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第2話:時速八十キロの神話、ブルーラインの追跡者

「……シンジ、この乗り物は……もしや、古代の鉄の獣なのですか?」

 慎二の愛車、ダイハツ・ハイゼット(平成二十年式・白)。

 助手席に座る記憶喪失の自称女神・凛花は、ガタガタと揺れる軽トラの振動に目を丸くしていた。芋ジャージの袖をぎゅっと握りしめ、窓の外を流れる夜の景色を凝縮された恐怖と興奮で見つめている。

「獣じゃねえよ。農家の最強パートナー、軽トラだ。……大人しくしてろ、後ろからヤバいのが来てるんだ」

 慎二はバックミラーを睨みつけた。

 牛窓の街を抜け、岡山ブルーラインへと合流する導入路。背後には、先ほどの漆黒のSUVが二台、車間距離を詰めながら不気味にライトを光らせている。

「シンジ、右手の印が……熱いですわ!」

 凛花の指摘通り、慎二の右手の甲に浮かんだ紋章が、エンジンの回転数に呼応するように脈打っていた。熱い。火を押し当てられたような熱さだ。

「さっきからこれのせいでハンドルが重いんだよ! ……凛花、その指輪、なんとかできないのか!」

「わたくしに命令しないでくださいまし! ……でも、やってみますわ。……えいっ!」

 凛花が助手席から慎二の右手に自分の左手――真珠の指輪が光る指――を重ねた。

 その瞬間。

 ズゥゥゥン!

 軽トラのエンジン音が、耕運機のような頼りない音から、まるでジェット機のような重低音へと変貌した。

 スピードメーターの針が、物理法則を無視して右側へと振り切れる。

「うおっ!? なんだこれ、軽トラの加速じゃねえ!」

「シ、シンジ! 前に、大きな黒い箱が!」

 ブルーラインの追い越し禁止車線。先行していた一台のSUVが、進路を塞ぐように蛇行を始めた。挟み撃ちにする気だ。

「……ナメるなよ。ここは俺の庭だ!」

 慎二は、牛窓の急勾配で鍛えたハンドルさばきで、路肩のわずかな隙間に突っ込んだ。

 ガードレールのすぐ向こうは、真っ暗な瀬戸内海だ。

 火花を散らしながら、ハイゼットはSUVの側面に「オリーブ園・五味」のステッカーを叩きつけ、強引に抜き去る。

「ヒャッホーーー! 凄いですわ、シンジ! 鉄の獣が吠えています!」

「笑ってる場合か! 舌噛むぞ!」

 数分間の死闘の末、一本松展望台付近の複雑な分岐を利用して、慎二はどうにか追手を巻くことに成功した。

 辿り着いたのは、備前市伊部。備前焼の煙突が立ち並ぶ、静かな街の路地裏だ。

「……はぁ、はぁ。死ぬかと思った……」

 慎二はハンドルに突っ伏した。右手の紋章は、今は静かな鈍い光を放っている。

 隣を見ると、凛花が満足げに「ふふん」と鼻を鳴らしていた。

「スリリングな旅ですわね。シンジ、わたくし、少しお腹が空きましたわ。先ほどおっしゃっていた『えびめし』という黒いお供え物を所望します」

「……この状況で食欲あるのかよ。大物だな、あんた」

 慎二は呆れながらも、二十四時間営業のコインランドリーの影に車を隠し、近くの自動販売機で飲み物を買った。

「……凛花。さっき、あいつら『沈んだ鍵』って言ってたよな。この指輪のことか?」

 凛花は、自分の指輪を見つめて寂しげに微笑んだ。

「……ええ。この指輪は、瀬戸内海の底にある『常世の門』を封じるためのもの。そして……わたくしは、その門を守る一族の末裔だったはずです。けれど、嵐の夜、海の中から巨大な『牛の角』が現れて……」

