白井ひな
バイト、手につかなかった。ホールを駆け巡る気にならずわざと力仕事を望んだ。無心に体を動かした。何かをしていれば 何もかも忘れられることを知っていた。忘れられなかった。肥大していく思考回路――何もかも知りつくせと叫んで いた。
最初に浮かんだ綾香の顔、ただ恋しかった。次に浮かんだ陽一の顔、ただ呪わしかった。最後に浮かんだひなの顔、見たことのない感情 が胸の中を渦巻いた。表現できなかった。キャンパスに絵の具をありったけぶちこんだような色彩だった。
感情の色、絵の具を全て混ぜた結果、黒くなる。黒く染まっていく。黒色が頭の中を埋め尽くす。
純一は目をつむった。バイトの時間、矢のように流れていく。終了後、同僚に挨拶をかわして車に飛び乗った。
頼むから俺の部屋に居るんじゃねぇぞ――願った。神聖な願いに思えた。自分が何をするのか予測できないほど 錯乱していた。脳を駆け巡る脳内物質という麻薬、火のついた導火線、頭の中に爆弾があった。爆発しそうな神経、苛立ち、困惑、 狂っていた日常、全てが一つになった気がした。
部屋に戻った。荒い息を吐き、血眼になって姿を探した。リビング、トイレ、キッチン、寝室――居ない。居なくなった。襲ってきた安堵と喪失感、安堵 のほうが勝った。
ソファーに乱暴に座った。自分を壊す者は消え失せた。残りは陽一、綾香は問題にならない。元々、接触していない。必要以上にしてこ ない。
しばらく過ごすであろう陽一と二人だけの日々、悪くないものに思えてくる。ずっとそのままでも良かった。馬鹿をやればいいと 思った。時には狂気に侵されれば良いと思った。それが普遍であればいいと願った。
クーラーのスイッチを入れてテレビのリモコンを操作した。女にセクハラしているところを楽しむバラエティー、胡散臭いテレビショッピング、記号 で埋め尽くされた天気予報、平凡な日々を描いているだろうアニメーション、テレビのスイッチを切った。
天井を見上げた。無音の空間が戻ってくる。空虚な日々が戻ってくる。夜のような闇こそ生きていられる場所だった。他の ところに引きずり出されたら死んでしまう。深海魚は浅瀬に上がれば死ぬことになる。見たことのない太陽に焼き尽くされる ことになる。
強迫観念――それすらも心地よくなってきた。
急に喉が渇いた。忘れていた渇き、心が落ち着いたことで体が欲求を思い出した。キッチンに行こうと立ち上がった。天井から 視線を動かした。信じられないものが目に映った。
「これ、どうかな、結構、可愛いパジャマだと思わない?」
無邪気な声――目が熱くなった。得たいの知れない感情が嵐になった。熱い涙が頬をつたった。いつの頃か忘れていた涙だった。ずっと泣いていなかったこと 思い出した。泣くことなど忘れていた。
白月村を出てから泣いたことなどなかった。
「あれ、変かな?」
顔を逸らしたことで、ひなは不審に思った。変に思われたと解釈した。
「ああ……いまどき熊のぬいぐるみのパジャマはないだろう」
顔、うつむかせて答えた。涙、見られたいはずがなかった。
「あれ?どうしたの。照れてるの。珍しいね、そんなところ、全く見せたことがなかったのに」
「悪かったな、シャワー浴びてたのか。俺も浴びるとするかな」
涙、止めた。シャツを脱いだ。背を向けた。見られないように顔を拭いた。
「うわっ、お兄さん良い体つきしてますねぇ~」
ふざけた調子ですり寄ってきた。急に振り返った。強引にソファーに押し倒した。叫ばれる前に唇を唇でふさいで黙らせた。
自分が何をするかわからない――正しかった。純一は目がまた熱くなるのを実感した。
私のこと、好き?
単純でいて真摯な問いだった。望んでいるだろう答えは答えられなかった。わからない、と言った。
私が、欲しい?
ゆっくり、肯定した。自分を呪った。呪ってなお、鎮火しない欲望、死にたくなった。首に刃物を突き刺してやりたかった。
そっか、私、逃げられないしね。
諦めた声だった。逃げてくれ、狂おしい声だった。逃げないでくれ、狂おしい声だった。どちらも正しかった。
なんで泣いてるの、せっかくだし、楽しんでよ。遅かれ早かれ、こうするつもりだったと思ってたのに。
何かを呪っていた声だった。何を呪っているのかわからなかった。目の前の自分、それを含めてなおも足りない呪いだった。
私、執念深いし恨み深いよ?
構わないと答えた。ずっと呪っていてくれと答えた。呪い続けてくれと口に出さず願った。殺してくれと心の底 から願った。
清らかな乙女も今日で廃業かぁ、ちょっと残念です。まっ、いいかな。
まるで好きテレビを見損ねた子供のようなすねた顔で彼女は言った。