file8:コバルトブルーの頃
あいつの住むアパートの中は小奇麗で整頓されていた。由香が異食をしないよう危険なものは隠されているか、そもそも置かれていないかのどちらかだった。兄妹のやりとりをみながら、華子はあいつの大変さを知るのだった。
普段と違う出来事が起こると、興奮してな目がさえてしまうらしいのだけれど、この日の由香ちゃんは早寝だった。
隣の部屋は寝室になっていた。コタツでテレビを見ながら寝てしまった妹をやれやれといった様子で抱えて、あいつは運んでいった。ベッドの上には決して口の中に収まりきらないだろう大きな熊の縫いぐるみが乗っかっていた。
一服するためベランダに出たあいつを見て、私もアルコールで火照った体を冷ますために結露で見えなくなったガラス戸を開けた。
左手の缶の表面がひんやりと感じた。鼻で呼吸をすると痛くなってしまう。外の空気は体の芯まで伝わるほど冷たく、そして口から取り入れると隣の部屋からもれる石油ストーブの微かな臭いを感じた。もっとも、それはすぐにあいつの吐く煙草に掻き消されてしまったのだけど、どちらも嫌な心地はしなかった。
「卒業式にさ」
この一件に触れるのは今しかない。缶ビールをひと口含み、なんとかして話を切り出そうとした。
けれど、勢いに任せるには酒の力が足りなかった。
そこで、私は少し話題を変え、いったん退いてあいつの様子を窺うことにした。
「画材、置いてないんだ」
「ん、ああ。由香が口にすると大変だから」
それにもう完全にいち労働者さ、とあいつは手のひらと甲を見せて笑った。
介護の仕事は肉体を酷使する機会が多く、中でも掃除や洗濯と水仕事が多いのだ。骨ばり、ごつごつとしたあかぎれ気味のそれ。何よりも私の関心を惹いたのは、指の先から肘に至るまでの間に見てとれる無数の傷跡だった。
「手の傷は由香ちゃんにやられたの?」
「引っ掻いたり噛み付いたり、怒った由香はそりゃすごいもんさ」
だからといって、簡単に手を離したり、ひとりにはできない状況もあることはスーパーでの出来事で身に沁みていた。
由香ちゃんが興奮したときは、心の中の嵐が過ぎ去るまで、じっと我慢して受け止め続けなければならない。ただ、これから何かをするというのは表情を見ればわかるらしく、顔や急所は防げるのだという。
そんなあいつの話を聞いて、やはりレジで手を離したのは正解だったように思えた。
「完全に労働者の手……か」
あいつに言われた言葉を反芻してつぶやいてみた。
高校時代、私は働きながらでは日々の生活に埋没してしまい純粋な絵を描くことはできないと主張したことがあった。
煙草でさえ表面の色がくすむという理由で敬遠していたほどで、特に喫煙者だった美術科の先生とはそりが合わず、二年の終わりに転任して会わなくなるまで険悪な状態が続いた。
あの頃はコバルトブルーを気に入り、よく寒色を使っていた。振り返れば、ストイックという言葉におぼれていた浅い自分が恥ずかしくもあり、それでいてあいつが偏屈な自分と付き合えたのにはこんな理由があったからだと納得できたりもした。
私は缶の残りを啜ると、意を決して重い口を開いた。
「ごめんね。卒業式でひどいこと言った」
何も知らなかったから、とは付け加えなかった。なにより言い訳がましくなるのが嫌だった。そうであろうとなかろうと、私が傲慢であったことには変わりないのだから。
あいつは咥えていた煙草を百円ライターと共に箱に戻し、それから咳払いをひとつして答えた。
「悪いのは俺だ。裏切ったのはこっちなんだから。だから何も気にする必要はないんだよ」
それっきり、遠い目をしてあいつは何も言わなくなった。
こうして無防備にも男の部屋へと上がれたのはどうしてだろう。やはり相手がこいつだからなのだ。私は心の中でそううなずいた。
そして信じたとおり、あいつは獣にはならなかった。律儀で正直なところは高校時代と何も変わらない。それとも単純に私に魅力が足りないからか。
駅まで送るという申し出を受け取らず、私は一人家路についた。
帰りながら、私はあいつとの出来事を一つひとつ思い出していった。
付き合い自体はもっと古いけれど、肩を壊して野球を諦めたあいつが絵を始めたのは中学三年の夏からで、そこには半ば強引な私の誘いがあった。
当然のことながら、絵に関してあいつはまるで素人で、描写の技術はおろか筆の洗い方から教えなければならなかった。
もしかしたら、私が美術教師を希望する動機にこのときの思い出があるのかもしれない。
初めたばかりのあいつはこちらのお節介を煙たがりもせず、何でも吸収しようとしていた。野球への思いを断ち切ろうと、一心不乱にキャンバスへ向かっていたのかもしれない。
休日は綺麗な景色を探して自転車を走らせ、放課後は美術館巡り。それからの私達は特に約束を取り交わしたわけでもなく一緒に同じ時間を過ごした。
どこか冷めた毎日を送っていた私にとって、あいつとの毎日はとても新鮮であり、それでいてどこか心地よかった。
熱意があって、もともと感性も鋭かったのだろう。教え教わる関係はすぐに消え去り、共同で一つの絵を描くようにもなっていた。
あいつは校内での展示会から始まり、そして市民コンクール、最後は有名な展覧会に出品応募するほどまで力をつけていった。
好きも実力のうちといえるのならば、私にも自信がある。けれど、あいつの場合はそれだけではなかった。
展示会では誰もが足を止めた。才能の片鱗と呼べるものが、安っぽい私の腕から見ても確かにあった。それは嫉妬の感情さえ忘れてしまうほどだった。
私は他の誰よりもあいつの絵が好きだった。そして何よりも共に成長していくことが心地良かった。
互いの目指す方向性が見えてきた高校二年の冬。私達は同じ美大を受験しようと約束を交わした。
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