「牛鬼か。……牛窓の伝説じゃ、牛鬼はバラバラになって島になったはずだろ」

「伝説は、常に勝者が書き換えるものですわ。……本当は、牛鬼は倒されたのではなく、この指輪の力で『眠らされた』だけだとしたら?」

 慎二は背筋が凍るのを感じた。

 もし、あの武装組織が牛鬼の封印を解こうとしているのだとしたら。この穏やかな瀬戸内海が、かつての神話の戦場に逆戻りしてしまう。

「……とりあえず、場所を移動しよう。ここも安全じゃない。岡山市内まで行けば、人の目も多いし、調べ物もできる」

「シンジ、どこへ行くのです?」

「まずは、腹ごしらえだ。それから……俺の知り合いに、古文書に詳しい変な奴がいる。そいつなら、あんたの指輪のことも分かるかもしれない」

 二人が次に向かったのは、深夜の岡山市内。

 旭川のほとりに立つ、古びた歴史資料館の裏口だった。

「おい、数馬! 起きてるか、数馬!」

 慎二が扉を激しく叩くと、中からボサボサ頭の青年が、丸眼鏡を指で直しながら顔を出した。

「……慎二? こんな時間に何の用だ。またオリーブの苗に付く害虫の相談か?」

「もっとデカい害虫……っていうか、国際的な犯罪組織に追われてるんだ。あと、この『自称女神』の記憶について調べてほしい」

 数馬と呼ばれた青年は、慎二の隣に立つ凛花を一目見て、手に持っていたコーヒーカップを落としそうになった。

「……おい、慎二。その女性……どこで拾った」

「牛窓の浜辺だ。それより、この指輪を見てくれ」

 数馬は凛花の指輪を食い入るように見つめ、次に慎二の右手の紋章を見た。彼の顔から血の気が引いていく。

「……間違いない。『吉備津秘録』に記された、海の鎮守の印だ。慎二、君はとんでもないものに関わってしまったぞ。今すぐこれを警察……いや、それ以上に強力な組織が動いているはずだ」

「組織って、あいつらか?」

「『レヴィアタン』。世界中の神話遺産を略奪し、兵器として転用しようとする闇のオークション組織だ。彼らは、瀬戸内海に沈む『古代の超兵器』――牛鬼の核を狙っている」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、資料館の窓ガラスがガシャンと砕け散った。

 赤いレーザーサイトの光が、数馬の胸元を、そして凛花の眉間を捉える。

「逃げろッ!」

 慎二は凛花の腰を抱き寄せ、床に伏せた。

 頭上を弾丸が通り過ぎ、数万冊の古文書が雪のように舞い散る。

「わたくしの……わたくしの記憶が、また一つ戻りましたわ!」

 銃声が響く中、凛花が叫んだ。

「この指輪の片割れが、岡山後楽園にある『鶴の島』に隠されています! それを合わせないと、牛鬼の暴走は止められません!」

「後楽園!? ……わかった、次はそこだ! 数馬、お前も来い!」

「冗談じゃない、僕はインドア派だぞ! ……ああっ、僕の貴重な文献が!」

 慎二は腰を抜かしている数馬を無理やり引きずり出し、再び軽トラへと飛び乗った。

 夜明け前の岡山市内。

 路面電車のレールを跨ぎ、ハイゼットは爆走する。

 旭川の向こう岸、日本三名園の一つ、後楽園。

 そこには、江戸時代から続く庭園の美しさとは裏腹に、恐ろしい神話の続きが隠されていた。

「……シンジ、約束してくださいまし」

 助手席で、凛花が真剣な瞳で慎二を見つめた。

「もし、わたくしが再び海に飲み込まれそうになったら……その時は、迷わずこの指輪を壊して。わたくしの命と一緒に」

「……バカ言うな。あんたには、まだ『えびめし』を食わせてねえんだ。女神かなんだか知らないが、食い逃げは許さねえぞ」

 慎二がアクセルを踏み込む。

 朝焼けに染まる岡山城のシルエットが、二人の行く末を静かに見守っていた。


【第3話へ続く】

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