自縄自縛は巡る
でもそれは、俺には過ぎた物だから。
「――君は第一王子妃の立場を笠に着て、他の生徒に随分と横柄な態度を取っていたらしい。人の上に立つ者として、その振る舞いは許しかねる。よって今この場で、我々の婚約を解消しよう。ヘイド、さっきの纏めを。……ヘイド?」
一月の中旬、学園で開かれた夜会で第一王子は自身の婚約者にそう告げた。当然、会場は一瞬にして静まり返り、彼らを中心として人が広く空間を空ける。
楽しいはずのパーティーが断罪会場になるが、その対象――婚約者でもあるアリアネは表情を崩さない。冷めた瞳を第一王子に向けるのみだ。
怯む様子の無い第一王子は、後ろに立っている側近に、この日のため纏めてきた証拠を渡すよう指示するが、なぜか彼はコツコツと歩き、アリアネの後ろに立つ。
この場の誰でもわかる、形勢の逆転である。
「……残念です、スウェルド殿下。学生たちの集まるこの場で、婚約者を貶めるような、そんな世迷言を晒すなんて……」
「……この期に及んで言い逃れか? ヘイドを抱え込んだだけで勝った気になるべきじゃない。こちらには君に被害を受けたことを証言してくれる生徒がいる」
事前の手筈では、スウェルドの言葉で十人ほどの証人が名乗り出る予定だった。
だが、台風の目のようになった渦中に飛び込んでくる勇敢な被害者は現れず、一人、また一人と、スウェルドの後ろから人が流れていく。一人を除いた全員がアリアネの背後に移動し、裸の王様になった第一王子を生徒たちの微かな嘲笑が覆うが、彼は怯まない。
だが、大勢は決している。それは誰が見ても明らかな現実だ。
「……アリアネ」
「それ以上口を開かない方がよろしいかと。恥の上塗りは避けたいでしょう? ……そこの、彼女を私の後任に据えるつもりだったのですか? はっきり言って、彼女ではその役は務まらないと思いますが」
唯一スウェルドの後ろに残った女性は、最初にアリアネによる被害を訴えてきた女生徒だった。
第一王子がどこからか連れてきた彼女はいくつかの物的証拠を提示し、さもアリアネが悪かのように側近たちにも訴えた。とは言え、その証拠だっていくらでも捏造できそうな類のものでしかなく、それを間違いのない真実のように語る第一王子の姿が、側近たちを見限らせたとも言える。
黙し体を震わす女生徒は床に膝と額を擦り、嘆くように口を開いた。
「――申し訳ありませんでした! 殿下に偽りの証言をしろと命令されていたのです! 偽証の処分は如何様にも! ですが、どうか家族だけはお許しください!」
「……安心なさい、被害者を罰するなどあってはならないこと。貴女と、貴女の家族の無事は私が責任を持って保証するわ。だから顔を上げなさい。貴族令嬢が床に膝を付けるものじゃないわ」
嗚咽と同時に紡がれる被害者の悲痛な叫びは、第一王子に向けられる生徒たちからの目線に敵意が籠るのに十分すぎる効果があった。
床に伏す女生徒に優しく声を掛けるアリアネはまるで聖女のようで、上体を起こした女生徒の目から涙が零れていくのは安堵ゆえだろう。
遂に完全な一人になったスウェルドに向けられる目線に、王族への敬意など最早含まれていない。罪のない女生徒を脅し、婚約者を貶めようとした彼へ向けられる感情は厳しい。
「……私はそんなことは言っていない。君は――」
「――この期に及んで言い逃れですか? 流石にそれは、些か見苦しいものがありますね、兄上」
生徒の海を掻き分けるようにして中心に悠然と歩んできたのは、第二王子であるヴィンディだった。
先程の兄の言葉を真似るようにしてやってきたその姿に生徒が湧きたつ。何しろ次期国王として資質において、あらゆる面で兄に勝っていると言われていた弟王子の登場だ。
加え、更にその後ろからもう一人、確実にこの状況に終止符を打つだろう人物が。
「……父上」
スウェルドは弟の姿など見えていないかのように、その後ろにいる国王陛下を注視する。
