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スーパーマオリブラザーズ――キア・オラの店で

作者: 明石竜
掲載日:2026/03/10

 二〇二五年八月の大阪。

 万博会場で初めて見たハカは、真織の胸を強く揺らした。


 それから七ヶ月。

 三月のやわらかな陽射しの中で、真織は地図アプリを片手に、

天王寺の路地裏を首をかしげながら歩いていた。

 胸の奥が、まだ少しだけざわざわしていた。

「ここ……なのかな」

 目の前にあるのは、くすんだ煉瓦造りのビルの一階。引き戸の上には手書きの木製看板が掲げられていた。

「KIA ORA KITCHEN」

 キアオラ・キッチン。ニュージーランドの挨拶言葉だと、あの日以来すっかり詳しくなった真織はすぐにわかった。ドアの横には、くるくると渦を巻くタ・モコ(マオリの伝統的な文様)があしらわれた小さな黒板が立てかけてあり、こう書かれていた。

「本日のハンギ:豚バラ肉とクマラ(サツマイモ的なやつ)の蒸し焼き」

「スープ:クマラスープ」

「営業中 / OPEN」

 真織は小さく深呼吸し、引き戸に手をかけた。


 ベルが鳴る。

 店内はこじんまりとしていた。テーブルが四つ、カウンターが五席。壁にはニュージーランドの風景写真と、マオリの織物「タンガタ・ファカパパ」が飾られている。天井からはポウナム(緑石)のアクセサリーがいくつかぶら下がり、光を受けてきらきらと揺れていた。

 そして、カウンターの奥から現れたのは――

「いらっしゃいませェ!」

 声が、でかい。

 真織は思わず一歩後ずさった。カウンターから身を乗り出してきたのは、額から顎にかけてタ・モコが刻まれた、それはそれは立派な体格の男だった。身長は百九十センチ以上あるだろうか。首が太く、腕も太い。たぶん太ももも、テーブルの板くらいある。

「あ、あの……一人なんですが」

「もちろん! どうぞどうぞ、好きな席に座ってください!」

 にこっと笑うと、タ・モコがくるりと動いた気がした。

 真織が窓際の席に腰を下ろすと、今度は厨房の奥からもう一人、まったく同じ顔の、まったく同じ体格の男が出てきた。

「おい、キワ、俺のお玉どこやった」

「知らんわ、コア、自分で片付けろ」

「お前が最後に使っとったやろ」

「俺ちゃうわ」

 真織はぱちぱちと瞬きをした。双子だ。それもほぼ完璧に同じ顔の。ただ一点だけ違いがあって、最初に出てきたキワの方はエプロンに「兄」と油性ペンで書かれたシールが貼ってあった。あとからきたコアは「弟」のシールだ。


