file19:恋人
老人ホームが慌しいことに気付いた華子。由香が施設を飛び出したのいうのだ。親切な利用者達と一緒に探した。そして、お寺からの連絡で事件は解決した。
その後のことを簡単に説明すると、修復しそうにあった私とあいつの関係は長く続かなかった。原因は明確であり、その責任はどちらかが全て負うべきでないことも互いに自覚していた。ただ、事実だけを述べれば、これに尽きる。あいつに恋人ができたからだ。
由香ちゃんから解放されたあいつはずっと自由になったはずだった。平日は仕事が終わると、買い揃えた画材を抱え、絵画教室に通っていた。休日は私と過ごした。遊園地や映画館、世間の恋人が楽しむだろうところはひと通り足を運ぶつもりでいた。
大空を翔け、雲をつかむほど自由を謳歌する。きっと、幸せにならなければならないというプレッシャーがあったのだろう。明らかに妹を捨てたという罪悪感があいつを苦しめていた。
そんな新しい生活に耐えられず、先に音をあげたのは私のほうだった。
はじめは由香ちゃんとの面会だった。二人で会いに行くという約束を仕事が忙しいことを理由にして反故にした。そしてそれは、そのままあいつと過ごす時間にも及んでいった。
その頃の私は自分があいつから必要とされていることを痛いほどわかっていた。求めている。もちろんそれは嬉しいことだった。けれどその反面、あいつが必死に掴んでくればそれだけ私は苦しくなった。幸せになろうともがいて傷付いてしまうあいつをそばで見ているのが辛かったのだ。
私は口実をつけてあいつの誘いを断った。私は由香ちゃんから、罪悪感から、そして苦しむあいつの隣から逃げ出した。
水を断たれた花が徐々に生気を失い、しかし確実に衰え弱っていくように、こうして会話の時間も短くなり、次第に毎日あったあいつからの電話も少なくなっていった。
そして私にとって、あいつとの関係が決定的に終わったのは、最後に声を聞いてから三ヶ月経った晴れた秋の日曜日だった。
あいつが勤務でない日を狙って、私はしばらく疎遠になっていた田沼さんや葛西さんに会うために、老人ホームを訪れた。そこで初めてあいつが辞めたことを知らされたのだ。
画家を目指したい。それが上司に話した退職理由だった。けれど、私はその言葉が純粋な動機には思えなかった。別に今の仕事につきながらでも絵を描くことはできるからだ。
どこか安易に考えていた学生時代とは違い、自分も働いてみて職を失うことの重さが実感できた。そんな大事な決断をしたときこそ、そばにいてあげなければならなかったのに。
直接本人の口から話を聞きたいと思い、私はあいつのアパートへ急ぎ向かった。チャイムの後で荒っぽく叩いて急かした。
すると『はいはい、今開けます』という明るい声が中から聞こえた。
前に現れたのは私の知らない女性だった。
女性は二十代後半といったところだろうか。痩せていて若干筋張っているが、不健康というほどではない。むしろ快活でまったく自分とは正反対の印象がした。
「あの、澤口華子といいますが」
私は内心動揺しながらも、表札が変わっていないことを確かめてから、あいつがいるかを尋ねた。
女性は少し私の顔を見て、それからあいつの名前を呼んだ。
「ねえ、お客さんだけど」
女性が浴室に声をかけていると私にもわかった。狭い部屋であるし、間取りも知っている。そして何より奥からシャワーの音が聞こえていた。
私はこのとき、この女性が例の老人ホームで働いていた元同僚なのだと察した。
私は怪しまれないよう取り繕ってその場から逃げ出した。
あと3話で終了(予定)です。
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