きっかけ
カラオケボックス、馴染みの店、飯を食った場所から三百メートルの距離、アルコールが抜けるまで居なければならない。音が殺される個室、何をしてもわからない部屋、閉鎖空間、盛り上がった空気、けたたましい メロディーが耳障りだった。
歌、女の下手糞な歌、流行に踊らされた歌詞とリズム、聞くたびにめまいを覚える。啓二、誰が歌っても拍手、どんな歌声でも拍手、陽一、渋みのある声で 歌う。引っ張り出される。一緒に歌わされる。肩に手を回された。悪くはなかった。つるんでいて楽しいとは思った。
歌――白井ひなの朧げな顔が脳裏に映った。正確には思い出せなかった。フラッシュバックする記憶、桜 の木の下で聞いた。心地よい歌声だった。
それと比べれば女達の歌声は雑音にすぎなかった。空のコップを四つ手に持った。ドリンクバー、ジュースを汲んでくる と告げた。啓二がにやついた笑みを浮かべた。笑みの意味、気が利くじゃねぇか――ようやくその気になったか。
応える気にならなかった。今日は気分が乗らなかった。ではいつも乗っているのか、答えは否だった。
気まぐれの日々、啓二が持ってくる女の話、誰かと付き合ったことがあった。誰かと一夜を共にしたことがあった。誰か とデートをしたことがあった。それが誰だったのか純一は覚えていなかった。
顔のない女を抱いた。顔のない女を口説いた。全てはその場限りのことだった。熱病に浮かされるのは一日だけだった。 一週間は顔と名前を覚えている。二週間で顔だけになる。三週間で全てを忘れる。
億劫だった。何もかもが。倦怠感はいつだって全身を支配している。
お前さぁ、女にコンプレックスでもあるのかよ。
啓二の台詞、二週間目、名前を忘れた女に平手打ちを食らった後に言われた。女は奇しくも同じ大学だった。純一は啓二の呆れた 声を笑い飛ばした。
お前こそあるんじゃないか――啓二は唇を歪めた。
啓二にとって女はダッチワイフだった。欲望を発散させるための道具だった。金と時間をかけてするゲームだった。彼女 を作っても他に自分が良いと思うのがいればすぐさま乗り換える。口先で愛を語りながらも別のことを考えている人種 だった。
純一は啓二を侮蔑する権利はなかった。陽一には権利があった。女を滅多に抱かなかった。性欲の波動を見ることが できなかった。だが陽一は侮蔑しなかった。ただお前ら二人といると楽しくてしょうがないと言った。
女に関心がありすぎる啓二、なさすぎる純一、その二人の中間点、合わせ鏡の役割が陽一だった。
ドリンクバーで空のコップにコーラを注ぎ込んだ。コップを四つ持つことは少し無茶だった。慎重な足取りで純一は 廊下を歩いていた。
だが。
一瞬、純一は体が揺れるのを自覚した。胸に衝撃、水しぶきが宙を舞った。コップが揺れて一つ落下した。フローリングされた床にコーラがぶち まけられた。はいていたジーパンが水分を吸って変色した。
口からもれた舌打ち、ぶつかってきた相手を睨みつけた。気がささくれていた。だが、驚きで目を大きく見開いた。視界の全てが冗談に見えた。
「あっ、支倉先輩?」
「……少し服にかかっちまったな」
応えず、ハンカチをポケットから取り出した。肩にかかったコーラを拭いてやった。天崎美香は目を白黒させながら 壊れた人形のように身動きを止めていた。
美香のシャツにかかったコーラ、ハンカチが吸収できる許容量だった。床にぶちまけられたコーラ、店員に声をかけて 雑巾か何かを借りなきゃいけないな、と純一は思いつつ口を開いた。
「俺も悪いが前を見なかったお前も悪い。だから謝らなくていい」
口を開こうとした美香を黙らせるには十分な効果があった。純一はコップを全てサイドテーブルに置いた。言いたいはずの 言葉――何を言っていいかわからなかった。
「久しぶりだな」
口に出た言葉は平凡だった。白月村を出て以来なんの接触もしてなかった。数年ぶりの再会、それほど感極まったもので はないが懐かしさはある。
「あっ、はい!このたびは真に申し訳ない所存でございまして」
「謝らなくていいって言っただろ。ところで、何してんだお前」
「いえ、その、あの、大学生になったばかりでして、先輩方に玩具にされていると申しますか何といいますか」
「この近くか」
「はい、待望の一人暮らしです。正直村を出るのは怖くて仕方なかったのですが自立心を向上させたいのとお父さんがやや傾斜気味な目で――まるでカタを取って人形にしたいかのような 眼差しを向けられました末の結論でして」
白月村――思考を狂わせるキーワードーたまに手紙が来た。読んだ。返事を返した。何度か帰ってこいと言った。 跳ねのけてきた。帰りたくなかった。理由はわからなかった。
「そうか……じゃあな」
「えっ、その、ええっと、その」
何か言いたげな唇、動転しているのか去ろうとしたのにも関わらず、袖をつかまれた。
「心配しなくてもこの床は俺が処理しておく。カラオケに来てるんだろう。戻れよ」
「……支倉先輩素っ気無さすぎますよぉ」
それが捨てられた子犬のような顔と声だったので、純一は肩を落としてうめいた。