これだけの敵意の只中にいつつ、それでも顔色を変えない第一王子を、国王陛下は複雑な表情で見つめている。そこに込められている感情がどういったものなのかを、汲み取れる者はこの場にいない。だが、それでも静かに、しかし確かに、国王は事態の収拾を宣言した。
「……スウェルド、お前の今後は追って伝える。この場からは退け」
「……仰せのままに」
第一王子は第二王子と国王の横を通り、会場から立ち去っていく。その背中に生徒たちは頼もしさを見出すことは既に出来ず、彼が立太子することは不可能であると誰も悟った。
ゆえに、その失われた期待は、国王を連れてこの場に参上した第二王子へと向かう。堂々とした様子のまま会場の中央へ向かい、アリアネの目の前で膝をついて、優しくその手を取る。
「兄の婚約者であるゆえにこの想い、伝えることを諦めていました。ですが、兄からの宣言ならば、もう誰に憚ることも無い。私と、結婚していただけませんか?」
「……ええ、王家のために身に付けたこの能力、貴方の元で存分に生かしましょう。裏切らないでくださいね?」
「……ええ、愛していますから」
そのやり取りに沸く会場、ただの親睦パーティーだったはずが、いつの間にやら新たな次期国王が決まり、障害の取り払われた愛が紡がれた。
側近も女生徒も生徒たちも、皆が拍手喝采の中、互いに微笑み見つめ合ったヴィンディとアリアネを、国王だけが冷めた目で見つめていた。
☆☆☆
『まず前置きとして、この手紙には玉璽が捺されているはずだ。要は、これは正式な国王所持の書類であり、まだ一介の王子でしかないお前が破いたり燃やしていい物じゃない。お前の言葉なんて無視してやる! とかは普通に罪になるから止めといたほうがいい。
さて、本当なら書かなくていいような前置きはこの辺りにして、わざわざこんな手紙を残した理由について話そう。
お前がこの手紙を読んでいるということは、俺はもうそこにはいないんだろうし、父さんは俺の提案を渋々ながらでも受け入れてくれたということなんだと思う。
俺がこの手紙を書いたのは、多分もう三年くらい前、学園に入学する直前だ。俺はこの手紙を父さんに預けた時、多分こう言ったはずだ。
「俺の学園在学中に、お前に何らかの形で貶められるような出来事が起こった場合、学園を中途退学する」
だから、どこまで俺の思った通りになってるのかは全くわからないが、俺がお前に嵌められたのは、この手紙をお前が読んでるのなら確かなんだろう。
流石に知ってると思うが、うちの国の王位継承権は学園を卒業しないと発生しない。制度的にはいくつかの例外あれど、過去に学園を中退した人間が国王になったことはないし、そもそもその必要性がない。分かり易く言い換えるとこうだ。
「第二王子から何かしらの妨害を受けた場合、第一王子は王位継承権を放棄する」
つまり、お前からはもう、国王になる以外の選択は実質失われているわけだ。第一王子から継承権を取り上げたわけだし、そのくらいの責任は負ってくれ。
まあ、お前からしたら望む所なんだろうけど、俺は昔からそんな立場が嫌だった。第一王子として生まれただけで、国王になることを強制される人生が本当に嫌だった。
立場には責任が伴う。それは確かに真理だろうが、それ以上に理不尽だ。
弟のことが好きな婚約者と結婚するのも、婚約者を奪ったような俺を憎んでる弟も、そんな最悪な人間関係を面白がってる貴族連中も、何の助け舟も出してくれない両親も、全部嫌いだった。
大した我が儘も言わず、操り人形みたいに従ってきた俺の珍しい要求がこれだったわけだ。父さんも面食らっただろうな。これからのことを、過去形で語るのもなんだか気持ち悪い話だけど。
お前は自分の企みを上手いこと隠せてるつもりだったかもしれないけど、多分バレバレだったと思う。具体的にどういう手を取ってきたかは想像するしかないけど、お前のことだ、大勢の前で俺とアリアネの関係を破綻させるような手段を取ったんだろう。
しかも、俺の名誉だけを失墜させるような。当たってる?
