file9:クレヨン
由香が寝たあと、ふたりはベランダで会話を交わした。なかなか言い出せなかった謝罪の言葉もアルコールの力に助けられて口から出た。そして帰宅した華子は青春時代を振り返るのだった。
時間が経つと気持ちが揺らぐと思い、日曜をはさんだ月曜の午後にもう一度施設へと足を運んだ。
思い切ってボランティアをやりたいと言い出した私に、あいつは少し意外そうで、しかしすぐに微笑んでうなずいた。
理由を尋ねられなくて私は安堵した。
確かにお年寄りと過ごした時間は楽しかったし、何か役に立てるというのも悪くない。けれど、それだけが動機の全てではないこともわかっていたのだ。
まず皿洗いをこなし、それから先日車椅子を押した葛西さんの散歩に同行した。
やはり外出が嬉しいようで、この日も葛西さんはにこにこだった。
「喧嘩といっても、こっちが一方的に言いたい放題ぶつけただけなんです」
そんな葛西さんの機嫌を良いことに、私は積もりにつもった自分の心情を吐露した。長々とした相談は施設への坂を登り始めるまで続いた。
あいつが高校時代に絵を描いていたこと、そして諦めたことを話すと、葛西さんはひとつの解決策としてできることを教えてくれた。
そして金曜日、田沼さんから穴熊の攻め落とし方の講義を受けた後、帰り支度を済ませた私は建物の出入り口であいつのことを待った。
「これ、プレゼント」
別に高価な物ではないし、あらたまる必要もないのだが、さも大事そうに両手で渡した。
どうしても緊張してしまう。私はあいつを嫌な気持ちにさせてしまうのではないかと心配だった。
包み紙を開けてもよいかと聞かれたので、小さくうなずいた。
葛西さんが教えてくれたのは、口に入れても安全な乳幼児用のクレヨンだった。
「お腹に入っても大丈夫なんだって」
だから由香ちゃんと一緒に使ってみたら、と私は保険をかけるように言葉を足した。
野球をやめたあいつがどれだけの思いで油絵に取り組んでいたか、それを一番知っていたのは隣にいた私だった。
だから、おもちゃなど慰める程度にしかならないし、かえって馬鹿にしているように思われるかもしれない。
けれど、それでも私は描いて欲しかった。どんなかたちであれ、美術から離れて欲しくない。あいつには絵を続けて欲しいと真剣に願っていた。
「へぇ。こんなのがあるんだ。ありがとう」
こっちの思いをよそに、あいつはさっぱりとしていて、とても嬉しそうだった。
クレヨンの色を一つひとつ確かめながら、鼻先に近づけ臭いをかいでいた。それから、今夜もまた家で飲まないかと誘ってきた。
私は夕飯のリクエストを聞き、由香ちゃんと先に帰るよう伝えてから買出しに向かった。
晩御飯の後、殺風景だったあいつの住処に三枚のクレヨン画が飾られた。
一枚目は私が由香ちゃんを描いたもので、クリクリとした大きな瞳を強調して可愛らしく仕上げたつもりだ。
二枚目は二歳下の妹が大好きな兄を描いたもので、制作に五分もかけた大作である。顔の輪郭に比べて鼻や口が妙に小さいことと肌がオレンジ色なのはご愛嬌といったところだ。
そして三枚目はあいつが私をモデルとしたもので「腕が鈍っている」とか「勘を取り戻すのに時間がかかる」などとぼやきながらも、真剣にクレヨンをはしらせていた。
缶ビールで淡く色付いた私の頬も見逃さない。時折見せるあいつの鋭い視線が懐かしかった。そして何よりもいきいきとした顔が嬉しかった。
高校時代は何度もモデルになっていたのだけど、その頃からどうしても照れる癖は直らなかった。私は描き終えるまでに何度も目を瞬かせ、せわしなく視線を変えてしまった。
毎週土日の投稿予定です。




