンズが吊るされ、建物の壁面が深いインディゴブルーに染まった、独特の景観を持つ商店街だ。

「わあ……! 街中が、海の色をしていますわ!」

 凛花が目を輝かせて駆け出す。

 慎二は、馴染みの老舗ジーンズショップ『BLUE-KIBIブルー・キビ』の暖簾をくぐった。店主の源さん(げんさん)は、慎二のオリーブ園のお得意様でもある。

「おう、慎二じゃないか。今日はオリーブの納品か?」

「いや、源さん。……ちょっと、この連れの服を選んでやってくれないか。急ぎで、丈夫で、……最高に似合うやつを」

 源さんは、慎二の背後に隠れるように立っている凛花を一目見て、職人の目を見開いた。

「……ほう。この娘さん、タダモンじゃねえな。骨格といい、佇まいといい……よし、任せろ。ジーンズの街の意地を見せてやるよ」

 三十分後。

 試着室のカーテンが開いた。

 そこには、先ほどまでの「芋ジャージの少女」の面影はなかった。

 体にフィットするインディゴブルーのスキニージーンズ。上はシンプルな白のTシャツに、岡山の伝統工芸である『真田紐さなだひも』をあしらったデニムジャケット。

 凛花の長い脚と透き通るような美貌が、児島の職人技によって、現代的な「戦う女神」として完成されていた。

「……どうかしら、シンジ。少し、窮屈ですけれど」

 凛花が少し恥ずかしそうに、自分の脚のラインをなぞる。

「……。……ああ、いいんじゃねえか。ジャージよりは、三千倍マシだ」

 慎二は必死に動悸を抑え、顔を背けた。

 あまりにも似合いすぎていて、直視できない。

「……慎二くん、お熱いねえ。代金は、次のオリーブオイルの現物支給でいいぜ」

 源さんがニヤリと笑った、その時だった。

 店のテレビから、臨時ニュースが流れた。

『……本日未明、岡山市の後楽園にて、大規模な地盤沈下と旭川の増水が発生しました。付近の歴史資料館も全壊。警察は、爆破テロの可能性も含め……』

 画面には、瓦礫の山となった資料館と、無残にひっくり返った慎二の軽トラが映し出されていた。

「……数馬の資料館が……」

 慎二の拳が震える。

 だが、ニュースはそれだけでは終わらなかった。

『また、現場近くで、不審な「黒い霧」が瀬戸大橋方面へ移動しているという目撃情報が相次いでいます。気象庁は異常気象として注意を呼びかけて……』

「黒い霧……? 違う、あれは牛鬼の『影』だわ!」

 凛花が画面を指差す。

 映像の隅に、巨大な牛の角を思わせる黒い影が、児島に向かって海の上を走っているのが見えた。

「バロンの奴、強引に封印をこじ開けて、牛鬼を誘導してやがるのか……!」

 慎二は源さんに礼を言い、凛花の手を引いて店を飛び出した。

 向かうは、児島を一望できる絶景の地、鷲羽山。

 鷲羽山の展望台へと続く登山道を、二人は駆け上がった。

 背後からは、再びあの黒いSUVのエンジン音が聞こえてくる。

「シンジ、見て! 瀬戸大橋のたもと!」

 展望台に辿り着いた二人が目にしたのは、神話と現代が交差する絶望的な光景だった。

 世界最大級の吊り橋、瀬戸大橋。

 その巨大な橋脚の周囲が、黒い海水によって渦巻いている。

 海中から突き出した巨大な牛の角が、橋のケーブルをギリギリと締め上げ、鋼鉄の巨像を今にも引きちぎろうとしていた。

「……ふむ。やはりここか」

 展望台の端に、ミスター・バロンが優雅に立っていた。

 その隣には、数人の武装兵に羽交い締めにされた……数馬の姿があった。

「数馬! 生きてたのか!」

「慎二! 来ちゃダメだ! こいつら、鷲羽山にある『石の楔』を破壊して、牛鬼の魂を橋と一体化させようとしてる!」

 バロンがモノクルを光らせ、冷酷に告げる。

「瀬戸大橋そのものを、牛鬼の依代よりしろとする。そうなれば、この地一帯は永遠に我々の支配下に置かれるだろう。……さあ、凛花。君の指輪をこちらへ。君の血を楔に注げば、神話は完成する」

 バロンが銃を数馬の頭に突きつけた。

「シンジ……わたくし、行きますわ。数馬さんを助けるには、それしか……」

「待て、凛花」

 慎二が、彼女の腕を掴んだ。

 彼の右手の紋章が、今までで最も激しく、そして「青く」輝き始めた。

「……バロン。あんた、大きな間違いをしてるぞ」

「ほう? 何の間違いだね、オリーブ農家」

「この街のジーンズはな、……一度染まったら、簡単には落ちねえんだ。俺たちの思い出も、この景色の青さもな!」

 慎二が地面を強く踏みしめた。

 すると、凛花が着ているジーンズのインディゴカラーから、青い光の粒子が立ち昇り、慎二の右手の紋章へと吸い込まれていった。

「なっ……繊維の染料に残留している『地脈の力』を抽出したというのか!? 児島のデニムに、これほどの魔力が……!」

 バロンが驚愕に目を見開く。

 慎二の右手に形成されたのは、槍ではない。

 青く輝く、巨大な「鎖」だ。

「……凛花! 俺と一緒に、あのくさびを叩くぞ! 俺が道を切り開く!」

「ええ、シンジ! わたくしを……信じてくださいまし!」

 慎二は青い鎖をバロンに向かって振り下ろした。

 児島の空に、インディゴブルーの閃光が走る。

 ミステリーは、ついに「瀬戸大橋の決戦」へと突入した。


【第5話へ続く】

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