正直、お前には感謝してる。こんな賭けを持ち掛けなくちゃ俺はこの国から出ることは叶わなかっただろうし、それを結果的にとは言え手助けしてくれたことはいくら頭を下げても下げ足りない。
俺の中の、俺の名誉が多少なりとも残ってたら、っていう後ろ髪も、多分すっかり消えてるだろう。何の後悔も心残りも無く、笑顔で俺は国を出て行ったはずだ。
で、何でこれを直に言わずに手紙で伝えたかってことなんだけど、それだとなんか負け惜しみみたいだったからだ。お前には負けたけど全部計画の内だから! ってなんか負け犬の遠吠え感凄いだろ。
負け惜しみは言いたくなかったけど、お前を勝ち逃げもさせたくなかった。
この期に及んでも、俺って心が狭いから。たとえ言い逃れ臭くてもな。ってわけで、後のことは任せた。
現国王の実子唯一の継承権保持者様へ
血縁上の兄より』
☆☆☆
「――厳密に言えば、まだ第二王子殿下に継承権は発生していないわけですが、誤差の範囲ではありますかね。今更、やっぱり国王になんてなりたくないなんて言うわけないでしょうし。笑止ですね」
机を挟み、向かい合って座っている第二王子と現国王は、そう言って読み上げた手紙を封筒にしまい直す女性に言葉を返すことができない。
今の二人には、絶句、という形容がぴったりだろう。自分の企てが三年前にはほぼ看破されていた第二王子も、自分の息子に嫌われていた国王も、女性がどれだけ冷ややかな視線を自分に向けているかわからない。顔を上げることができない。
だが、今更それが何だと言うのか。最早全ては遅い。
「私の存在からもわかる通り、スウェルド様がある程度いくつかの仕込みをしていたのは事実です。とは言え、それに乗るかどうか、それに嵌るかどうかは、完全に第二王子殿下次第でした。ここまでだと、いっそ見事だと言わざるを得ませんが」
女性は、女生徒だった。会場でアリアネに泣いて許しを乞うた、第一王子に信用的止めを刺した件の女生徒。彼女はスウェルドの協力者であり、俗に『王家の影』と呼ばれる組織に属する一人だ。
第一王子であるスウェルドにはその彼女に命令を下すだけの権限があった。その命令がたとえ、結果的に主を貶めることになるものだとしても、命令には従わなくてはならない。だからこそ存在している組織なのだから。
「……俺は、協力者を選ぶにあたって、身元の調査を怠りはしていない。何か、思考を誘導でもされたのか?」
「いいえ、程よく貧しく、程よく自堕落、そして何より、王家には決して逆らえない家格の令嬢。そういう人間を学園へ事前に何人か忍ばせていた。そしてその中から選ばれたのが私だった。それだけのことです。スウェルド様は、貴方が――貴方方が、どういう手段を取るのか概ね理解なさっていたので」
第一王子に被害を訴える令嬢に必要だったのは従順さだ。最後まで第二王子考案の三文芝居に付き合う、隷属にも似た従順さが不可欠だった。
つまり、金で言うことを聞かせられると判断される条件を整えれば、自然とその白羽の矢が向けられる候補は限りなく限られる。そのために必要な偽の戸籍などは、王家直轄の組織である以上、用意は容易だった。
掌の上。そんな言葉がヴィンディの頭に浮かぶ。
「……ふざけるな。なんだその手紙は! 俺が、あの男に踊らされていたかのようなその手紙は! そんなものが三年前の段階ですでに父上の手元にあった!? 冗談も甚だしい! 第一王子の継承権放棄など、たとえ条件付きだろうと国王が認めるわけないだろう!!」
「……そう言われましても。元第一王子殿下であるスウェルド様が、国王陛下とどのような会話を、あるいは取引をしたのかは私も知りません。完全な人払いを望まれた以上、仔細を知るのは当事者である両名のみです」
