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クレヨン  作者: 蒼井果実
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file2:負けず嫌い

介護体験に訪れた華子はそこで高校時代の恋人と再会する。不器用な華子は失敗の連続で落ち込んでいたが、元恋人の助けでかろうじて一日目を終えたのだった。

 虎の威を借る狐。次の日、気が付くと私はあいつの後ろに付き従う腰巾着となっていた。

 洗濯物を運ぶ作業に始まり部屋の片付けや掃除まで指示が出されるのを待った。命令されることには抵抗があるけれど、ここで残りの日数をやり過ごすにあたり、その情けは絶対の安心感があった。

 そんなこちらの気持ちを察してか、冗談めかしながらも、あいつは一つひとつの必要な事柄を丁寧に教えてくれた。

 それでも始終くっついていられるわけではない。介護のプロには体験生では到底真似のできない専門的な仕事が山ほど待っているからである。

 他の職員に呼ばれ、足早に部屋の中へと入ったあいつの背中をサロンに立つ私は心細く見送った。

「おいお前」低い声がした。「お前のことを言っているんだ。全くトロい奴だ」

 声をかけたのは車椅子姿の老人だった。

 銀縁眼鏡の上には「ハ」の字を逆さにしたような眉毛が乗っかっていて、今にも怒り出しそうな顔をしていた。

 テーブルの上を見ると将棋盤が置かれていた。

「暇だから一局相手をしろ」

 老人の横柄な言い方に一瞬ムッとしたものの、ここは笑顔が大切であると思い直した。

 考えれば、渡りに船である。あいつが戻ってくるまで、こうして観葉植物の水遣りを続けているわけにもいかない。次の用事を与えられていない私にとって、老人との対局は良い時間稼ぎになると思えた。

 これは世間一般でよく言われるところのジェネレーションギャップというものである。男女平等の現在とは違った時代を生きているのだと、私は自分を納得させて、話を進めることにした。

「いいですよ。お爺さんはお強いんですか?」

 すると、老人は大げさに目を細めて眼鏡の位置を合わせ、それから口を開いた。

「ああ、本当に女か。最近は髪の長い奴もいるからわからんな。色気がないから、てっきり男だと間違えてしまった」

 隣に座る頭の禿げ上がった小太りの友人とゲラゲラ下品に笑い、それからシッシッと犬を追い払うような仕草をして新聞に手をかけた。

 端から打つ気などなかったらしい。暗に女には将棋などわかるまいと言いたいのだと、明らかに侮辱とわかる三文芝居を見せられて、私は頭に血がのぼり息を止めた。

 私は決意して老人の向かいに座った。

「さあ、やりましょう。こっちが後手でもいいですよ」

 負けたらきっと今以上に惨めで情けない姿を晒すだろう。けれど、私にはそうならない自信があった。

 地元の公民館主催の大会で高学年部門準優勝に輝いたこともある。小学生のある一時期、私は道場に通うほど将棋に熱中してことがあったのだ。

 焼きそばパンを餌にしてメロンパンをいただく。中学・高校時代は随分良い目を見させてもらっていた。

 その頃は相手に勝ち目があると思わせるため、あえて際どい対局を演じていたので、散々餌食となったあいつでさえ私の本当の実力は知らない。もっとも、目の前の老人とは一週間の付き合いである。手加減をする気は毛頭なかった。

 男尊女卑の時代に生きた可哀想な男の負け姿。けれど、現実はなかなか私の思うようには進まなかった。

 並べるとき、すでに気づいていたのだけれど、駒は老人の私物らしく、微かに光沢があり、椿油の良い匂いがした。大分使い込まれてはいるが、しっかりと手入れがされていた。

 つまり、ただの遊び感覚で行う縁側将棋ではないということである。

 前言をうやむやにして私が先手になった。

 こちらが棒銀で相手は四間飛車。一枚一枚駒を奪って裸の王様にしてやろうとさえ内心意地悪くほくそえんでいた私の余裕は、二十手を超える目前ですっかり無くなっていた。

 一方のお茶をすする老人は無表情に盤を見つめていた。まだまだ勝敗の行方はわからないはずなのに、それでも負けることを気にしてしまう。私は嫌な予感を背筋に感じた。

 決着が付いたのは、午後の休憩時間に入る直前で、周りはいつの間にやら将棋好きの老人達で囲まれていた。

 私が小学生だったなら、将棋版をひっくり返すかギャラリーの視線が原因だと意地を張っていただろう。

 けれど、いくら負けず嫌いでも到底及ばないことは身に沁みてわかった。死力を尽くし、散々悪あがきをした挙句に負けたのだ。逆に王一枚とされていてもおかしくなかった。

 震える指先を隠し、引きつった笑顔で『参りました』とお辞儀をした私に、老人のほうから口を開いた。

「いやあ、お嬢さん強かったよ。こりゃ女だ男だと差別しちゃいかんな」

 意外にもねぎらいの言葉をかけられ、私の目は点になった。

 老人は勝敗のことはあまり口にせずに感想戦を行って、流れを一変させる一手をいくつか紹介してくれた。眉毛も吊り上ってはいなかった。

 てっきり嫌味を言われこけ下ろされるのだと覚悟していた私は救われたような、拍子抜けしたような、それでいてどこか惨めな気分だった。

 休憩の時間、私は先程までの出来事を自分の心情だけ除いてあいつに話した。

 するとあいつはあの老人の将棋が強いのはプロなのだから当たり前だ、と一服の後で種明かしから始めた。 

「ほら、利用者さん同士だって毎日同じ顔ばかり見合っているだろう? だから本気で接してくれる話し相手が欲しいんだよ」

 ただし、忙しく動きまわっている職員達には遠慮が働く。かといって面識の浅い他人と対局を申し込んでも、大抵は老人相手に遠慮をしたり、ときには故意に負けようとすることもある。だから勝負に限らず真剣な付き合いを求めるには怒らせるのが一番だと思い、そうしているのだろう。

「だから、いいカモを見つけられて、今日はとても楽しかったはずだ」

 しかし皮肉なことに、ボランティアの学生の中では、偏屈で話しづらい老人で通っているのだと、あいつは吸殻を備え付けの灰皿に押し付けながら教えてくれた。

「そりゃ、喧嘩を売られてから将棋指したり話したりなんて、小学生じゃないんだから嫌われるに決まってるわ」

「嫌だって言えば良いんだよ」

 あらためて表情を確かめた私のことを見つめ返してあいつは言った。

「嫌な気分になりましたって、はっきり伝えればわかるさ。そしてその後でしっかりトランプで決着をつけるんだ」

 明日はこっちから誘ってみよう。そう納得できるほど、乱暴だけどあいつの助言には説得力があった。プロとしての一端を感じた気がした。全く高校時代に散々昼食を貢がせた相手と同一人物とは思えなかった。

 自分も教師になれば、今よりも成長するのだろうか。かえって退化するのだろうか。どれができてどれができなくなるのだろう。

 私は大きく伸びをして、それから一番星を探した。


お時間があれば、ぜひ評価をお願いします。

また、『ヒゲのない猫』など他の作品も読んで頂けるとうれしいです。

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