スーパーマオリブラザーズ――キア・オラの店で
二〇二五年八月の大阪。
万博会場で初めて見たハカは、真織の胸を強く揺らした。
それから七ヶ月。
三月のやわらかな陽射しの中で、真織は地図アプリを片手に、
天王寺の路地裏を首をかしげながら歩いていた。
胸の奥が、まだ少しだけざわざわしていた。
「ここ……なのかな」
目の前にあるのは、くすんだ煉瓦造りのビルの一階。引き戸の上には手書きの木製看板が掲げられていた。
「KIA ORA KITCHEN」
キアオラ・キッチン。ニュージーランドの挨拶言葉だと、あの日以来すっかり詳しくなった真織はすぐにわかった。ドアの横には、くるくると渦を巻くタ・モコ(マオリの伝統的な文様)があしらわれた小さな黒板が立てかけてあり、こう書かれていた。
「本日のハンギ:豚バラ肉とクマラ(サツマイモ的なやつ)の蒸し焼き」
「スープ:クマラスープ」
「営業中 / OPEN」
真織は小さく深呼吸し、引き戸に手をかけた。
ベルが鳴る。
店内はこじんまりとしていた。テーブルが四つ、カウンターが五席。壁にはニュージーランドの風景写真と、マオリの織物「タンガタ・ファカパパ」が飾られている。天井からはポウナム(緑石)のアクセサリーがいくつかぶら下がり、光を受けてきらきらと揺れていた。
そして、カウンターの奥から現れたのは――
「いらっしゃいませェ!」
声が、でかい。
真織は思わず一歩後ずさった。カウンターから身を乗り出してきたのは、額から顎にかけてタ・モコが刻まれた、それはそれは立派な体格の男だった。身長は百九十センチ以上あるだろうか。首が太く、腕も太い。たぶん太ももも、テーブルの板くらいある。
「あ、あの……一人なんですが」
「もちろん! どうぞどうぞ、好きな席に座ってください!」
にこっと笑うと、タ・モコがくるりと動いた気がした。
真織が窓際の席に腰を下ろすと、今度は厨房の奥からもう一人、まったく同じ顔の、まったく同じ体格の男が出てきた。
「おい、キワ、俺のお玉どこやった」
「知らんわ、コア、自分で片付けろ」
「お前が最後に使っとったやろ」
「俺ちゃうわ」
真織はぱちぱちと瞬きをした。双子だ。それもほぼ完璧に同じ顔の。ただ一点だけ違いがあって、最初に出てきたキワの方はエプロンに「兄」と油性ペンで書かれたシールが貼ってあった。あとからきたコアは「弟」のシールだ。
二人は顔を見合わせて、声をそろえた。
「「お客さんが混乱するから」」
注文を取りに来たのはキワだった。
「今日のおすすめはハンギですよ。マオリの伝統的な料理で、地面に穴を掘って熱した石で食材を蒸し焼きにするんです。もちろんここでは特製の蒸し器を使いますけどね」
「じゃあ、それを」
「飲み物は? フラックスシードのコールドブリューもありますけど、普通に緑茶もありますよ」
「緑茶で」
キワが厨房に引っ込むと、入れ替わりにコアが水とおしぼりを持ってきた。
「初めてですか、このお店」
「はい。ネットで見つけて……その前から、マオリ文化に興味があって」
「へえ。お名前なんていうんです?」
「真織です」
コアは一瞬まばたきをした。
「それ、ほぼマオリじゃないですか」
厨房からキワの声が飛んできた。
「マジで?」
「マオリ文化に興味ある人の名前がマオリって、出来すぎやろ」
「親御さん、予言者か」
コアの顔がぱっと明るくなった。
「だからかもしれませんね」
「え?」
「あなたがハカに呼ばれたの。マオリ文化に興味持ったきっかけ、やはり万博ですか!?」
真織は少し驚いた。
「わかるんですか?」
「多いんですよ、万博きっかけのお客さん。嬉しいなあ。どのイベントを見ましたか?」
