喧嘩を売る相手を間違えた
ドロシー・ヴォルゲーテ公爵令嬢は王太子の婚約者である。
それがミメット・コレイル男爵令嬢には我慢がならなかった。
王太子。次期国王。
その立場にあるアレックスはきっと王子というものを想像しろと言われたら誰もが彼の事を思い浮かべるに違いないくらいには、非の打ち所がない。国中の女性の憧れ。きっと誰もが一度は彼に恋をしている。そして、ミメットもまたアレックスに対して恋の炎を燃え上がらせていた。
身分が違う。諦めなければ。でも、好きというこの気持ちは抑えられない……!!
日に日に苦しくなる胸は、いつかきっとこの想いではちきれてしまうのではないか。
そうしたら、あの御方へ向ける愛が視認できるだろうか。
もしそうなってしまったら。
その時に、少しでも私の事を思ってくれるのならば。
いっそ、この命だって惜しくはない。
例え愛を向けてくれなくとも、アレックスがミメットに対して「死んでくれ」と告げたのであったとしても。
きっと笑顔でその言葉に従うだろうくらいには、ミメットの頭の中はアレックスだけで一杯だった。
あの人と同じ世界に生きて同じ空気吸ってるって考えるだけでトキメキが止まらない――!!
なんて頭の悪い発想も平気で浮かぶ始末。
どうして自分は男爵家の生まれなのか。
せめて公爵家……いや、侯爵家、いっそ伯爵家でもいい。
それならどうにか彼の婚約者候補に名乗りを上げる事だってできたはずなのだ。
しかし現実は男爵家だ。
どう足掻いたところで婚約者候補に、と名前が出る事すらない。スタートラインにすら立つことを許されない身分。もう男爵家とか平民と同レベルじゃない! としか思えなかった。
アレックス様の婚約者候補に、と言われる程度には家の身分がなければ貴族だろうとそんなもの意味がない。男爵家だとか子爵家だとか、正直存在している意味あります? とミメットは思っている。思うだけなので口に出してはいない。出していたらそもそもミメットの立場が終わるわけだが、その程度の分別は持ち合わせていた。むしろそれしか持っていなかった、といえばそれまで。
好きで男爵家に生まれたわけではないのに、男爵家というだけであの王太子の婚約者候補になる事すら許されない。そんな理不尽があっていいのか。
ミメットはその事実を思うだけで目から血の涙を流す勢いであった。
ドロシー公爵令嬢がミメットも認める程に非の打ちどころのない令嬢であったなら、流石に毎日こんな悔しい思いをして生きなくて済むのだが、残念ながらミメットから見てドロシーはアレックス様の隣に立っていい女性ではなかった。
別にミメットが認めていようといなかろうと、ドロシーはアレックスの婚約者である。
ミメットがドロシーを気に入らないという理由はいくつかある。
そもそもアレックスの婚約者が自分以外の女であるという時点でもう存在が気に入らないのだが、それ以外の部分をあげるのであれば。
まず、美人かもしれないけど何か思ってる方向性の美人ではない。
理想の王子様を想像しろ、と言われればアレックスが思い浮かべられるかもしれないが、理想のお姫様を想像しろ、と言われてドロシーを思い浮かべる人は恐らくそうはいないだろう。
美人、とは言われている。
いるのだが、なんていうかキラキラした美しさというものがない。
どちらかといえばちょっとじめっとした感じの美人。
美人にキラキラもじめっともあるかい、と言われそうだがあるのだ。
ドロシーは目に前髪がかかっていて顔がハッキリわかる感じではない。目元が見えにくいこともあって、なんというか最初は美人だとか思わないのが大半だ。目元が隠れているせいで、表情がわかりにくい。そのせいで第一印象から好印象を持たれるタイプではなかった。実際ミメットもなんだこの暗い女、というのが第一印象だった。仮にも自分より圧倒的身分が上の令嬢に対して。
ちょっと俯いているのも余計そう思える原因だろう。
せめて背筋を伸ばしてしゃんとして前を見ればもうちょっとは……もうちょっとは……どうだろう……?
