file7:ふたりの生活
元恋人とその妹の住処にお邪魔することとなった華子。夕食の材料を買うためによったスーパーマーケットで、二人に向けられる周囲の目に気付かされたのだった。
店から出ると、由香ちゃんはすっかり泣き止んでいた。それからあいつに促されると、ゴニョゴニョと口の中に溜め込むようにしてごめんなさいと私に言った。
帰り道、妹が手を噛もうとしたのは本気ではなく、きっと試しているのだとあいつは言った。
「こいつ、人を見ているんだよ」
怖そうか、それとも優しそうか。いたずらしても怒らないだろうかなど様々な情報を知ろうとする。それは誰もが初対面の人に対して働く警戒心である。
ただ、あのキラキラとした純粋な瞳にはそんな意味が込められていたのだと、私は露ほども考えていなかった。
「初めて会う職員やボランティアの人がいると、わざと自分の障害の程度を重く見せようとしたりもするんだ」
あいつの言うことが本当ならば、どうやら私は怯えている様子を見抜かれ、すっかりなめられてしまったらしい。こうして話している最中でさえ、由香ちゃんが自分の話をされて怒らないのかと気をもんでしまう有様だったから。
一方の彼女はそんな私達の会話に関心がないようで、鼻歌まじりにつないでいる手を振り回し、先ほど泣いていたのが嘘のような上機嫌だった。
風呂つき六畳二間のアパート二階。使い古された木目のドアには『セールスは一切お断りします』という札が貼られていた。そこがあいつと由香ちゃんの暮らす城だった。
「お邪魔します」
男の部屋だから煩雑で汚いところだと覚悟していたのだけど、案外小綺麗に片付いていた。
ただ、殺風景というほどではないし、生活感がないわけでもないのだが、何かが足りない。当たり前にある物がいくつか欠けている気がした。
部屋の中を見まわす私にあいつは言った。
「由香には異食の傾向があってさ。口に入れそうな物はみんな引き出しの中に入れてあるんだ」
その他にペンやはさみ等の鋭利な物や危険な物もその辺には置いておけない。掃除が行き届いているのも由香ちゃんが埃や髪の毛を食べないようにという配慮からだった。
「ごめん。うちはストーブがないんだ」
そう言ってあいつは電気コタツのスイッチを入れた。あとは、どうやら体温で部屋を暖かくするらしい。そして自分は入ることなく流し台で、夕飯の準備を始めた。
手伝おうかと申し出たのだけど、妹の相手をして欲しいと頼まれた。スーパーでの出来事で、そちらのほうがはるかに苦手に思え、私は気乗りしなかった。
由 香ちゃんは買い物かばんからお目当ての物を抜き出して、コタツに入った私の隣に座って言った。
「開けちゃう。これ開けちゃう」
どうやら袋を開けて欲しいらしい。
自分でできないわけではないだろう。けれど、きっと勝手に食べてはいけないという約束があるのだ。そこで兄よりも御し易い大人の承諾を求めているのだと私は察した。
「飴、あげちゃって良いの?」
「ああ、うん。一日三個まで」
物足りなさを埋めるため包装も食べようとするのだと言われ、一つ目を開けて渡すとさりげなくポケットに隠した。台所にあるらしく、近くにくず入れはなかった。
ボリボリボリという煎餅を食べるような音が由香ちゃんの口から聞こえてきた。
初めのうちは舐めていたのだけど、どうやら我慢ができなくなったらしく、すぐに噛み砕いてしまったらしい。この調子では三個などあっという間である。
そして、私に次の飴をせがんだ。
急いで包みから取り出すと、由香ちゃんはすぐさま私の手から奪い取って口へと運んだ。
ちょっと口内で転がして、途端に由香ちゃんの表情が歪んだ。
「うぇ! これいらない!」
どうやらハッカ味だったらしい。
まるで私を責めるような顔をして、親指と人差し指でつまみ、仰け反る私に突き付け返そうとしてきた。
すると、流し台で聞いていたあいつがやってきて由香ちゃんに言った。
「由香、ここにちょうだい」
今にも滴が垂れ落ちそうなほど輝いたそれはあいつの手の平に納まった。そしてティッシュに包まれて生ごみを入れるふたの付いたバケツに放り込まれた。
私はためらいのない一連の動作を見て、食事の介助でお年寄りの口元をタオルで拭うあいつを思い出した。それだけではなかった。排泄後のお世話に向かう姿や寝返りを手伝う様子など、五日間で目にした光景が色々と甦った。
カレー作りに戻り、手馴れた様子で米びつから計量カップですくうあいつ。その背中は一日の疲れを背負い込むように丸まっていた。
飴のおかわりがないことを悟った由香ちゃんは早々にパジャマへの着替えを済ませ、テレビのアニメ番組を見始めた。
由香ちゃんは自立度が高いので、トイレや歯磨きなどもちゃんと自分ひとりでこなせるらしい。施設の利用日でない土日と祝日はここでお風呂に入るらしい。付きっ切りの介助を必要とはしないようだった。
ただ、それでもできることには限界がある。とくに火や刃物など怪我の危険があるものは遠ざけなければならない。
したがって、食事の支度に始まり掃除や洗濯など日常の家事は全て兄の役目なのである。
あいつは今も絵の勉強をしたいのかもしれない。部屋の隅に通信教育課程と記された大学の教科書を見つけると、どこか居た堪れない気持ちになり、私はコタツの引っ掻き傷の交差点をジッと見つめた。
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