file5:最終日
あいつと同棲している恋人がいるという施設の利用者の話は間違いだった。一緒に暮らしていたのは妹で、さらにそこには華子の知らない理由があった。
実習の最終日である金曜日。私は昨日あいつの話を教えてくれた葛西さんの散歩に同行した。
葛西さんは八十六歳で私の祖母よりも八つ年上だった。これといった大病は患っていないものの、年々体力が衰えてきているらしく、もはや自分で歩くことは困難になっていた。
すれ違いの四年七ヶ月を考えると、ため息が出てしまう私とは対称的に、外の景色を心待ちにしていたようで、車椅子に座る葛西さんは始終にこにこだった。
「妹がいたなんて知らなかった?」
葛西さんからの問いは突然だった。施設へと戻るなだらかな長い坂道を登りきったところで尋ねられ、気を抜いていた私は思わずグリップを握る力まで緩めてしまいそうになった。
もしもわけを知らされていたら。そう考えてみたものの、後の台詞は続かなかった。裏切り者とののしることも、あんなに冷たい別れ方をすることもなかったといえば、きっと嘘である。
あいつは安易に約束を破る人間でないと心のどこかでわかっていた。それでいて、なお傷付けずにはいられなかった。あのときは単純にとても悲しくて、そして 自分の思いが叶わないことが悔しかったのだ。
何も答えられずにいる私を察して、葛西さんは言葉を続けた。
「きっと心配されたくなかったのね。責任感の強い優しいお兄さんだから」
葛西さんは交流行事に欠かさず参加している為、隣の施設のこともよく知っていた。特に由香ちゃんとは大の仲良しで、部屋には写真も飾っているのだという。
「由香ちゃんも素直だし、とっても良い子よ」
もうすぐ師走になると言われて振り返り、坂下の町並みを見下ろすと、まだ十一月だというのに電飾されたモミの木を数えることができた。
雲ひとつない澄み切った青空が果てしなくどこまでも続いていて、夜とはまた違った趣があった。
いつもの癖が抜けずに、私は肩掛けカバンを探してしまった。有りもしないクロッキーノートを広げて描きたい衝動にかられた私は、あらためてあいつが諦めたものの大きさを思い知った。
――カシャ。仕方がないので携帯電話の写真機能を呼び出し、シャッターボタンを押した。
あと数時間で介護の体験は終わり、来週からはそれまでと変わらない大学生活へと戻る。そう考えると、もう少しいてもいいような、少し心残りで寂しい気持ちがした。
確かに過去の出来事はうやむやになり、なんとなく会話を交わせるようにはなった。だからこれで良しとすることもできる。けれど、その一方であいつと顔を合わせる機会はもうないだろうと私の警鐘を鳴らしていた。
今日このときを逃すときっかけを失ってしまう気がした。卒業式での喧嘩別れがそうだったのだ。連絡の手段はいくらでもあったのに、一本の電話がとても重く感じられたのだ。
どうしてもあと一歩が踏み出せない、そんな見えない隔たりが依然として残っているように感じ、もどかしく思えた。
翌日があいつの休みであることも知っていたし、大切な妹のことも理解したつもりだった。そこで私はもう一度誘ってみようと決心した。
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