心の糸と、朝餉の余韻
翌朝。
目を覚ました俺は、強い空腹感とともに、無性にあるものが恋しくなった。
「……白米。味噌汁。焼き魚……」
異世界の豪華な料理も悪くはない。
だが、どれも濃厚で香辛料が強く、朝には少々重たい。
それに比べて、日本の“しみじみ”とした朝食――あれを、もう一度味わいたかった。
「……よし、決めた」
俺は玉座のような椅子にふんぞり返り、わざと王子らしく声を張る。
「ギルバート! 本日の朝餉はこの部屋でとる! 厨房には渚を遣わすゆえ、余の意を汲んで支度せよ!」
唐突な命令に、ギルバートはいつものごとく眉間に皺を寄せる。
だが反論せず、一礼して応じた。
「……御意に」
渚は静かに厨房へ向かう。
「王子様のお食事を、わたくしに……?」
最初こそ料理人たちは戸惑ったが、彼女の落ち着いた佇まいと的確な指示に、次第に口を挟めなくなっていった。
彼女が使ったのは、この世界にある身近な食材。
大麦を研いで小鍋で炊き、豆に似た実をすりつぶして味噌に見立て、野菜を煮込む。
魚を焼き網で香ばしく炙り、仕上げに柑橘の果汁を搾って酸味を添える。
「……日本食そのものとはいきませんが、“懐かしさ”の香りが漂いますね」
渚は満足げに頷き、料理を盆に並べた。
その様子をこっそり目撃したのが、侍女のミラだった。
「渚さんが……厨房で料理? しかも、見たこともない方法で……」
興味に駆られ、彼女はそっと後を追う。
そして――。
渚が料理を運ぶ途中、廊下の影に潜む気配に気づいた。
振り返ると、尾行していたのはやはりミラ。
「……っ!」
慌てて隠れようとした彼女に、渚は静かに微笑む。
「落ち着いてください。今からお見せするのは、秘密にすべき真実。――少し、お話ししましょう」
そう言ってミラを部屋に招き入れる。
驚きと困惑の色を浮かべたまま、ミラは中へ足を踏み入れた。
広大ながらがらんどうとした王子の部屋。
その片隅にだけ、六畳間のような質素な空間が切り取られている。
木の机と椅子が置かれ、そこに腰掛けていたのは――見知らぬ黒髪の少年だった。
「……そ、その……アレクシス様は……?」
恐る恐る尋ねるミラに、少年は気まずそうに頭をかいた。
「えっと……俺のことだよ」
「は……?」
「正確には“中身”が俺なんだ。高原倫太郎。ただの高校生。元の世界で事故に遭って……気づいたら、このワガママ王子の体に入ってた」
「……っ!?」
ミラの瞳が大きく揺れる。荒唐無稽だ――だが、その必死な声色は嘘に聞こえなかった。
渚が静かに添える。
「混乱するのも無理はありません。ですが倫太郎の“心の糸”は誠実です。彼は“王子”ではなく、別の世界から来た青年なのですよ」
ミラの脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。
――冷たく「クビだ」と言い放った王子。
だが翌日には青ざめて「撤回する!」と必死に取り繕った。
その変化こそが、彼が“倫太郎”として目覚めた瞬間だったのだ。
「……あの時……」
「ごめん。あれは“前のアレクシス”の言葉だった。俺はそんなこと言えない。……だから、びっくりしたし、正直“できんわ”って思った」
居心地悪そうに笑いながら頭を下げる倫太郎。
ミラはしばし俯いたまま唇を噛み――やがて小さく息を吐いた。
「……今のお顔は、嘘をついている顔ではありません。……信じてみます」
その一言に、倫太郎の胸が少し軽くなった。
そこへ渚が料理を机に置く。
香ばしい匂いが立ちのぼり、倫太郎の胃が鳴った。
「さ、まずは朝食にしましょう。心の糸は、満ち足りた食事でこそ整うものです」
机に並ぶのは――大麦を炊いたご飯風、野菜と豆の味噌汁もどき、焼き魚に柑橘を搾った一皿。
「……うわ……懐かしい……!」
木の棒を箸代わりに口へ運ぶと、素朴な味わいに胸が熱くなる。
「これだよ……! こういうのが食べたかったんだ!」
ミラも恐る恐る口にし、目を丸くする。
「お、おいしい……! 王城の食事より優しい味です……」
「ええ。倫太郎が恋しがっていた、日本の“朝餉”ですから」
渚がにっこり微笑んだ。
三人で机を囲み、静かな時間が流れる。
王子でもない、侍女と主でもない――ただの人間同士としての食卓。
倫太郎は心の底から思う。
(……やっと、少しだけ“普通”になれた気がする)
こうして異世界の朝に、小さな和の食卓が生まれた。
このひとときが、三人を新たに結びつけていくことになるのだった。