迷路
携帯電話――強烈なラブコール、七件の着信履歴、電話番号は全て一緒だった。五分おきに電話をかけていた。 こんな非常識なことをするやつは一人しか思い浮かばなかった。朝八時半から九時五分までの間だった。
「朝駆けか……」
あやではなく言葉どおりだった。純一はうめきながら携帯をソファーに投げた。ひな、洗練された手つきでコーヒーを 飲んでいた。昨日の女達に比べればはるかに上品だった。横顔、肌に張りはない。目の下にはかすかにクマがある。睡眠不足 だった。
作られたハムエッグとトースト、食い終わった後に皿洗いまでし始めた。慣れた手つきだった。我が家のように食器を 拭き、片付けていた。
差し出されたコーヒー、テーブルで向かい合いながら飲んだ。何を話すべきか、迷った。思い出話、したくなかった。そも そも思い出があるかどうかも疑わしかった。ただ同じ高校にいてクラスメイトだったときがあって歌を盗み聞いただけの ことだった。
かったるいなら叩き出せよ――陽一なら言う台詞。
女なら誰もいいじゃねぇか――啓二なら言う台詞。
どちらの声にも耳を貸す気にならなかった。
「家まで送るよ」
言った。ひなは困ったように笑った。
「幸江さんが心配しているだろう」
身内から責めていった。的外れだった。ひなは首を振った。
「お姉ちゃんは村にいるよ」
「一緒に暮らしてないのか」
「ううん、私一人暮らし。お姉ちゃんは子供にかかりっきりだし。旦那さんといちゃついてるし、なんとなくね」
ニュアンス、自分の場所では消え失せていると言っていた。同情、これっぽっちも沸かない。
「仕事は?」
「えーっと……昨日まであったんだけど、いやになっちゃった」
「貯金は?」
「ヒミツ」
「家まで送ってやるよ」
「うわっ、冷たい。そこまで聞いてそれはないですよ」
「俺はよ――優しくねぇんだよ」
「そうかな」
かわされた。ひなは何を望んでいる。何を思っている。何もわからない。わかることができない。白月村に居た頃の 自分なら――同じことだった。
「わかってんのか」
恫喝、疲労は回復している。怒りも呼べる。凶暴な自分、啓二を痛めつけた自分、残虐な悦びに身を委ねる自分、よみがえる。 よみがえってくる。心、どす黒い感情で埋め尽くされる。
「得体のしれない男の部屋にいるんだぜ。知り合いだから?見知った顔だから?故郷が同じだから?ふざけるな、思い あがってんじゃねぇ。面がいいからさぞ男は媚てきただろう。俺は違う。俺は女に狂ったことなんてねぇ」
違う。俺は過去に自分の妹に狂わされた――虚飾の言葉に真実などいらないと思った。下卑た笑みを浮かべた。
「犯されたいのか?テメェの穴に突っ込んでやろうか?悲鳴をあげても誰も来ない。ここは防音はしっかりしてるんだぜ。 わかったか。五分待ってやる。金もくれてやる――俺の気が変わらない内に消えろ」
怒りに任せてテーブルを叩いた。コーヒーカップが宙に浮かんで落ちた。テーブルに黒い液体がぶちまけられた。財布からATMでおろした札束をテーブルに置いた。この世界は 全て金で解決する。裁判所が認めている。国が認めている。世界が認めている。五万、このうっとうしさから離れることができるなら高いとは思わなかった。
ひなへの二度目の恫喝、今度は十分な効果があった。肩が震えていた。拳を握り締めていた。顔をうつむかせていた。顔から血の気が消えていた。何かに耐えていた。
純一は目をつむった。言いたいはずの言葉はもっと優しいものだった。口に出た言葉は優しさの欠片もなかった。俺は 変わった。変わりすぎている。自覚した。自覚して充てのない憎悪にかられた。
五分経った。ひなは人形のように動かない。無言の行。慰めるという選択肢、選ぶ気にならない。選んだとしても、もう遅い。
かったりぃよクソ野郎――見えない誰か、神か、もしくは自分か、誰かに向かって心の中で言った。灼熱のよう な怒り、鎮火しつつある。
純一は目を開けた。ひなの肩に手をおいた。ビクッと震えた。怯えていた。唇をゆがめた。顔を近づけた。真正面から 目を見た。見てやった。薄汚れた俺の目を見て――現実を直視しやがれ。強くそう思った。
「私……行くトコないよ」
逆に凝視された。涙で潤んだ目だった。絶望を知っている目だった。何もかもわかっている目だった。現実を見せた。見せたのは間違いだった。後悔―――――――俺はいつだって後悔している。純一は 自嘲した。
寝室に戻った。ひなには何も言わなかった。言えなかった。何があって、何が起こっていて、何をしようとしているのか。 問う気にならなかった。
枕を抱き上げた壁に押し付けた。筋肉がしなった。勢いよく殴った。包帯から血がにじんだ。怒りは完全に鎮火していた。 ひなへの哀れみもない。そんな感傷的な部分はどこかに投げ捨てた。ただ、わけのわからない感情が頭の中をかけめぐっていた。狂いそうだった。
自分が何をしたいのかもわからなかった。いや、ずっとわかっていなかった。自分のことなのに自分のことがわからない。 笑えた。笑う気にならなかった。
「現実を見ろ」
呟いた。これから何をする。思索した。思考回路――無理やり加速させた。
買い物に行く。大学に行く。バイトに行く。ふざけたことをやる。一時の享楽に 身を任せる。繰り返してきた連鎖をまた繰り返せばいい。それが自分のしたいことだろ、強く暗示をかけた。そう思わなければ 何かが壊れてしまいそうだった。
考えるな、考えないでくれ――目をつむった。瞼の下には闇がある。何もないから、何もない。安住の地、暗闇を歩いている。 夜を歩いている。ただ暗いほうに行けばいい。闇夜を好め。暗夜を行け。太陽のイメージは忘れていた何かを照らしてしまう。
胸に手をあてた。心臓の動悸、ゆっくりとしたリズム、音はすぐに聞こえなくなった。
「買い物行くか……」
いつもの自分、取り戻した。