ヴィンディは目の前にある机に拳を振り下ろす。この部屋の壁に完全なる防音が施されていなければ、廊下を見張っている騎士たちが何かしらの異常事態と勘違いして入ってきかねない轟音だったが、国王も女性も、一切怯むことはない。第二王子の虚勢に怯える者などいない。
「父上! この手紙は先日のパーティーの後に書かれたものでしょう!? あの男は卑劣にも、自身の行動にまるで正当性があるかのように主張するために、虚偽を述べているに過ぎない! でしょう!?」
「……その手紙は、確かに三年前、スウェルドから直に手渡された物だ」
「は……、な、何故! そんなふざけた話を受けたのですか!」
「お前がそんなふざけたことをするはずがないと思っていたからだ」
「…………え?」
ヒートアップしていたテンションが急激にクールダウンしていき、部屋の温度もそれに合わせて下がっていくようにすら女性は感じていた。
女性――と言うか、『影』の面々には概ね、第一王子と国王の間で交わされた会話と契約について想像がついていて、それは前提となる知識の差に由来するものだった。つまり、国王が知らなかった、第一王子の事情について。
「お前は三年前、いや、最近ですら、スウェルドとの関係性は良好だと語っていたな。私はそれを信じた。王子の関係性に見逃せないほどの問題があれば、誰かが報告してくるだろうと思っていた。だが、実際にはそんな報告はされず、結果はこれだ」
「……いや、それは」
『知っての通り、俺とヴィンディの関係性は良好です。俺が将来的に国王になった時、あいつは俺をよく支えてくれることでしょう。ですが、学園に通った後、俺があいつに慕われない兄になる可能性は大いにある。つまり、この条件は俺が「慕うに値しない」と弟に判断された場合にのみ履行される、一種の抑制装置のようなものでしかない。信頼を失ったのならば、弟に後任を託すのはそこまで不自然な話でもないでしょう?』
「その手紙を持って来た時、スウェルドは私にそう言った。国を背負うという重圧を、分散させたいのだとも言っていた。相応しくない人間になった時、後を託せる誰かという保険を、今のうちに作っておきたいと。それがお前だった」
そう、そこだけ聞けば、次期国王としての意識が高い、立派な第一王子であり、立派な兄でしかない。だが、手紙の内容と合わせて考えれば、当時のスウェルドの発言は全てが嘘であり、体のいい方便だったのだと誰でもわかる。
兄弟仲は良好ではなく、弟が兄を献身的に支えることなど在りえず、既に慕われない兄であり、抑制装置ではなく破滅願望でしかなく、後任を託すというよりは不良債権を押し付けるが如く。だがその嘘は、既に弟やその他の貴族から国王の元に寄せられた嘘を土台にして建造された嘘であり、そうでなければ成り立たない砂上の楼閣だった――はずだった。
三年前、そしてそれからの三年間、その嘘が露見せず成り立ち続けた以上、嘘を第一王子だけの責任とするのは難しいだろう。誰か一人でも、本当のことを報告していれば全ては崩れたはずの砂の城。
「杞憂だと、気鬱だと跳ね除けるには、あいつの目は真剣だった。スウェルドにはその時既に、お前が自分を追い落とさんとする未来が見えていたのだろう。国のため、あるいは弟のためかのように結ばれた契約は、自分自身のためでしかなかった。大人しいあいつの、数少ない我が儘……、我が儘だとも、思えなかったがな」
手紙に書いてある通り、スウェルドはほとんど我が儘を言ったことがない。言おうと思えば言えたし、それはそこまでの反発無く通っただろう。
ただ、切り札を切るタイミングを、スウェルドはずっと伺っていた。
実質的な継承権の放棄、常識的に考えればそんなものが認められるわけがない。我欲が少ない人間を演じ、国王への道になんの不満も抱いていない様子を演じ、弟との不仲なんて疑われもしないような良き兄を演じ、ただひたすら、待った。唯一にして絶対の我が儘が、仕方ないと、考えすぎだと、悩み過ぎだと思われつつも確実に通る時を待った。
