綺麗事じゃない動機
この章では翔の後悔と障がい者雇用を始動するに至った動機が描かれてます。
この小説はフィクションですがこの章の文章中に少年同士のトラブル、からかいの描写があります。
ご留意ください。よろしくお願いします。
あの日も、今日みたいに底冷えする夜だった。
1か月前。居酒屋個室。
社長の舟木翔は、大学時代のフェンシング部の仲間8人と
酒を酌み交わしていた。
翔は有名私立大学出身で、小学生の頃に中学受験を経て
中等部に入学し、その後は大学までエスカレーター式に進学。
大学卒業後も、フェンシング部の仲間たちとは定期的に集まり、
酒を飲みながら近況を報告し合っていた。
翔の隣に、幼馴染の倉田がビールのグラスを手にしてやってきた。
二人は同じ小学校出身で、
私立中学受験のために通っていた塾も同じだった。
「聞いたぞ。舟木んとこの長男、俺らの母校の中学に合格したんだろ?」
倉田が翔の近況を聞き出す。
「まあ、何とか…」翔は謙遜して答えた。
「よかったな、おめでとう」
「ありがとう」
「俺は……」 倉田は言葉を詰まらせ、グラスに残ったぬるいビールを喉の奥へ押し込んだ。
「息子が、知的障がいがあるって診断されて……」
その瞬間、翔の脳裏で鳴り響いていた「合格祝い」のファンファーレが、耳障りなノイズに変わった。倉田がどんな思いで自分の話を聞いていたかと思うと、
翔は自分の舌を引き抜きたいほどの衝動に駆られた。
倉田はその反応を見逃さず、
「良いんだよ、俺は。障がいがあってもなくても、息子は可愛い」
と続けた。
「でも…世間は…そうじゃない…。舟木、覚えてるか?『迷彩君』」
『迷彩君』のワードがトリガーとなって、
翔の脳裏に小学校5年生の記憶が
フラッシュバックした。
塾からの帰り道。
小さな公園。
いつも一人で遊んでいた『迷彩君』。
迷彩柄のキャップを1年中被っていたから、そう呼んでいた。
迷彩君は独り言をずっと話していて、
時々、奇声を発して、頭を掻きむしっていた。
あの頃、受験のストレスでいつも苛ついていて、
発散させたくて、
倉田と二人で『迷彩君』をからかって遊んだ。
『迷彩君』は何もしていないのに。
やり返せないと分かっていたから…。
「『迷彩君』…うちの子と同じだったのかもしれない…。」
倉田の言葉に翔は我に返り、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「帽子を取り上げて、踏みつけたこともあったな。
あの帽子だって…きっと親御さんが迷彩君のために…
うちの子も同じ目にあうかもしれない。迷彩君に…謝りたい。」
倉田の目から後悔の涙がこぼれ落ちた。
翔は何も言えなかった。印刷会社の経営者として、それなりの苦労をしてきたつもりだった。
けれど、目の前の友人が今まさに踏み込もうとしている「終わりなき不安」に比べれば、
自分の悩みなど砂遊びのようなものだ。
「忘れてくれ。せっかくの祝いの席なんだ」 倉田はそう言い残して席を立つ。
笑ってはいたが、その瞳の奥には出口のない暗闇が果てしなく広がっていた。
背中を見送る翔の手のひらには、グラスから滴り落ちた結露と、
嫌な汗がべったりとこびりついている。
いたたまれず、温くなったビールを喉に流し込む。
全身を駆け巡るその苦みは、逃げ場のない後悔そのものだった。
翔は倉田と話してからどうやって家に辿りついた覚えていない。
覚えているのは胸が苦しく、
体がまるで錘を付けられてるかのように重く感じたことだけ。
気持ちが悪い…。
この倦怠感の原因が酒のせいだったらどんなによかったか。
二日酔いどころじゃなかった。
何日も何日も、翔の胸は苦しく、体は重かった。
倉田の言葉では言い尽くせない表情。
迷彩君のあの無邪気な顔も・・・頭から離れない。
あの日まで一度も思い出すことはなかったのに。
『迷彩君』の本名…聞こうともしなかった…。
もう、謝ることも出来ない…。
『迷彩君』は今どうしているだろう…。
もう、大人になっているはずだ。
働いているのかな…。
今、俺が出来ること…。
翔は何か出来ることはないかという思いから、
スマホで『障がい者』『大人』『働く』のワード検索を始めた。
そして、『障がい者雇用』に辿り着いた。
「あった」
翔は思わず声を上げた。
あとは動くだけ。直接、謝罪はできなくても、きっと繋がる。
読んで頂きありがとうございます。