「ハカです。八月の初めに、たまたま通りかかって……なんか、目が離せなくて」
コアはうんうんと深くうなずいた。
「ハカはそうですよ。あれはね、戦いの踊りとよく言われるけど、本当は命への敬意なんです。生命力を全部、外に出す。見てる人の体にも伝わるでしょう?」
「伝わりました。なんか、胸のあたりがずっとざわざわして」
「それですよ。ハカっていうのは」
コアが満足そうにうなずいたとき、厨房からキワの声が飛んできた。
「コア、サービストークしてんと手ぇ動かせ」
「はいはい」
ハンギが運ばれてきた。
木製の器の中に、ほろほろと崩れる豚バラ肉と、ほっくりと蒸し上がったさつまいも的なクマラ。その上に甘辛いソースがかかっていて、横には小さな器にクマラのポタージュスープが添えられている。
真織はスプーンを手に取り、一口食べた。
――やわらかい。土のにおいがする。でも不思議と懐かしい。
「おいしい……」
思わず声に出た。
カウンターの向こうでキワが腕を組んで立っていた。
「うちのお袋の味です。オークランドで毎週日曜日に家族みんなで食べてました」
「ご家族は向こうに?」
「母親と姉が二人。こっちに来て六年になります」
「なんで大阪に?」
キワはすこし考えてから、肩をすくめた。
「コアが来たから」
厨房から「俺のせいかい」というツッコミが飛んできた。
「じゃあ、コアさんは?」
「俺は……」
コアが厨房の小窓から顔だけ出した。
「キワが来たから」
真織は噴き出した。
「どっちが先なんですか!」
「「それが謎なんですよ」」
またそろった。
コアが肩をすくめた。
「まあ、だいたいお客さんにはスーパーマオリブラザーズって呼ばれてます」
「マ〇オじゃなくて?」
「配管工ちゃうし」
食事を終えたあと、真織はクマラのスープをすすりながら、壁の写真を眺めていた。緑の山、白い砂浜、そして、マオリの人々が円になって何かを歌っている写真。
「あれはタンギ(葬儀)です」
キワが静かに言った。
「悲しいときも、みんなで歌う。マオリはね、感情を隠さないんです。泣くときは泣く、笑うときは笑う、怒るときは怒る。全部、体の外に出す」
「ハカと同じですね」
「そう! 同じです」
キワはうなずいた。
真織はしばらく写真を見つめていた。
「私、万博でハカを見たとき、なんか泣きそうになったんですよ。知らない文化なのに、体だけが先に理解してしまった気がして。なんでだろうって、ずっと思ってて」
「それはね」
コアが厨房から出てきて、エプロンで手を拭きながら言った。
「あなたの体が、正直だったんですよ」
真織は顔を上げた。
「体が?」
「頭は『知らない文化だ』って言う。でも体は、人間の本気を感じたら、ちゃんと反応する。それがハカの力です」
真織はしばらく黙っていた。
そして「そうか」とひとりごとのように言った。
店を出るとき、キワが引き戸を開けてくれた。
「また来てください」
「来ます」
真織は即答した。
「次はニュージーランドのことも、もっと聞かせてください」
「それなら時間かかりますよ。マオリの話は長いから」
コアはそう伝えて、笑った。
「大丈夫です。名前も同じですし」
三月の風が路地裏を吹き抜けた。真織は振り返って、木製の看板をもう一度見上げた。
KIA ORA KITCHEN
キア・オラ。マオリ語で「元気でいてね」という意味もあると、今日知った。
真織は小さく「キア・オラ」とつぶやいて、歩き出した。背中の向こうで、双子の兄弟がまたなにか言い争っている声が聞こえた。お玉の話か、仕込みの順番の話か。あのハカのときと、同じ感じだった。胸の奥が、また少しだけ震えた。
でも、それはどこか音楽のようだった。




