file1:あと4時間
この話は『ヒゲのない猫』と同様に、魔王の降臨も伝説の剣も存在しない平凡な日常の中で起きる物語です。これまでに幾度も世界の危機が救われる場面を読まれてこられた皆様、まったりと気晴らしにどうぞ。
志すと思われるのは心苦しい。美大の四年になって教職課程に本腰を入れたのは、穏やかな絵を描く環境には安定した生活が不可欠だと感じたからだ。
衣食住の心配なく自分の求める絵だけを追い続けられる。生きることに不得手な私にとって教師という職は魅力的に思えた。
けれど、中学校で美術を教えるには教育実習もさることながら、介護等の体験が必要なのだという。それで仕方がなく、紹介された老人ホームへとやって来たというわけだ。
ジャージに着替えを済ませて胸に油性ペンで「澤口華子」と名前を書いたガムテープを貼り付けた。そして、する事もなく、また何をしてよいかもわからないので、ただ邪魔にならないよう端っこで立っていた。
こうして居心地悪そうに待っていると、誰かしらが発見して指示を出してくれるものである。
そんなくだらない思案をひと通り終えた後、私は玄関で言葉を交わしたあいつの姿を探そうと周囲を見まわした。
ここが、別れた男の仕事場だとわかっていたら。あいつと玄関で鉢合わせをする数日前に知り得ていたら、きっと私は形だけぐちぐちと悩んでみせて、それでもやはり来る事を決めただろう。だから前置きが省けた分だけ、意識をせず自然に接することができたように思えた。
顔を合わせ辛い理由があり、それでいてずっと気になっていた。あいつの姿を目にするのは高校三年の卒業式、喧嘩別れして以来だった。
ホームの所長に呼ばれて、朝食後のテレビを見ている老人達の前に立ち、一週間よろしくお願いしますと挨拶をした。
それから、しばらく料理番組の画面を一緒に眺めていた。職員の主導で輪をつくり、昔からある童謡などを歌ったり、手拍子をしながらゆっくりと踊ったりもした。
大きなヘマを犯さないようにアルカイックな作り笑いでやり過ごしていく。ホームの時間は俗世間の日常とは切り離され、ゆっくりと流れているように感じた。
教師を目指すくせに対人関係の構築に自信がない私は、他人から好かれ、信頼された経験に乏しかった。これまで生きてきた中で、必要とは感じながらも向上させようとは思えなかった技能の一つである。
化けの皮が剥がされ、不純な私の本性があらわになるのに、予想通り時間はかからなかった。
午後になって、早速私は老人のひとりから嫌われた。中堅らしき職員から昼食の介助を任されたときである。
ベッドに寝たきりの老女の上体はすでに起こされていた。
おかゆや味噌汁を蓮華ですくい口へと持っていく簡単な作業。けれど祖父母と同じ屋根の下で暮らした事のない私にとっては、これだけでも未知の領域だった。
「この子嫌だ! もうイヤ!」
急に怒り出した老女に私は驚いて身を退き何もできなかった。
すると隣で見ていた中堅の職員が割って入り、溜め息まじりで皿洗いを手伝いに行けと命じた。
素人が行うには荷が重過ぎる。きっと気難しい老人だったのだ。そんな言い訳を何度か心の中で唱えながらも、小心者の私は事態の深刻さを気にせずにはいられなかった。そもそもやる気などありはしないのだが、それでもできれば波風をたてずに終わらせたかった。
これからの一週間を考えればそれだけ不安になってきて、憂鬱で仕方がなかった。胃がキリキリと痛み出し、全身が重たく感じられた。
生来軟弱な私が調理場へ辿り着いたときには既に身も心も擦り切れ消耗しきってしまった。顔面はこの施設にいる誰よりも蒼白だった。
中堅の指示だと伝えてやるべき仕事を尋ね、あえて自分の失敗を晒すことはしなかった。それでも、ここへは初めて訪れたわけである。どんな単純作業でさえ、分からないことや失敗しそうな材料は沢山あった。
