file18:兄として
華子の勧めにより、滞在型の施設へ見学にいったあいつ。事情を深くわかっていないようで、由香は楽しんでいた。それでもあいつは即断を避けて妹と暮らした。
望むと望まないとに関わらず、人生では決断を迫られるときが必ずやってくる。きっかけとなる事件は三月の終わり頃に起きた。
卒業式を無事終え、四月から産休・育休代替教員として働く中学校の下見を終えた私が、一週間ぶりにやって来たときである。施設内の雰囲気がいつもと違っていることに気付かされた。
まず、職員が慌しかった。その理由は常勤とパートを合わせても人手が二人ほど足りないからだ。そして数えていてわかったのだけれど、何よりもあいつの姿がどこにもなかった。
お 爺さんお婆さん達も何かが起きたのだと、気付いているようで、尋ねても答えないよそよそしい職員達に噂好きの宮崎さんは苛立ちながら話を広めていた。
忙しそうに動き回っている職員を呼び止めることの出来なかった私は、とりあえずいつものようにプロ棋士だった田沼さんから対局の予約をとりつけて、それから一週間ぶりに散歩好きの葛西さんを外へ誘おうと部屋に入った。
そこにはいつもの柔和で温かな空気が微塵も残っていなかった。
手で顔を覆い、シクシクと泣いている葛西さんと、それを狼狽した様子で見ているボランティアの学生が一人。
私はどちらに尋ねるべきか決められず、結局普段から話すことの多いパートのおばさんを選んだ。
「えっ! 由香ちゃんがいなくなった!?」
私の声に驚いたおばさんは人差し指を立てて口をつぐむよう注意した。
「もう、かれこれ二時間は経ってるわよ」
まず事件には、葛西さんが長い付き合いの友人であった利用者の方を数日前に亡くしてしまったという事情が前提にあった。そして職員に連れられ、この部屋へ遊びにきた由香ちゃんは、落ち込み憔悴しきったお婆さんの姿にしばらくして気付いたらしい。
老人ホームの玄関を出たところで、職員とつないでいた手を力任せに振り切り、由香ちゃんは突然走り去ってしまった。
それから五時間、私が事件を知って三時間が経った夕方。割ける職員をすべて使い、警察の協力も借りて捜索が続けられた結果、由香ちゃんは無事に保護された。
私も職員とは別行動で、田沼さん達と街中を歩いて捜していた。そのため、連絡が入って現地に到着したときには、捜索に関わった面々が既に揃っていた。
彼女をはじめに見つけ、警察署に連絡を入れたのは寺の住職だった。なんでも、七回忌法要でお経を唱えていた最中にやって来て、お婆ちゃんと会うように頼まれたそうなのだ。
医者でなく、お坊さんに看取ってもらいたい。葛西さんは常々自分が死ぬときのことを私達まわりの人間に話しており、それを由香ちゃんも耳にしていたようだ。
「お騒がせしてすみませんでした!」
集まりの中心で声がした。人垣の隙間から深々と頭を下げたあいつの姿が見えた。
「本当にご迷惑をおかけしました!」
隣にいるのは泣き顔の由香ちゃんだった。もういいからなどと声をかけられても決してやめようとはしない。あいつは何度も頭を下げ、ただひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。
大勢に取り囲まれ、必死で謝る人間を見るのが、初めてのことだったからだろうか。実はそうでないことをこのときの私はすでに知っていた。
妹が離れないよう強く握り締めていたあいつの右手。それは私の心に鈍い痛みとなっていつまでも残り続けた。
すいません。4月中に終わらせるべく、連日の投稿です。