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郷愁

一年前の夢を見た。大学に入りたての頃の夢だった。俺は鬱屈を溜め込んでいた。白月村に居た時は空虚だった。部屋には 誰もいない。家には誰もいない。歩いても誰もいない。いや、誰かは居たかもしれない。だが、視界に映るだけで視えない。


村を出る計画、村を出ている親父に伝えた、親父はどうしてと言った。俺は言った。世間を知りたいと。親父は笑った。皮肉ったような 笑い声だった。知らなくても良い事を知りにいくと言っていた。親父は正しかった。


最初は都会が異世界に見えた。空気そのものが違って息苦しく思えた。次第になじんでいった。少しづつ病魔のように 体を蹂躙していく。村を出たことを後悔した。後悔しても、もう遅かった。


妹の綾香が近くに住んでいることを知った。電話した。昔みたいに俺と一緒に暮らさないか、突然の申し出、からかい 半分だった。綾香は承諾した。何かに突き動かされて不動産屋をハシゴした。極力、負担をかけないように綾香の仕事場 から近いところを、二人で暮らせるような広い部屋を、熱病に侵された。


何かが戻ってくると思っていた。何かを取り戻せると思っていた。何を失ったかわからなかった。

半年間、一緒に暮らした。マンションの中、俺の部屋は白月村になった。何かが戻ってきた。安らいだ、安穏とした。何を 求めているか気づいた。気づいてなお、見ないことにした。


綾香は多忙だった。看護師という仕事、過酷な労働、もっと落ち着いた仕事を探せよ――俺の願い――綾香は首を横に振った。


綾香の仕事場が移ることになった。マンションからは遠い距離だった。綾香は出て行くと言った。瞳を見た。行きたく ないと言っていた。止めたかった。止められなかった。止める何かが必要だった。俺には何もなかった。


俺は独りでは生きていけなかった。いままで誰かが居たせいだった。自分の心の弱さを呪った。呪い続けた。


啓二と陽一、付き合いをより深くした。陽一に半年間の夢を話した。誰かに話したかった。啓二には話したくなかった。陽一は微笑を浮かべた。 いつだって笑っていた。笑わない時のほうが少ないくらいだった。


陽一は言った。


お前は―俺と似てる。


何が似ているかはわからなかった。容姿も性格も異なっていた。ただ、頷いた。納得した。だが違う。違うんだ。俺は陽一と似ているんじゃない。そう、 俺は――。












夢から覚めた。呪わしい夢だった。懐かしい夢だった。空虚な夢だった。夢物語、自分には似つかわしくないと考えた。


ベッドから身を起こした。目覚まし時計――十時半、完全な遅刻、舌打ち、目覚ましをかけ忘れた。一時間目も二時間目も間に合いやしない。 午後からの講義、憲法所論、ミクロ経済学、気乗りしない科目、だが、行かないわけにいかない。


純一は自分の首から下を見つめた。汗を吸ったシャツ、薄汚れたジーパン、倒れるように眠ったことを思い出す。シャワー を浴びたかった。冷たいシャワーを浴びて熱っぽい頭を覚ましたかった。


フローリングされた床を素足のままペタペタと歩く、手の甲に痛みが電流のように走った。すりきれた手の甲の皮、啓二を殴ったことを思い出した。 憲法所論に啓二は出席している。陽一はいない。顔を合わせずらかった。気力が奪われる。もう一度寝ようかと迷った。 だが、先にシャワーを浴びたかった。


「あっ、おはよ」


誰かの声、振り返った。ダイニングテーブルの向こう、ひなだった。勝手に純一の寝巻きをどこからか引っ張り出して着ていた。まだいたのか、と思った。とっくに出て行ったと思った。


無視して 浴室に向かった。服を脱いだ。熱いシャワーを浴びた。髪をシャンプーで洗った。ボディソープを手のひらに乗せて全身を 適当に洗った。リンスをつけようとした。リンス、無くなっていた。もう少しあったと思った。誰が使ったのかすぐ思い 至った。後で買いに行こうと思った。切れていたアルコールも。午後からの講義をサボる理由付け、容易にできあがった。


冷たいシャワーを浴びた。後頭部を冷やした。熱が奪われていく。すっきりした後、バスタオルで体をふいた。シャツをかぶった。トランクスを履いた。リビングルームに 戻った。冷え切った体を熱気が侵していく。クーラーのスイッチを押した。ソファーに座った。テレビのリモコンを操作した。

ニュース、キャスターの冷静な声、政治家が汚職して弁明していた。秘書が勝手にやったことだと言っていた。誰もが同じ ことを言っていた。もう少し別の答えを見てみたいと思った。


「えっとその……目のやり場にこまるんですけど」


下着姿のことを言っていた。気を利かせる気にならなかっただけだった。


「おはよう」


遅れた挨拶を返した。目がきょとんとしていた。何かを言おうとしていた。相手する気にならなかった。救急箱の位置を 頭に浮かべた。綾香がおいていった。箪笥の中だった。箪笥のほうに向かった。七段構えの一番下、引き出した。四角形の救急箱があった。包帯 と消毒液を取り出した。化膿止めとテープを取り出した。拳を適当に治療した。遅すぎる治療、それでもしないよりは マシだと思った。


残ったやるべきこと――朝食、コンビ二で買ったパンとジュース、テーブルに置いたはずだった。無くなっていた。チップス だけが残っていた。犯人、もう誰だかわかっている。


「あはは………作ろっか?」


「頼めるか」


純一の意図、ひなは察した。キッチンにかけて行った。テレビを見た。ニュースはすりかわっていた。今日の天気を伝えていた。燦々 とする太陽、最低温度が32度、クソ暑苦しい日になる。


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