未知は観測の果て、理解は誤認
取り敢えず、今日の昼御飯は美味しかったわけだが。
上等なハンバーグステーキに、焼きたてのパン。至福の美味さ。
特段触れて語ることもないような日常の中、少し足をのばせば――それどころか、ただ変わらない日常を送る中ですら、切り出して意味を見出だせる部分というのは、普段意識していないだけで、ありふれている。そこに切り出す意味を感じないのは、それがありふれてそこにあるから、というわけでは断じて無い。単純に、奇跡の結実としてそこにある事象というものを、そうであると認識しないから、意味を感じられるものが減っている、ただそれだけだ。
奇跡、などという言葉を軽率に使うと、本当に希少な何かを表す言葉を損ない、言葉が陳腐な偽りに見えてしまう、という人も恐らくはいることだろう。
だが、有り難いこと……原義において「得難い幸福」というものは、やはりどこにでも転がっている。想像している最悪の人生を歩んですら、想定外の不幸が起きていないならば、それは有り難い幸福と言える。もとより、人や生物の本能は基本的に他者を顧みないものであって、何か害されない、というだけでも割と幸福に該当する。
何よりも、今ただ健康であるのなら、痛みがないなら、死に瀕していないなら。想像可能な望ましくない状態の一部でも、今そこに無いという事実は幸福にあたる。我々は、それを納得していないというだけの話だ。
……まぁ、そんな話は良くて。
相対的に「何かあった」からこそ、この文章は書かれているのである。それを違えることは出来ない。
今日も京都て……もとい、今日も今日とて、懇意にさせていただいているご家庭のお子様と、正確にはその両親と交流をしてきた、そういう日記。別に、Yちゃんと接する見返りに、その記録を公開することを義務付けられているとか、そういう事実はない。それでも、やはり赤ちゃんはいい。至宝。素朴な幸福の原質に触れ、「生きる」ということの原点に立ち返り、日々を振り返る……そういうのも悪くはない。
割と長い付き合いで、しばしば電話(※)越しに存在を認識可能なYちゃんではあるが、もちろん普段の姿というものは見えているわけではない。ビデオ通話ならどうか、とかそういう意味でもなく、純粋に平時は観測可能ではないという、厳然たる物理的事実としての不可視化されている領域があるわけだ。
この前、別の切り口で語ったような、語らなかったような気がする「概念の実在性」とは別に、至極単純な状態として、目視可能な近くにはいないということが、たまたま見えている範囲の、覗き窓の如くに限られた部分以外を、認識の外に追いやる。より平たく言えば、見えんし聞こえんから知らん、そういうこと。
それでも、見えていない瞬間にはYちゃんがこの世に存在しない、とかそんな訳はなく、世の大多数の人が、私の与り知らんところで勝手に生き、そして死んでいるのと同じように、彼女もまた日々成長しているのである。確か二ヶ月くらい前は自立(単独での社会活動成立の意ではない)すら出来ないような感じだったはずだが、今日はその脆弱な両足でもって、それでもしっかりと立っていた。
男児たるもの三日会わざれば刮目してどうたら、という言葉もあるが、やはり万象というものは、私が知らん間に勝手に(もちろん誰かの頑張りによって、ではあるが)成長していくものである。阪神梅田の駅も、知らん間になんか見た目が変わっていた。こうやって、落伍者は時代に取り残されながら、ふわふわと拠り所なく漂うのである。
まぁ何度も言ってはいるが、Yちゃんは女の子なので。女児。
そもそもまだ定義上の乳幼児をやっと脱するくらいの幼子、赤ん坊に性別もへったくれもあるかという認知はあるわけだが、厳然たる事実として、Yちゃんは生物学上の雌である。……なんか言い方悪いな。おんなのこです、はい。
それでも敢えてここで男児の言葉を引用したのには、ほんの僅かながら理由はあって、別に「ちょっと目を離したら、いつの間にか目を瞠るような成長をしているのって、男児だけじゃないよね」という、男女平等主義というか、政治的正しさというか、あるいは概念的妥当性というか、そういう動機に由来する。
