第1話:オリーブの丘と、波打ち際の「牛鬼」姫
「……おい、生きてるか? 頼むから、俺のオリーブ畑の前で土左衛門にはならないでくれよ」
岡山県瀬戸内市、牛窓。
『日本のエーゲ海』と称されるこの町の夜は、名前ほど優雅じゃない。特に台風が過ぎ去った直後の今夜は、荒れ狂う瀬戸内海がゴボゴボと不気味な音を立て、潮風が容赦なく肌を刺す。
二十六歳のオリーブ農家、五味慎二は、懐中電灯の光を岩場に走らせた。
先ほど、出荷用の軽トラを走らせている時に、崖下の海岸に「白い何か」が打ち上げられているのを見つけてしまったのだ。
「……ん……う……」
光の先にいたのは、魚でも流木でもなかった。
びしょ濡れの、真っ白なドレスを着た女だ。それも、中世の貴族が舞踏会で着るような、フリルと刺繍が何層にも重なった、この令和の岡山にはおよそ不釣り合いな代物である。
「うわっ、本当に人間だ……。大丈夫か、あんた!」
慎二が慌てて駆け寄り、肩を抱き起こす。
その瞬間、心臓が跳ねた。
濡れて顔に張り付いた髪の間から覗く素顔が、あまりにも整っていたからだ。透き通るような白い肌。長い睫毛。
(……いや、感心してる場合じゃない。救急車か?)
スマホを取り出そうとした時、女の瞼がゆっくりと開いた。
瞳の色は、夜の瀬戸内海よりも深い、神秘的なエメラルドグリーン。
「……ここは……どこ……?」
「牛窓だよ。岡山の。わかるか? 自分が誰か、家はどこか」
女はぼんやりと周囲を見渡し、最後に自分の手のひらを見つめた。
その左手の薬指には、大粒の真珠をあしらった黄金の指輪が光っている。
「わからないわ。……けれど、あのお方は?」
「あのお方?」
「私を飲み込もうとした、あの恐ろしい……牛の角を持ち、蜘蛛の脚を持つ、巨大な影……」
慎二の背筋に冷たいものが走った。
牛の角に、蜘蛛の脚。それはこの地方に古くから伝わる妖怪――**『牛鬼』**の姿そのものではないか。
「……おい、冗談だろ。そんなの昔話の……」
その時。
背後の茂みから、ガサリと不自然な音がした。
風の音ではない。重いブーツが、濡れた土を踏みしめる音。
「……見つけたぞ。こちらだ」
低い男の声。懐中電灯を消すと、暗闇の中に三つの赤い光が動いているのが見えた。暗視ゴーグルか何かだろうか。
明らかに地元民ではない。ましてや観光客でもない。殺気を含んだプロの気配だ。
「っ! 立てるか、お姫様!」
「……え、ええ。足が少し震えますけれど」
「いいから俺の首に掴まれ! 軽トラまでダッシュだ!」
慎二は反射的に女を横抱き――いわゆるお姫様抱っこ――にすると、オリーブ園へと続く急勾配の斜面を駆け上がった。
「ちょっと! 何をするのですか、不届きな! 私に触れて良いのは、神託を受けた者だけだと……!」
「黙ってろ! 捕まったら『神託』どころか『天国』行きだぞ!」
背後から、ボシュッ、という消音機付きの銃声。
慎二の耳元を、何かが風を切って通り過ぎ、横のオリーブの幹を弾いた。
(マジかよ! 日本だよな、ここ!?)