 二人は顔を見合わせて、声をそろえた。


「「お客さんが混乱するから」」


 注文を取りに来たのはキワだった。

「今日のおすすめはハンギですよ。マオリの伝統的な料理で、地面に穴を掘って熱した石で食材を蒸し焼きにするんです。もちろんここでは特製の蒸し器を使いますけどね」

「じゃあ、それを」

「飲み物は? フラックスシードのコールドブリューもありますけど、普通に緑茶もありますよ」

「緑茶で」

 キワが厨房に引っ込むと、入れ替わりにコアが水とおしぼりを持ってきた。

「初めてですか、このお店」

「はい。ネットで見つけて……その前から、マオリ文化に興味があって」

「へえ。お名前なんていうんです?」

「真織です」

 コアは一瞬まばたきをした。

「それ、ほぼマオリじゃないですか」

 厨房からキワの声が飛んできた。

「マジで?」

「マオリ文化に興味ある人の名前がマオリって、出来すぎやろ」

「親御さん、予言者か」

 コアの顔がぱっと明るくなった。

「だからかもしれませんね」

「え?」

「あなたがハカに呼ばれたの。マオリ文化に興味持ったきっかけ、やはり万博ですか!?」

 真織は少し驚いた。

「わかるんですか?」

「多いんですよ、万博きっかけのお客さん。嬉しいなあ。どのイベントを見ましたか?」

「ハカです。八月の初めに、たまたま通りかかって……なんか、目が離せなくて」

 コアはうんうんと深くうなずいた。

「ハカはそうですよ。あれはね、戦いの踊りとよく言われるけど、本当は命への敬意なんです。生命力を全部、外に出す。見てる人の体にも伝わるでしょう?」

「伝わりました。なんか、胸のあたりがずっとざわざわして」

「それですよ。ハカっていうのは」

 コアが満足そうにうなずいたとき、厨房からキワの声が飛んできた。

「コア、サービストークしてんと手ぇ動かせ」

「はいはい」


 ハンギが運ばれてきた。

 木製の器の中に、ほろほろと崩れる豚バラ肉と、ほっくりと蒸し上がったさつまいも的なクマラ。その上に甘辛いソースがかかっていて、横には小さな器にクマラのポタージュスープが添えられている。

 真織はスプーンを手に取り、一口食べた。

 ――やわらかい。土のにおいがする。でも不思議と懐かしい。

「おいしい……」

 思わず声に出た。

 カウンターの向こうでキワが腕を組んで立っていた。

「うちのお袋の味です。オークランドで毎週日曜日に家族みんなで食べてました」

「ご家族は向こうに?」

「母親と姉が二人。こっちに来て六年になります」

「なんで大阪に?」

 キワはすこし考えてから、肩をすくめた。

「コアが来たから」

 厨房から「俺のせいかい」というツッコミが飛んできた。

「じゃあ、コアさんは?」

「俺は……」

 コアが厨房の小窓から顔だけ出した。

「キワが来たから」

 真織は噴き出した。

「どっちが先なんですか!」

「「それが謎なんですよ」」

 またそろった。

 コアが肩をすくめた。

「まあ、だいたいお客さんにはスーパーマオリブラザーズって呼ばれてます」

「マ〇オじゃなくて?」

「配管工ちゃうし」


 食事を終えたあと、真織はクマラのスープをすすりながら、壁の写真を眺めていた。緑の山、白い砂浜、そして、マオリの人々が円になって何かを歌っている写真。

「あれはタンギ(葬儀)です」

 キワが静かに言った。

「悲しいときも、みんなで歌う。マオリはね、感情を隠さないんです。泣くときは泣く、笑うときは笑う、怒るときは怒る。全部、体の外に出す」

「ハカと同じですね」

「そう! 同じです」

 キワはうなずいた。


 真織はしばらく写真を見つめていた。

「私、万博でハカを見たとき、なんか泣きそうになったんですよ。知らない文化なのに、体だけが先に理解してしまった気がして。なんでだろうって、ずっと思ってて」

「それはね」

 コアが厨房から出てきて、エプロンで手を拭きながら言った。

「あなたの体が、正直だったんですよ」

 真織は顔を上げた。

「体が?」

「頭は『知らない文化だ』って言う。でも体は、人間の本気を感じたら、ちゃんと反応する。それがハカの力です」

 真織はしばらく黙っていた。

 そして「そうか」とひとりごとのように言った。


 店を出るとき、キワが引き戸を開けてくれた。

「また来てください」

「来ます」

 真織は即答した。

「次はニュージーランドのことも、もっと聞かせてください」

「それなら時間かかりますよ。マオリの話は長いから」

 コアはそう伝えて、笑った。

「大丈夫です。名前も同じですし」

 三月の風が路地裏を吹き抜けた。真織は振り返って、木製の看板をもう一度見上げた。

KIA ORA KITCHEN

 キア・オラ。マオリ語で「元気でいてね」という意味もあると、今日知った。

 真織は小さく「キア・オラ」とつぶやいて、歩き出した。背中の向こうで、双子の兄弟がまたなにか言い争っている声が聞こえた。お玉の話か、仕込みの順番の話か。あのハカのときと、同じ感じだった。胸の奥が、また少しだけ震えた。

 でも、それはどこか音楽のようだった。

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