とはいえ、そもそも万物万象はただあるようにあり、進むように進み、滅ぶように滅ぶのだから、どちらかというと世界観的には「色即是空」の方が合うような感じもするが。なんにせよ、意識しようとしなかろうと、現実はなんかこう、勝手に進んでいくのである。
世界が進んでいくのに対して、ついていくのも、置いていかれるのも、あるいは反逆しようとかも、それぞれ自由にすればいいのではあるが、そんなことは今を生き、成長し続けているYちゃんの前では、心底どうでもいい。ただ愛で、庇護し、その道行きに祝福を願うばかりである。
本題についてだが、どこまでも可愛く愛嬌溢れたYちゃんは、話を聞く限りでは、普段はそこまでご機嫌という感じでもないらしい。もちろん、平時は逆にどこまでも不機嫌であるとか、そういうことではないと思うが、私の前では割とずっとご機嫌であるように見える。
いや、実際のところは知らない。そもそも、平時との比較が可能なのは、平時から見ている人……すなわち両親、ないしは友人Aだけだ。取り敢えず「そういうことにしておけば好感度も上がるだろう」という打算がそこにありえないとは限らない。どういうことであれ、そこに好ましい特別性があるという想念は、人を惹き付ける魅力である。
「貴方だけは特別なの」
あると思います。特別と言っても、誰かだけがそうだとは言っていない。言ってるけど、言ってない。そういう意味じゃない、とでも言いますか……。
ただ、重要なのはそこではない。私が都合の良い(そこまで便利な訳でもないし、ただ居るだけだが)男として利用されるとかされないとか、打算と欺瞞に踊らされている哀れな野郎だとか、私のことは本当にどうでもいい。重要なのは、Yちゃんが健やかに育つこと。Yちゃんが楽しそうであること。それに尽きる。
次代を担うものが健やかに育つことに勝る幸福はない。そこに不満足が伴わないことは有り得ないにしても、出来得る限りの庇護と見守りをもって、その成長を助けることが、責任ある大人としての責務であろう、と私は思う。責任感は言うほどはないが。
みたいなことを言いつつ、Yちゃんから「おう読めやオッサン」とばかりに渡された絵本の類を読んでやることもせず、ただその行動の意図を汲もうとするふりをしながら、しばらく消極的な感じに戯れていた。
我ながら、別に読んでやりゃいいんじゃねえの、とは思うが。とはいえ、絵本の読み聞かせなどは、両親がさんざんやってあげているに違いないので、敢えて私がやる必要もなかろう、とも思っている。我が子ならともかく、友人の子だし。我が子にならやってやれるのだろうか。あまり自信はない。
なんにせよ、意識的かどうかには依らず、あらゆる経験が人生の糧となる。してあげることも、勝手にしていたことも、経験が人生を形作る。そこに何が良いとか悪いとかの予測はつかず、それでも結果だけがそこに残る。健やかに育つことを期待されても、それが期待通りの結果に繋がるとは限らないから、ただ「そうであってほしい」と祈り願い、日々が良くなることを信じて、何かをするのである。
その振る舞いは、本質的には予測可能性に由来しない。上手くいくから努力が出来るのではなく、ただやるべきだと感じたことを、結果の良し悪し以前にただ取り組む。我々を衝き動かす根源のなにかが、我々を行動に駆り立てるのだ。
そんな感じで、過去も今も、そして未来も恐らくはYちゃんは可愛く、その道行きが多幸のものであればいいと願うわけだが。
ここからは、そういうのとは関係のない、要らん話に繋いでいく。
教訓だの、説教だのに興味ない人は、ここで帰るといい。
----
ここでは、「理解」という想念について話す。
我々は世界に生きる折、色々な物事を観測し、認識し、理解して予測し、そういったことを繰り返して軌跡を作る。折り重なる歴史が、数々の過ちを経て今に至った。覆しようのない現実と、時間の堆積がそこにある。
自らの行いに対して、本質的な意味での反省が出来ない、不出来な「人間」という生物は、ここで概念を「理解」するということの意味を取り違える。理解というのは、概念の予測可能性の方ではなく、むしろ発生した現象の過程の認識と、その抽象化によって生まれるものだ。間違っても、今起こっていることを過去の事例に照らし合わせ、その顛末を予測出来ることが「理解」の本質ではない。
