忌避
遅すぎる昼飯をファミレスで一緒に食った後にバイトに行くと言った。ひなはうなずいた。部屋においてきた。帰ってきたらいないかもしれないと思った。それでも 良いと思った。バイトまでの時間、二時間もあった。六時から十二時までの居酒屋でのバイト、働かなければ遊ぶ金も 作れない。
車の中で音楽を聴いた。ビートの激しい洋楽、狂ったように激しいめちゃくちゃなリズム、ドラム、ベース、ギター、歌声、なぜか全てを聞き分けること ができた。神経がささくれだっていた。鋭敏になっていた。
胸ポケットが振動した。バイブレーター、携帯、番号は見たことがあるものだった。音楽を消して耳にあてた。
「先輩ですか?」
「もしもしぐらい言おうぜ。俺じゃなかったらどうするんだ」
聞き覚えのある呼び方と声――美香だった。
「どうもしません。間違えましたというだけです」
「意外にタフになってるな」
「成長しましたから」
口調、軽快だった。楽しそうな声だった。何も知らない美香、何も知らないままにしておけばよかった。
「先輩、会えませんか。色々お話したいです」
「電話じゃダメなのか、俺、バイトがあるんだが」
「ダメです。美香は真剣なんです」
口調、トゲが混じってきた。美香が怒る理由――容易に思い浮かんだ。
「どこにいるんだ。俺が行ってやるよ」
会いたくなかった。会わないわけにはいかなかった。恐れより知りたいという欲求のほうが強かった。
俺が怯える理由はいつだって同じことだった。そう思って、純一はステアリングに拳を叩きつけた。
喫茶店に入った。美香、しかめっ面を浮かべてテーブルに入っていた。待ち合わせの場所、先に来ていた。
「待ったか」
「待ってないです」
腰掛けた。向かい合わせ、美香の顔、よく見ればあどけなさが少なくなっていた。艶を帯びていた。よく見なければわか らない薄化粧、誰だって変わっていく――真実に思えた。
「電話、かけ直さなかったことを怒ってるわけじゃないよな」
「そんなので怒るほどカルシウム不足してないですっ」
怒りとカルシウム、結びつくならば俺ももっと魚か何か食うべきだ、と純一は愚にもつかないことを思った。
「じゃあ、なんなんだ。なんで怒ってるんだよ」
怒る理由、一つしかなかった。知っていた。それは推測というより確信だった。だが、わからないふりをするしか なかった。
「綾香先輩のことですっ!どーして、素っ気無いんですかっ」
綾香――思考を狂わせるキーワード――他人の口から聞けば気が狂いそうになる。ウィークポイントだった。そこに 触れられれば為すすべがなくなってしまう。
「俺もなかなか忙しくてな」
「うーっ……」
睨まれた。美香の睨み、子犬にほえられているのと変わらなかった。
「じゃあ、どーして、素っ気無いんです。以前、綾香先輩に送った手紙の内容もなんだか事務的っていうか機械的っていうか 心がないっていうか」
「読んだのか?」
「読みましたとも。“俺は元気にしている。お前も元気にしてるようで安心したよ”ってこれだけですか。なーんにもわかん ないじゃないですかっ」
そんな内容だったか――記憶を掘りおこした。覚えちゃいなかった。
ウェイトレスが何か運んできた。前もって美香が注文したものだった。オレンジジュースとバナナジュース、置いて微笑みを浮かべて立ち去られる。兄妹がたわ むれているとしか周りには見えなかった。
「綾香先輩、ちょっと落ち込んでますよ。先輩の話すると目に見えてガクンッとくるんです」
心がきしむ音がした。ギリギリと万力で締め付けられているかような痛みが胸を襲った。表情、動かしはしない。
「そうか、それは知らなかったな……また電話しておくよ」
「本当ですか。なんだか嘘っぽいです。というか支倉先輩自体がなんだか……」
見破られる――俺が俺でなくなっていることに気づかれる――誤魔化せ、誰かからの命令が聞こえた。微笑みを浮かべた。美香の不安を払拭してやる必要があった。
「何言ってんだよ。あいつは俺の大切な家族だ。わかるだろ美香」
思ってもいないことを言った。だが、正しいことでもあった。矛盾、どうして矛盾してしまうのかわからない。
「そう言われると弱いですよ。美香の思い過ごしかもしれませんが……とにかく、必要なら美香は力を尽くしますよ」
飼い犬の反抗なんて――簡単に何とかできるものだな純一、陽一の声、幻聴、聞こえないふりをした。
「心配かけたな。好きなもん食ってもいいぞ。俺がおごってやる」
「先輩、なんだか美香のこと子供扱いしてません?」
「好意を邪推で返すなよ」
「なら良いんですけど……あっ、先輩これ見てください」
一転、笑顔を浮かべて何かの雑誌をカバンから取り出す美香、切りかえしが早いさっぱりとした性格、変わってはいなかった。
純一は差し出された雑誌を見た。タイトル、英語ではないギリシャ文字で 書かれていた。表紙、長身のモデルが王国貴族のようなきらびやかな服を着ていた。
「なんだよこれ。女性ファッション誌なんて興味ねぇぞ」
「まあまあ、面白いのが載ってますよ」
美香の意図、読めない。言われるまま手に取った。パラパラとページをめくった。見知った顔がいた。手を止めた。目を大きく見開いた。
「ひなか……」
「ええっ!凄いですねぇ。美香、ちょっと見つけたとき憧れちゃいました。知ってる人がこういうのに出るとなんだか嬉しく なっちゃいませんか」
本の中のひな――見たことがない笑みを浮かべていた。優美な笑みだった。違う世界にいる者の笑みだった。宝石の 刺繍のある青空のようなワンピースと麦わら帽子、寒気がするほど似合っていた。
「確かに面白いな美香」
「ですよね。いやまあ、綾香先輩もお綺麗ですけど、白井先輩も凄いですからね」
「安心しろよ――」
胸の中の動揺、悟られるわけにはいかなかった。
「お前も相当可愛いぜ」
言ったことないお世辞、向けたことのない賛辞、美香の顔、トマトみたいに赤くなった。笑えた。笑ってやった。だが、 これっぽちも心の中では笑えなかった。どうしてかはわからなかった。わからないことだらけだった。