まず、汚れた食器を溜め置く場所が分からない。次に洗うにも独自の手順や方法があるようで、ミートソースの着いた皿をスポンジで擦ったらオレンジ色の染みがついてなかなかとれない。さらに水滴を拭った食器達を収納する棚さえもわからなかった。
謙虚さが無いのではなく、単に聞いたことを記憶する能力に欠けていて、メモを取るといった機転もまわらなかった。その為に私は要領が悪い人間だと自覚しながら、それでもなお人から物事を尋ねて教えを請うことが苦手だった。
私には教師という以前に社会人として必要な要素が欠落していたように思える。まわされた洗い場でさえ、恐るおそる自分の判断で仕事を行ない、パートのおばんさんから注意されることも度々だった。
たぶん誰から見ても体験生としての若々しさはもちろん教職を志す者の誠実さすら感じられなかっただろう。私は自分が早くも嫌われ者になったような気がしていた。
「あと4時間」私は時計を見てつぶやいた。
薄々気付いていたはいたけれど、自分に魅力がないと改めて実感させられた。少なからずショックではあった。ひと言で表わすなら、自分は「使えない奴」なのだ。
そんなときである。あいつは少し硬い表情をつくり、気落ちした私のもとへやって来た。
「澤口。ちょっと手伝ってくれないか」
お味噌汁が熱くはないか。ひと口分が大きすぎてはいないか。さらに偏りのある箸運びとなっていないか。
大切なのは自分がされたいと思うように接すること。つまり相手への気遣いである。
「こわごわとすれば、される方だって不安で心配になるんだよ。スマイルだ、スマイル」
ベッド横の丸椅子に座って眺める私に、あいつはそう話して蓮華を渡した。
介助をするのは長いひげをたくわえた優しそうな顔の老人だった。
もう一度チャンスを与えてもらった私はぺこりと老人に会釈をして、それからゆっくりわかめ汁をすくった。
「ほら奥野さん、若いお姉さんに食べさせてもらえるなんてよかったね」
老人はあいつの言葉にうめくようなしわがれた笑い声を上げ、しわしわの顔につぶらな瞳を隠してにっこりと笑った。
夕方になり、休憩時間に入った私は同じく寛いでるあいつを追ってベランダに来てしまった。
丘上の施設からは、ゆっくりと暮れていく南の空と明かりの付いた家々が一望できた。
「煙草、吸ってもいいか?」
私から了承を得るとポケットから歪んだケースと百円ライターを取り出し火をつけた。建物内は禁煙のため、いつもここから町並みを眺めているのだと言った。
柵にもたれてぼんやりと遠くを見ながら、あいつは肺に溜まった煙を一息で吐きだした。
考えれば、もう二十三である。しかし絶対に手を出さないと思っていたからなのかもしれない。何か大切なものが静かに、しかし確実に高三のあいつから失われてしまった気がした。
「今日は色々と大変だったろう。俺も最初の頃は怒られてばっかりだったさ」
高校を卒業してここに勤めて気が付いたら古株の仲間入りになっていたと、四年と七ヶ月前に喧嘩をしていたことなどすっかり忘れてしまった様子で、あいつは苦々しく笑って見せた。
嫌われた老婆からのひと言が心に残っているのだろうか。それとも自尊心が傷つけられたからだろうか。
自問自答はするだけ無駄。どれも的外れで核心をついていないことを自覚していた。おそらくは隣にいるこいつのせいなのだ、と。
「そう、あっという間か。ここは竜宮城なんだね」
私は押し出すように声を出し、そっぽを向いてあいつの視線から逃れようとした。
仕事が忙しくて、久しぶりの投稿です。やる気・意欲に直結するので、お時間があれば、ぜひぜひ評価・叱咤激励等をお願いいたします。
また、『ヒゲのない猫』など他の作品も読んで頂けるとうれしいです。
『勝手にランキング』という設定を加えました。押すとランキングが上がる?らしいので、よろしくお願いします。