file4:反芻
ようやくホームの利用者と仲良くなり、介護体験も慣れ始めてきた華子。しかし、会話の中から、元恋人に付き合っている女性がいるのではないかという可能性を考え始めた。
曇り空のような晴れない気持ち。それがいつまで続くのかという心配は、案外早く、それも次の日の午後には解消してしまった。
理由は簡単で、わけを知ったからである。とはいっても、それは別に隠すようなことではなくて、だからといってあえて話して聞かせるべきものでもなかった。
ただひとつの事実として私の目の前に現れた。
同じ敷地内で老人ホームに隣接する建物は知的障害者が利用する通所型の更生施設となっており、月に何度か交流行事も催されているらしい。
そこで、介護体験の受け入れ担当の職員に勧められ、理解を深めるために見学をすることになった。
答えを知る前の私は同棲のことを聞きたくても叶わないもどかしさを覚えつつ、案内役のあいつの後ろ歩いていた。
むこうは施設の事業の目的やら利用者についてなどを詳しく説明してくれたのだけど、こちらはとても受け止められるだけの余裕が用意できていなかった。
きっと様子がおかしいと思っていたに違いない。時々見せる怪訝そうな表情は高校時代のままだった。
長く見つめられると意識して気持ちを乱してしまう場合もある。建物の中に入るとき、面識のない人に話しかけられたり近づいたりされることに慣れていない利用者もいることを聞かされ、この日の状態を把握するまでは遠巻き眺めているように指示された。
入った部屋の中には小太鼓や木琴などの楽器が並べて置かれていた。どうやら音楽活動に使われているようで、二十畳ほどのフローリングに利用者と職員合わせて二十人くらいが輪をつくって座っていた。
あいつに言われたとおり、私は出入り口にとどまって奥の様子を窺った。利用者が十二、十三、十四人。それから女性の職員が二、三、四人。あの人はどっちだろうか。私は心に負い目を感じつつも、もしものときに自分の身を守る材料として、それぞれの構成を数えて確認していた。
すると、あいつの挨拶の声に気付いたようで、輪の中にいた若い一人の女性が立ち上がった。
「お迎えきた!」
私はギョッと目を見開いた。
その女性は満面の笑顔で叫ぶなり、あいつのもとへ駆け寄って力一杯抱きついたのだ。
年は私と同じくらいか少し下といったところだろう。ジーンズに今風の洋服を着て、一見したところ男共から人気のありそうな女子大生に見えた。私はてっきり職員の一人だと思っていた。
熱い抱擁など、普通なら感動の再会でもない限り目にできない光景である。しかも、相手は――
けれど、あいつは驚いた様子もなく女性に言葉を返した。
「お迎えはまだ。ほら、先生の勉強をしているお姉さんが遊びに来たんだぞ」
すると、あいつの肩口から見えるパッチリとした二つの瞳がキョロキョロと辺りを探り、やがてこちらをとらえた。
目が合ってしまった。
ジッと見つめられた私は引きつった笑顔で『こんにちは』とおざなりの声をかけ、それからさりげなく視線をそらした。
輪の中にいた中年の職員が『さん』付けで女性を呼んで、それから挨拶を返すように促したが、苗字があいつと同じことに気付き、私はさらに驚かされた。
「おしっこ!」
そう大声で言うと、あいつから離れた女性は私の横を走って通り過ぎ、廊下を駆けていった。
彼女のことを台風にたとえるのは、きっとこの部屋で私だけだろうと思った。なぜなら、輪をつくった十九人は穏やかな空気のままだったからである。あいつも職員の一人に近寄って何やら会話を始めていた。
見学が済んだ後、彼女の名前は由香といい、妹なのだとあいつから聞いた。
高校三年の冬、母親が脳梗塞で亡くなったあいつは二つ下の妹と二人きりになった。
父親と呼べる存在は物心がつく前からいなかったらしい。そこであいつは当時のクラス担任の紹介で この施設に就職することになった。やがて学校を卒業する妹の日中の居場所を確保するためである。安心して働きながら近くにいられる仕事はとても都合が良かったのだろう。
これらの経緯は古株で話し好きな葛西というお婆さんから教えてもらったものである。あいつ本人から根掘り葉掘り聞きだす図々しさはさすがの私にもなかった。
私はあまりに鈍感だった。付き合い自体は長いが、喧嘩別れをするまであいつの周囲や家庭の事情を考えたことがなかった。
ひとつの出来事を何度も思い返し、あれこれと推測する癖がついたのは卒業式から何ヶ月も経った予備校生活の中だった。その頃にはすっかり私の気持ちは落ち着いていて、あいつのことを考える時間も少なくなっていった。
あいつが家族を守るために大学受験を断念したなんて、考えすらしなかった。
たぶん毎週土日の投稿になると思います。お時間がありましたら評価感想などよろしくお願いいたします。