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打つ。
慎二は必死で軽トラの運転席に女を押し込み、自身も飛び乗った。エンジンを回し、アクセルを底まで踏み込む。
牛窓の迷路のような細い坂道を、タイヤを鳴らして駆け抜ける。バックミラー越しに見ると、漆黒の大型SUVが猛スピードで追ってきていた。
「……あ、あの、……五味、……さん?」
女が、助手席で震えながら、慎二が作業着に付けていた名札を読み上げた。
「ああ、五味慎二だ。あんたは?」
「わたくしは……。思い出せません。けれど、あの者たちは知っています。わたくしの……『海に沈んだ鍵』を奪おうとしている者たちですわ」
「海に沈んだ鍵? わけ分かんねえよ! とりあえず、俺の隠れ家(作業小屋)へ逃げ込む。あそこなら地元民しか知らない裏道を通らないと辿り着けない」
慎二はハンドルを切り、前島行きのフェリー乗り場とは逆方向、さらに山奥の密生したオリーブ畑の迷路へと突っ込んだ。
一時間後。
人気のない山の頂上付近にあるプレハブの作業小屋。
慎二は震える手で、カセットコンロに火をかけ、やかんで湯を沸かしていた。
「……とりあえず、これを。俺の親父の古いジャージだけど、着替えないと風邪引くぞ」
差し出された『瀬戸内中央高校・陸上部』と書かれた芋ジャージを、女は怪訝そうに指先でつまんだ。
「……これが、この国の礼装なのですか?」
「違う。防寒着だ。いいから着替えろ。俺は外で番をしてる」
小屋の外に出ると、雨は上がっていた。
目の前には、月明かりに照らされた瀬戸内海が広がっている。穏やかで、まるで鏡のような美しさ。しかし、その深い青の底には、何千年も前からの秘密が沈んでいるという伝説がある。
牛窓に伝わる『牛鬼』の伝説。
かつて、神功皇后の船を襲った巨大な牛鬼。それを射止めた際、牛鬼の体はバラバラになり、頭が「黄島」、胴体が「前島」、尾が「青島」になったという。
(あいつ……あの女、本当に牛鬼を見たって言ったのか?)
やがて、小屋のドアが控えめに開いた。
そこには、ブカブカのジャージを着て、袖からわずかに指先を出した例の女が立っていた。ドレスの時よりも、なぜか現実離れした美しさが際立って見える。
「……お待たせしました、シンジ。改めて自己紹介をさせていただきます。名前は思い出せませんが……わたくしの使命だけは、魂が覚えています」
彼女は、夜の海を指差した。
「この海の底。かつてわたくしの民が守っていた、黄泉へと続く門。それを開くための『鍵』が、今夜の嵐で目覚めてしまいました。あの黒い服の者たちは、その鍵を使って、牛鬼の封印を解こうとしているのです」
「……待て待て。話がデカすぎる。鍵って何だ? 封印って?」
「これですわ」
彼女が差し出したのは、先ほどの真珠の指輪。
慎二がそれを手に取ろうとした瞬間――。
指輪がカッと、黄金色の光を放った。
同時に、慎二の右手の甲に、見たこともない紋章が浮かび上がる。
「うわっ!? なんだこれ、熱っ!」
「……まあ! あなたが……あなたが『神託の守護者』だったのですか!?」
女は驚きに目を見開き、突然、慎二の手を両手でギュッと握りしめた。
「シンジ! 運命ですわ! この『しんじ』という名前も、真珠の導きに違いありません!」
「いや、ただの姓名判断で決まった名前だって……っていうか、近けーよ! 顔が近い!」
月の光の下、記憶喪失の自称女神(芋ジャージ姿)に詰め寄られ、慎二は顔を真っ赤にする。
その時。
遠くの海上で、ボォォォ……という、生き物の咆哮のような、地響きのような音が響き渡った。
海面が盛り上がり、巨大な影が、一瞬だけ月を遮る。
ミステリーは、まだ始まったばかりだ。
オリーブの香りと潮風に包まれた、岡山の、あまりにもスリリングな夏が幕を開ける。
「……わかったよ。とりあえず、朝になったら役所……じゃなくて、まずは腹ごしらえだ。岡山名物『えびめし』でも食って、落ち着いて考えようぜ」
「えび……めし? 蝦を召し上がるのですか? なんて贅沢な……!」
「いや、見た目は真っ黒だけど旨いんだよ。……おい、そんなキラキラした目で見るな!」
追っ手のSUV、謎の指輪、消えた記憶、そして蘇る牛鬼。
牛窓の平和な日常は、今夜、音を立てて崩れ去った。
【第2話へ続く】




