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夏川の思い付き

 その夜、夏川相介はなんとなくの気まぐれで、湖へ散歩に向かった。

 町の噂で、あの湖は不良や肝試しの連中のたまり場になっていると聞いたことがあった。なので懐中電灯の他に、念のため護身用のナイフをポケットに忍ばせていた。こんなのもが役に立つのかは分からないが、ないよりはマシかもしれないという判断だ。

 湖に着いたとき、辺りは濃い霧に包まれていた。

 視界が悪く、いくら懐中電灯があっても湖畔を歩くのは危なそうだった。

 今日はやめておこうか。そう思い帰ろうとした矢先、霧の向こうに一台の車が停まるのが見えた。

 ヘッドライトの光が霧を切り裂くように伸び、辺り曖昧に照らしている。

 この濃霧の中、何をしに来たのか。 肝試しか、単なるカップルか。

 夏川は思わず息を潜めた。

 向こうはこちらに気が付いているだろうか。

 もし気づいていて、人に絡んでくるような不良だったら面倒だ。

 懐中電灯の光が目立たないように意識し、早くその場から立ち去ろうとしたとき、車の中から人が出てくるのがぼんやりと見えた。

 小さな灯りが一つだけ点く。おそらく、懐中電灯だろうと思う。車のライトはつけたままなので、車内には誰かいるのかもしれない。自分のことを棚に上げることになるが、こんな時間に一人でここに来るなんて、あまりないだろう。

 しかし、もしも一人だったら。

 もしも一人だったら?

 なんだろう、その思考は。

 その瞬間、夏川の中に、唐突に、まるで天啓のような衝動が湧き上がった。

 殺してみよう。

 自分でも、その思考の生まれた理由は分からなかった。動揺もあった。有り得ないという否定もあった。ただ、そうしなければならないような確信だけが、不気味な静けさとともに心に降りてきており、自分を抑えるべき感情や思考を凌駕していた。

 人影は、手に持った懐中電灯らしき光を頼りに湖の方へ歩いていった。

 夏川は慎重に近づき、車のそばまで来ると中を確認した。

 誰も乗っていない。

 一人なのだ。

 夏川は少しだけ考えて、つけっぱなしになっているライトを消した。キーは差したままになっているので、容易なことだった。

 それから少しして、車の主が慌てて車の方へ戻ってくる気配を感じた。

 夏川は車の影に身を潜め、ただ待つ。

 霧のせいで周囲の音はぼやけている。足音が、かすかに近づいてくるのが分かった。 

 懐中電灯の光が揺れながら近づいてくる。夏川の胸の鼓動は、不自然なくらい静か。

 躊躇いはなかった。

 気配が十分に近づいた瞬間、夏川は静かに車の影から身を起こし、背後に回り込んだ。

 相手が気づく間も与えず、無言でナイフを突き立てた。

 悲鳴はなかった。

 何度か、念のために深く刺した。

 生ぬるい興奮が、指先から心臓へと駆け上がっていく感覚があった。

 だが、その高揚はすぐに消え、代わりに冷めきった無関心と、淡々とした現実感が戻ってきた。目の前の倒れた人間に対しても、自分が行った行為に対しても、何の感慨も湧かない。ただ、ひとつの作業を終えたような、機械的な空虚さだけが胸の中に漂っていた。

 人は殺すというのは、この程度の行為なのか。

 夏川は僅かな落胆を覚える自分に気が付く。世の中では人の命を奪う行為について、あってはいけない大問題のように言われている。なのにあまりにあっけない。説かれる言葉に反して、得られる感情の希薄さ。

 自分は期待していた。

 なにか大きな感情の揺らぎ。

 それを求めていたのだ。

 日常があまりにもつまらないから。

 きっとその程度の理由。

 つまらない今にちょっとした刺激を求めただけ。

 自分には昔からそういう癖みたいなものがある。

 間違っていると分かっていても、そちらを選んでしまう。

 その選択により得られるリスクとスリルを望んでの行動。

 しかしいつも期待外れで終わる。

 今回もそうだった。

 地面に転がっているそれを灯りで照らし、女性だと知った。

 夏川は溜息を吐いてから、その場を去った。

 なにかを隠すつもりもなかった。

 自身が行ったことが一般的に見てどういうことなのかは、夏川は理解している。

 捕まりたくない、という感情はない。

 しかし捕まってしまえば自由はなくなるので、それは少し不便だ。

 なので自首しようとは思わない。

 捕まれば、捕まっただけ。

 捕まらなければ、捕まらなかっただけ。

 どっちでも良い。

 手に付いている血を洗い流したくて、公園に立ち寄って洗うことにした。ナイフにもついていたので、こちらも洗っておく。服にも血が付いているが、洗うと着るものがなくなるので、そのままにした。

 恐らく、自分は逮捕されるだろう。

 どのような流れで警察が自分に辿り着くかは知らないが、世の中というのはそんなに甘いものではない。

 服には血がついたが、ここまで気にせず歩いてきた。

 偶然にも誰ともすれ違うことはなかったが、誰が見ていて、通報されている可能性もある。

 ナイフと手を洗ったあと、夏川はベンチに座り、しばらくぼんやりと休憩する。

 空を見ると、星が綺麗に見えた。

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