そしてそれは通った。素通りした。手紙には玉璽が捺され、後は再び待つだけだった。
「……会場での、そしてそれ以降のお前たちの様子を見ていれば、その関係が一朝一夕ではないことくらいわかる。二週間ほど前『影』に詳しく話を聞いてみれば、アリアネ嬢がスウェルドとまともに茶も飲んでいないことをあっさり教えてくれた」
「……そ、そんな話を、信じるんですか?」
「『影』を信じず、一体何を信じるのかと聞きたいところだがな。『影』とは文字通りの存在だ。我々が日の当たる場所にいる限り、その傍らに居続ける存在。我々の全てを見ている存在。お前の素行も、聞いてみればすんなり教えてくれたよ。聞かなければ、教えてもらえなかった、とも言えるが」
「我々に監視結果の報告義務はございませんので。昨日と同じことが起これば、それは『異常無し』と判断されます。第二王子が第一王子の婚約者と日常的に仲を深めていても、それは特筆すべき事項ではありませんので、当然『異常無し』と報告されます」
余計なことを言うなと言わんばかりの目つきで女性を睨みつけるヴィンディだが、その程度の威圧でどうこうなる『影』ではない。いざという時、荒事を担当する役割も担っていて、今この場で、悲鳴の一つもあげさせずに第二王子を殺すことのできるだけの能力があるのに、一体何を恐れると言うのか。
そもそも、知られて困ることならしなければいいだけの話なのだ。いざ窮地に追い込まれて、急に被害者面されてもこちらこそ困る。
「……誤解はするなよ。私は別に、今回の件でお前に何かしらの処分を下すことなどは考えていない」
「え……?」
「確かにお前が第一王子を追い落としたことは事実だが、それを理由としてお前に罰を与えれば、第一王子に温情を与えるべきだと言う者も現れるだろう。退学を取り消す、などのな。そうなれば、私はスウェルドとの契約を破ることになる。しかし、温情を与えないとすれば、その理由であるこの手紙を、全てとは言わないまでも、一部は公開する必要が出てくる。それも勿論、論外だ。高まっているお前の求心力を貶める結果になる。この話は、ここだけの話だ」
そもそも、今更蒸し返すことに誰にも何のメリットも無いのだ。出て行った第一王子はそんなことを望んでいないし、第二王子はパーティーで得た盤石な信頼を少なからず失うことになり、国王は息子の提案を深く考えずに受けたと誹りを受ける可能性もある。
起こったことが全て。そう言うことにするのが一番丸い。
まあ、スウェルドの思うまま転がされたヴィンディの心境は、転がるような丸さとは無縁だろうが。
「強いて言うならば、そうだな。お前はスウェルドに勝ち逃げされたのだ。お前は一生、兄に挑戦する機会すら与えられることはない。それがお前への十分な罰になるだろう」
兄が嫌いだった。生まれた時から王になるのを定められ、その人生を一片の迷いなく歩いているその姿が嫌いだった。関係が良好だった時代なんて無い。幼い頃から、王子の対立を煽るような貴族たちの発言によって、兄弟仲は構築されることなく崩壊していた。
憎々しげに睨む度に向けられる微笑みは、慈愛などではなかったのだ。いずれ自分を貶める存在が、順調に成長しているのをただ喜んでいただけだった。自分の自由を、待っていただけ。
この考えに間違いがあるとすれば、別にスウェルドも、始めから弟をそんな存在として認識していたわけではないということだ。少なくとも、ヴィンディが真っ当な心優しい弟だったならば、色々諦めて国王になるだけの覚悟はあった。だがそうではなかった。
兄の婚約者を奪い、側近を奪い、立場を奪った。その片鱗が見え始めた辺りから、スウェルドはヴィンディを弟として見ることを止めた。弟が元気に睨んでくる度に、与えられる自由を今か今かと待ち侘び、愉悦の笑みでもってそれを受け止めた。
