第3話:鶴の舞、後楽園の秘められた楔(くさび)
「……ここが、コーラクエン? 随分と、美しく整えられた庭園ですわね」
夜明け前の薄明かりの中。
岡山後楽園の外周、旭川沿いの遊歩道。凛花は、芋ジャージの襟を立てながら、広大な芝生と池が広がる園内を覗き込んだ。
「ああ。加賀の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ日本三名園の一つだ。……だが、今は観光してる暇はねえ」
慎二は、数馬を軽トラの荷台に残し(彼は「車酔いと恐怖で動けない」と白旗を振っていた)、凛花を連れて閉園中の正門横の柵を軽々と飛び越えた。
「シンジ、右手の紋章が……また騒ぎ出しましたわ。この先に、わたくしの『欠片』があります」
慎二の右手の甲は、もはや熱いというより、ドクンドクンと生き物のように拍動している。その光が指し示す方向は、園内の中心にある大きな池――『沢の池』の中に浮かぶ小さな島。
「あそこか……『鶴の島』」
慎二は凛花の手を引き、芝生を駆け抜けた。
背後からは、低空飛行するドローンの羽音が聞こえてくる。組織『レヴィアタン』の追跡の手は、すぐそこまで迫っていた。
「待て、慎二! 凛花さん!」
荷台から這い出してきた数馬が、必死の形相で追いかけてくる。
「そこに入っちゃいけない! 伝承によれば、後楽園の鶴はただの鳥じゃない。……あれは、牛鬼の『目』を封じるための、生きた封印なんだ!」
「今さら止まれるかよ!」
二人は池に架かる石橋を渡り、鶴の島へと足を踏み入れた。
その瞬間。
キィィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような鋭い鳴き声。
檻の中にいたはずの数羽の丹頂鶴が、不自然な光を纏って一斉に飛び立った。
いや、それは鳥ではない。光り輝く羽を持つ、巨大な「光の矢」となって、慎二たちを包囲するように上空を旋回し始めたのだ。
「……っ、危ない!」
慎二は反射的に凛花を突き飛ばし、自分も地面に転がった。
直後、さっきまで慎二が立っていた場所に、光の羽が突き刺さる。石畳が、バターのように容易く切り裂かれていた。
「これ、本気で殺しに来てるだろ……! 凛花、なんとかしてくれ!」
「わたくしに言われても……! ……ああっ、思い出しましたわ! この封印を解くには、守護者たるあなたの『誓い』が必要なのです!」
「誓い!? なんだよそれ、結婚式かよ!」
「似たようなものですわ! 恥ずかしがらずに、わたくしの目を見て、はっきりとおっしゃい! 『あなたを一生、美味しいもので満たす』と!」
空からは無数の光の矢が降り注いでいる。
慎二は、物陰に隠れながら凛花と至近距離で見つめ合った。
芋ジャージの襟元から覗く、彼女の白い首筋。エメラルドグリーンの瞳が、真剣に、そしてどこか期待に満ちた色で慎二を射抜く。
「……クソっ、背に腹は代えられねえ! ……わかったよ! 凛花! あんたを一生、岡山中の旨いもんで腹一杯にしてやる! えびめしも、デミカツ丼も、白桃もピオーネも全部だ!」
その叫びと共に、慎二の右手の紋章が爆発的な輝きを放った。
光が慎二の手から溢れ出し、凛花の真珠の指輪へと吸い込まれていく。
ゴォォォォォン……!
岡山城の天守閣から響いてきたような重厚な音が、空気を震わせた。
旋回していた光の鶴たちが、一瞬にして静止し、静かに雪のような光の粉となって二人へと降り注ぐ。
「……え、成功、か?」
「ええ。……よく言えましたわ、シンジ。今の言葉、魂に刻みましたからね」
凛花が少し頬を赤らめ、イタズラっぽく微笑む。
だが、感動に浸る時間は一瞬だった。
「……素晴らしい。実に感動的な誓いだな」
冷徹な拍手の音が、霧の中から響いた。
黒いトレンチコートを纏い、片目にモノクル(単眼鏡)をはめた男が、数人の武装兵を引き連れて現れる。
「『レヴィアタン』の極東支部長、……ミスター・バロンか」
遅れて追いついた数馬が、震えながらその名を口にした。
「我々が何年もかけて解けなかった後楽園の封印を、こうも簡単に解いてくれるとは。……感謝するよ、オリーブ農家の諸君」
バロンが指をパチンと鳴らすと、武装兵たちが一斉にサブマシンガンを構えた。
「凛花さんを渡しなさい。彼女は『鍵』の本体だ。彼女の血が、旭川の底に眠る牛鬼の心臓を呼び覚ます生贄となるのだから」
「……ふざけんな。この女は、俺が一生食わせるって誓ったんだ。生贄なんかにさせてたまるか!」
慎二は凛花の前に立ち、右手を突き出した。
すると、先ほどの光の粉が慎二の腕に集まり、一本の「光の槍」へと姿を変えた。
「なっ……封印を、武器として固定したというのか!? バカな、そんな適性があるはずが……!」
バロンの顔に初めて驚愕の色が走る。
「凛花、掴まってろ! ……二度目のダッシュだ!」
慎二は光の槍を地面に突き立て、その衝撃波で武装兵たちを吹き飛ばした。
混乱に乗じて、凛花の細い腰を抱え上げると、再び後楽園の深い影へと走り出す。
「慎二、こっちだ! 旭川に、僕のボートを隠してある!」
数馬の先導で、三人は後楽園の裏手にある川岸へと飛び降りた。
そこには、数馬が調査用に使っているという、お世辞にも速そうには見えない木造のボートが浮いていた。
「これに乗れ! 下流へ下って、児島湾へ逃げ込むんだ!」
「よし、乗れ凛花!」
慎二が凛花をボートに乗せようとした、その時。
ドォォォォォン!!
旭川の川底から、巨大な水柱が上がった。
水の中から現れたのは、潜水艦のような巨大な影。
……いや、それは機械ではなかった。
ヌラリと光る巨大な皮膚。
水面から突き出した、ねじ曲がった二本の「牛の角」。
「……牛鬼……」
凛花が、恐怖で声を震わせる。
まだ不完全な形ではあるが、封印が解け始めたことで、伝説の怪物が現代の岡山に姿を現そうとしていた。
「シンジ! 早くして! あいつが来ますわ!」
「わかってる! 数馬、お前も乗れ!」
「僕は……僕はここで資料を守る! 慎二、凛花さんを頼んだぞ! 彼女を**『鷲羽山』**へ連れて行け! そこに最後の封印の鍵があるはずだ!」
数馬がボートを力一杯押し出す。
慎二と凛花を乗せた小舟は、急流となった旭川を、巨大な牛鬼の影から逃れるように下り始めた。
朝霧の中、ボートの上で。
慎二は、隣で震えている凛花の肩を抱き寄せた。
芋ジャージ越しに伝わってくる、彼女の体温。
「……怖がるな。俺がついてる」
「……シンジ。先ほどの誓い、……嘘ではありませんわね?」
「ああ。……俺は、嘘をつくほど器用じゃないんだ」
慎二は、目の前に広がる瀬戸内海を見つめた。
ここから先は、児島、そして瀬戸大橋の麓、鷲羽山への決死の航海が始まる。
背後では、巨大な牛の咆哮が、岡山の街を震わせていた。
【第4話へ続く】




