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亀裂

店員に雑巾を数枚借りた。店員は自分がやると言った。純一は首を振った。俺がこぼしたから俺が片付けるよ、 店員はあっさりと頷いた。


美香は黙々と雑巾がけをしていた。まるでホール全体を掃除しているかのようだった。こぼした範囲をとっくに超えていた。一通り、 ふき取り終わって、純一は美香に声をかけた。


「もう終わったぞ」


「えっ、あっ、はい」


挙動不審、目は左右に泳いでいた。


「何か言いたいことあるのか」


「はい、その、ええっと、色々あるんですが、どれから話していいのかわかりません」


浮き上がっている感情、葛藤、郷愁、緊張、戸惑い、混ぜこぜになって瞳を躍らせている。純一はため息を吐いた。


「後で落ち着いてから話せ。じゃあな」


「後でって先輩、私、先輩の電話番号も所在地も知りませんが」


「綾香によく会ってるんだろ。あいつに訊けよ」


「それが以前、携帯のアドレスと電話番号を催促したらもう使えなくなってるといわれまして」


携帯――大分前に新機種に変えていたことを思い出した。妹の綾香には告げなかった。なぜ、無意識の内に思考から 締め出していた。妹から自分にまつわる物を全て無くなってくれと願っていることに気づいた。


気づいた事実に対して動揺はなかった。そうすることが正しく思えていた。なぜ正しいのかは今だわからなかった。


「社交辞令はいいって。俺の携帯の番号なんて知ったってしょうがねぇよ」


「いえ、かけますよ。かけまくりますよ。それこそ朝駆け夜討ちです」


「悪徳金融屋みたいな奴には正直教えたくないんだが……」


「それはその、言葉のあやです」


「まあいいか……」


十一桁の数字の羅列を美香に伝えた。美香はすぐさま携帯を取り出してメモリに番号を打ち込んだ。瞬間的な記憶力はいいようだった。


「それにしても――」


言葉は途中で切れた。視界に啓二と陽一の姿が映った。啓二、やり場の無い怒りをたたえていた。陽一、呆れた顔つきで 啓二を見ていた。


何かやらかしたか、純一はすぐに判断できた。

啓二は純一を見つけると近寄ってきた。陽一もそれにならった。


「ババ引いちまったよ。ちょっと触っただけで切れやがってさ」


口説こうとした女にかわされたと啓二は言っていた。女の体を味見しようとしたことを言っていた。啓二が興味を失った後の場、容易に想像できた。静まり返る空気、所在のなくなった陽一、啓二に囁く。もう、帰ろうぜ、最初からあ んな女どうでも良かったんだろ。


「残念だったな、これからどうする」


「いつもどおり自棄酒だろうな」


陽一の言葉は三分の一だけ正しい。自棄になるのはいつも啓二だけだった。


「んっ、なんだこのコは。引っ掛けたのか純一」


「いや――」


「支倉先輩のご友人の方々ですか、初めまして、天崎美香と申します」


馬鹿野郎――純一は声に出して言いたかった。声をさえぎったことではない。啓二と陽一に挨拶したことでもない。ただ従順な態度を見せたのが間違いだと言いたかった。


「へぇ、美香ちゃんね。俺は啓二、こっちは陽一だ。純一とはどういう関係」


面白がっている啓二、いつもどおり微笑んでいる陽一、顔をゆがめる純一。能天気な笑みを浮かべる美香。


「ええっと、関係と申しますのならば先輩と後輩です」


「ふーん、っで、カラオケに誰と来たの?彼氏?」


「その、大学の先輩方とです」


「それって、仲間同士ってことだよね。皆女の子?」


「ええっと、そうですね、皆さんお綺麗です」


啓二の重圧のある口調、美香はおずおずと答えていた。答える必要のないことまで喋っていた。


啓二の瞳、先ほどまで光を失っていた。光を取り戻した。好色そうな視線、なめ回すように美香の体を見ていることに気づい た。下卑た小さな笑い、目に付いた。


「じゃあさ、せっかくだし俺達――」


言い募ろうとした啓二の肩をつかんだ。首を振った。手を出すなと伝えた。啓二の中の本能と友情の天秤、傾いたのは本能だった。


「俺達も、ご一緒させてくれないかな」


「ええっと、その……」


わかりきっていた結果、それでも何とかする必要があると思った。陽一に視線を送った。止めろと伝えた。無駄だった。 陽一は諦めろと言っていた。両手を開いて肩をすくめていた。


突如現われた灼熱のような怒り――胸からせりあがってくる。血が沸騰している。心臓が狂ったようにリズム を刻んでいる。全身が啓二をぶちのめせと訴えている。


ふざけるなよ啓二――怒りを押し隠した。無理やり笑みを浮かべた。


「美香、悪いけど、雑巾片付けといてくれ。啓二、ちょっといいか」


「んっ、なんだよ」


「あっ、はい」


袖を引っ張った。戸惑った顔の啓二、耳元で囁いた。俺、美香を狙ってるんだ、だが、お前もそうだろ、納得しないだろ、だから 少し話させてくれよ、啓二は顔をほころばせて笑った。まだ見ぬ女に期待をすり替えたのがわかった。化粧室に向かった。ドアを 開いた。水道の蛇口をひねった。手を洗うふりをした。


「おいおい、マジで狙ってるのかよ純一」


「ああ――悪いな」


言葉と共にすくい上げた水を啓二の目元に向かって飛ばした。虚をつかれた啓二、両手を顔に向けた。開いた腹の中心、鳩尾に拳を叩き込んだ。 嗚咽のような悲鳴が啓二の口元からもれた。体が九の字に曲がった。右頬をフック気味に殴った。啓二はもんどりうって 倒れた。


啓二は用具室のドアに頭をぶつけた。ふらふらになりながら立ち上がろうとしていた。


「なにしやがるっ!」


怒り狂った声、猛った声、困惑した声、憎悪に燃える双眸、答える代わりに横腹をつま先で蹴り上げた。何度も蹴った。蹴り続けた。啓二の涙声がトイレに響いた。


「止めろっ!やめてくれっ!頼むっ!」


足を止めた。唇からもれた血、痛みでぐしゃぐしゃになった顔、瞳の色――情欲は消えうせ、恐怖と微かな怒りだけが残っていた。快感 だった。頭の芯が燃えていた。もっとぶちのめせと誰かが囁いている。


「いきなり……何するんだよ……女はいつも俺が紹介してやってたじゃねぇか――たまにはお前からも 何か……」


「ゴチャゴチャうるせぇよ」


のしかかった。マウントポジション、右で殴った。左で殴った。拳の骨が悲鳴をあげた。殴り続けた。血が沸騰しつづ けている。だが、いくら啓二を殴っても胸のむかつきは取れなかった。


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