国王の言葉に憤怒の形相を浮かべる第二王子だが、傍らの女性はそんなもので済ませる気は毛頭ない。
「……お話の決着は着いたようですね。それでは、私はここで失礼させていただきます。……後で知って逆上されても困るので今のうちに言っておきますが、私は『影』を抜け、学園にも既に退学届を提出しておりますので、その点あしからず」
「……退学? ま、待て! お前が学園からいなくなったら、アリアネの会場での発言が嘘になるだろう! どういうつもりだ!」
会場で、床に伏す彼女にアリアネは『貴女の身の安全は保証する』と言った。それはまだたった二週間前の出来事であり、当然ながら居合わせた生徒は彼女がアリアネの庇護下にあると信じている。
そんな彼女が急に学園を退学すれば、アリアネに微量でも不審な目が向けられるのは避けられないだろう。たとえ、本人が何も知らないのだと言ったとしても、起こったことが全てだ。
「どういうつもりと言われましても……、私が『影』正式加入時に忠誠を誓ったのはスウェルド様です。彼の方がもうここにいない以上、私のこの国における存在理由は失われています。知っているでしょう? 我々は生涯でたった一人に仕えるのだと」
「そんなもの所詮は口約束だろうが!」
「ヴィンディ! 貴様なんてことを言うのだ!」
「あーあ。第二王子が次期国王として私達に認められるのは、当分先の話になりそうですね。任期が伸びましたが、人気が伸びたと思って頑張ってください、国王陛下」
生涯でたった一人に忠誠を誓うからこその『影』なのだ。現国王就任以降に産まれた『影』候補生の面々は、そのほとんどが未だ誰に仕えるのかを明言していない。少なくとも、ヴィンディに仕えると誓った者は現時点で皆無。
スウェルドに誓おうとした者はいたが、本人からそのうちいなくなるからやめておいた方が良いと止められていた。それを無視して誓ったのは、この女性唯一人だ。ゆえに、今の第二王子の発言は、致命的だった。本人がその失態を自覚するのはもう少し先の話だが。
「約束しましたよね、第二王子殿下。『私の家族の安全は保証する』と。私の家族は『影』です。私への鬱憤を家族へぶつけるのはおやめください。あんなに大事にしている婚約者の言葉を、まさか反故にはしないでしょう?」
「ふざけるな! あんな戯言まみれの会話が有効だとでも思うのか!」
「戯言、ですか。会話の内容をお忘れのようですので一応言っておきますが、私もスウェルド様も、あの場では何一つ嘘など口にしていませんよ。後からそう言われるのも面倒だったので」
「何を……!」
「私は、『殿下に虚偽の証言を命令された』と言いました。第一王子殿下に、とは言っていません。スウェルド様はそんな私の言葉に騙されていただけで、自発的に嘘を吐いたわけではありません。全ては貴方の嘘から始まっています、第二王子殿下。身から出た錆ですよ。噓から出た実、かもしれませんが」
「よくもぬけぬけと!」
「……別に、いいんですよ? 置き土産として、あの時の『殿下』という言葉に関する、生徒たちの勘違いを最後に解いていっても。それこそ、教えを説くように簡単な話です」
そんなことをすれば、第二王子の名声は地に落ちるだろう。明星が地に落ちるように。下手に上がっている分、その落差は尚更激しいものになることは避けられず、王太子になる可能性が残るかどうかも怪しいものだ。
この段階で、ヴィンディはようやく悟った。自分がどうしようもなく負けていたことを。いや、そもそも戦わせてすらもらえていなかったのだ。勝負の前に勝敗は決し、空っぽの舞台で、虚しい一人相撲を演じていただけ。勝ち逃げという言葉すら、優しい。
「まあ、私がいなくなった理由については適当に嘘を吐けばいいですよ。そうやって嘘を重ねて、塗り重ねて、黄金律を見失えばいい。可能な限りの幸福を追求しましょう、お互いに」