もちろん、現実的に「役に立つ」手法はそういうものだ。それでも、物事を正しく見て捉えるということは、それを上手く扱うことと等価ではない。我々は、極自然にそこを履き違える。目的を達成するのに必要な要素が、目的そのものと等価に扱われる。そこにある違いを意識出来ない。
実のところ、事象に類型を見出す際に、それを正確にやろうとするほど、その本質は分からなくなるものだ。現実に起こることというのは、無数の「同じように見える、別のこと」だ。同じ、ではない。違いがあるのだ。
何を馬鹿な、それを理解していない奴はいない、と思うなら。やはり、それは分かっていない。そもそも、抽象的な層で概念を見なす時、どこまでを同じだと見なし、どこからが違うのかを認識する必要がある。概念の同一性を認識する際には、同じであることよりも、違いがあることの方を意識しなくてはならない。
抽象化された概念認識においては、具象は適宜無視される。故に、そのようである、と解釈さえしてしまえば、それはただ「そういうもの」として扱われる。
人の認識というものは、放っておいても勝手に正しくなるようなものではない。間違って認識したものは、間違ったまま認識され続ける。一度正しいと思ったことを、その誤りを再認識するのは難しい。たとえそこに現実的な不利益があっても、省みないものは省みない。間違っているのは常に相手で、それだけは間違いないのだ。
むしろ、この世の観測可能な事象というものは、深く洞察すればするほどに、その本質の分からない部分を知るものである。見て知れる事のうち、理解が及んでおらず、不明な領域を知ることで、初めてこれを考えることが出来る。
分かっていることには思案が生じない。本当に対象を理解しているか、という疑義がない限り、誤解は正されることがない。物事をより深く知るためには、むしろ知っていることを疑い、何を知らないのかを知り、無数の可能性の観測の果て、どうやら正しい可能性が高そうな、特定の条件下における再現可能なことを捉える必要がある。
昔から言われている言葉を引用するなら、「知らないということを知る」ということだ。無知の知、とか言われている。
比較的分かりやすい、物理法則ですら、実際には我々の理解の及ばないものを、我々が生きている局所において「どうやらそうなっているらしい」と把握している部分を、まるで絶対不変の真理であるかのように誤解しながら、知っていることをただ運用しているだけに過ぎない。
だというのに、我々はしばしば、誰か存在する人というものの心を、当然のように決めつけて判断する。そこに妥当性があるわけでもないのに、ただ「そのように決めた」誰かの精神の複製品を捉え、それに基づいて相手を規定する。
分かっていない、ということは別に恥ではない。知らんものは、知らん。それ自体はそれでいい。
好ましくないのは、実際には知らんものを「知っている」と言い張って、明らかに実態に即していない判断を正しいものとして扱うことであったりとか、知る必要があることを知らんまま開き直ってそのままにすることであったり……つまりは、本来出来るはずのことをしないことや、本来出来ないはずのことをすることであったりする。
そもそも、人間という生物は、大したものではない。
少々長く生きて、少々は知恵の回る、大半は愚かで矮小な塵芥の如き生物が、恥知らずにも自分自身のことを霊長類などとほざいているに過ぎない。
そういう事情を弁えて、慎ましやかに生きることで、初めてまともなものであれるのだから、せめて「知らんものは知らん」と認められるくらいの謙虚さは欲しいものである。
……我ながら、何を言いたいかはまとまっていないと感じるが、想いが紡ぎ出す言葉というものには何かしらの意味があるだろうと信じて、取り敢えず投げておくか。
良いものも悪いものも、定義されて、評価されて初めてそこにある。悪いものとて、あってもよいのだから、それが「どう良くなかったのか」を知るためにも、残しておく。
まぁざっくりまとめるなら、実際には知らんことほど雑に断定しがちだよね、っていう話である。賢くありたいなら、馬鹿である部分を自覚しよう。
※電話越しに:ここではインターネットを経由した音声通話を含んでこう表現する