扉は無情にも閉まり、息子を失った男と怒りすら失った男が取り残される。だがこの二人に、ここでの話を誰かに相談するという選択肢は存在しない。死ぬまで黙って、墓まで抱えていくしかない。
この国で一番重苦しい親子のこの世で一番重苦しい空気とは正反対に、部屋を後にした彼女は、背中に羽でも生えたかのような足取りの軽さでさっさと城を後にした。
そんな彼女の背中を呆れたように見る家族の視線には、気付かない振りをして。
☆☆☆
「スッウェルド様~! やっと追い付きました~!」
「え、エール!? お前どうやって『影』抜けてきた――いや、お前まさか俺に誓ってたのか!? あんだけやめろって言ってたのに!」
「そんなのどうだっていいじゃないですか! もう王家でも『影』でもないんですから! さっさとどこかの国で籍入れちゃいましょう! ああ、この道こそが私達のウェディングアイル!!」
「意味わからん! ちょ、走るな! その速さで引っ張られると身がもたな――」
裏話――というか、会話中で出せなかった設定諸々。靄々回避用。
パーティー会場での『その証拠だっていくらでも捏造できそうな類のものでしかなく』という部分ですが、これは別に第二王子が『第一王子ならこのくらいでも騙せるだろ』とか舐めていたわけではなく、女生徒協力の元、実際にアリアネによる嫌がらせの現場を見せていたんです。
当然演技です。三人全員。
被害者と加害者が協力すれば完全犯罪の達成は容易。
たとえ当人に被害者の自覚がなくとも。
第一王子の手紙なんですが、小馬鹿にしたような表現が多用されています。『本当なら書かなくていい』とか、『わざわざ』とか、『流石に知ってると思うが』とか。
冒頭の『罪になるから止めといたほうがいい』は、そういう細々したストレスが手紙に向かわないようにする事前の忠告だったわけですね。
親切のマッチポンプ。
実際には、万が一にも破られるわけにはいかないと危惧した女性が読み上げたおかげで、怒りよりも呆然が先に来たわけですが。
最後に名前の明かされた彼女が女生徒役として選ばれたのも当然偶然ではありません。第二王子に協力者候補となりそうな生徒のリストを用意して渡したのがそもそも『影』です。
そしてその中の誰が選ばれても、その役を演じるのがエールであることは決定事項でしたが、この部分は第一王子も知らないことです。
要するにリストの女生徒は全員架空の存在だったわけですね。
第一王子は弟が自分を貶める方法についていくつか想定していましたが、第二王子が選択したのはその中でもぶっちぎりで内通者を仕込みやすい方法でした。
そういう意味では、第二王子は第一王子を根底の部分で舐めていたのでしょう。
あるいは、世の中を自分に都合の良いように考えていたのか。
『影』の面々は別に本気でアリアネと第二王子の浮気を『異常無し』と判断していたわけではありません。というか本気だったら無能すぎる。
初恋拗らせた第二王子の浮気報告を留めていたのが第一王子だったというだけの話で、『近々国王陛下にこういう交渉持ち掛けるから少し協力して』というお願いという名の命令を律儀に守っていたのです。
王族の命令はー? ぜったーい!
まあ、『影』にも感情はあるので、今のままでは絶対に実らない妹分の一途な恋を応援してやろうという気持ちが、無かったかどうかは彼らのみぞ知るところ。
少なくとも、残された王族がそれを知ることは絶対に無いでしょう。
ついでですが、パーティー会場で第一王子を裏切った面々は普通に全員解雇です。
こんな奴ら、危なくて王族の近くなんかに置いておけるわけがない。
こんな蛇足部分までお読みくださりありがとうございました。
また他の物語でお目に掛かれることがあることを祈って。