何かいっつも下向いてるし、暗い雰囲気あるし、正直話しかけたい感じではないのよね。
なんてミメットは思っている。実際身分が上の相手の許可もないうちから話しかけたらアウトなのでそもそも話しかけようとは露ほども思っていないが。むしろあんなの用がなかったら話そうとも思わない。
誰かと会話をしている時に聞こえてきた声も、ミメットはなんか好きになれなかった。
見た目はじめっとしてるくせに、声はなんかきゃるんとしているのだ。そこはもう声も見た目にあわせておけよと聞く人が聞けばそんな無茶なと言いたくなるような言いがかり。
これが誰が見てもキラキラした美貌の、周囲からも人が絶えないくらいに好かれてるタイプの美女であったらミメットだって諦めた。
どう足掻いても自分じゃ勝てねぇ、と割り切れれば諦めて、いっそ王太子夫妻のファンとなって一生ついていきますキャー! となったかもしれない。
しかしドロシーは、ミメットにとってどう頑張ってもお菓子についてきたいらないオマケでしかないのだ。いや、もしくはその逆で、オマケ目当てで買ったらついてくる大して美味しくもないお菓子の方かもしれない。
口調は令嬢らしくちゃんとしてるのだが、そんなの公爵家なら当たり前だろうとしか思えない。
あんな闇属性タイプの女が光り輝く王太子様の婚約者、というその現実がどうしても、どっうっしってっも!! ミメットには納得いかなかったのである。
あれと比べたらむしろ私の方がアレックス様の隣に立って相応しいんじゃないかしら! とまで思う始末だ。
内心では勿論アレックス様の隣に私とか烏滸がましいにも程がある、という思いもある。あるのだが、ドロシーと自分を比べたらまだ自分の方がマシじゃないか? と思ってしまうのだ。
だって私の方が絶対アレックス様を愛してる。王妃として隣に立つなら学ばないといけない事は沢山あるだろうけれど、あの人のためになるなら喜んでいくらでも勉強するわ。
正直ダンスは苦手だけど、でもあの人と踊れるなら焼けた鉄の靴であろうと踊り切ってみせる!
いっそ過激なまでのその想いがあるからこそ、余計に自分の理想から外れているドロシーの事が気に入らないのかもしれなかった。
「あー……私以外の身分が上で美人で王太子様の婚約者候補になりそうな令嬢全員突然死なないかしら……」
絶対にありえないような願望を思わず自室で呟く程度には、ミメットは色々と限界だった。実際その願いが突然叶えられたら間違いなくこの国は傾く。婚約者候補になりそうな令嬢はそれなりにいたけれど、既にそれらの大半は別の婚約者が決まっている。なのに死んだら突然男ばかりがあふれて結婚相手を探すために他国との縁談に手を伸ばしたりするのは目に見えていた。
実際言った本人も言っておいてなんだが、ま、無理よね、とすぐに自嘲した笑みをこぼしている。
とはいえ、それでもどうしても諦めきれなかった。
政略結婚でというのもダメだった。勿論国の将来のためを思えば、政略であっても仕方ないなと思ってはいる。いるのだけれど……例えばアレックスがドロシーを愛しているならまだいい。あの人が選んだ女性なら、正直気に入らないけどでもきっと、あの人だけが知っている素敵な部分があるのよねきっと、と言い聞かせる事ができた。
しかし政略。そこにアレックスの愛があるか、と問われれば到底あるとは言えなかった。
「……いっそ、ドロシーさまを追い落とすしか……」
幸いなことにミメットだけではなく、年頃の貴族たちは貴族院に通うことが義務付けられている。アレックスもドロシーも通っている。そして、ミメットも。学び舎が同じなので、会おうと思えば会える。
卒業してからはもうミメットが会おうとしたところで気軽に会えるはずがない雲の上の人たちだ。
けれど今はまだ、学舎が同じなので偶然を装って近づく事はできる。
「……やらなきゃこのまま、やって上手くいけば、アレックス様の隣に私が立つ事だってできるかもしれない……!!」
冷静に考えて無理だろう、と思われるものでも、この時点でミメットはそんな簡単な事にも気づかなかった。自分が思いついてしまったこの考えが名案だと信じて疑わず、そうしてミメットは自ら破滅への道へ突き進むことになったのだ。
ミメットがやったことは単純だ。
常に一人で行動しているわけではないが、それでもアレックスは時々一人になる事もある。貴族院の中にいる人間の身元はしっかり調べられているので下手な事などできるはずもない。だからといって気を抜く事はそうないけれど、それでも時としてアレックス一人で行動する事はたまにあった。
ミメットは常にアレックスを見つめていたので既に彼の行動を把握するために調べる、なんて事をしなくても既に彼が一人になる時間帯を把握していた。
彼が一人で学び舎のあまり人が来ない所を通っている時に、彼の耳にギリギリ届くような声で嗚咽を漏らす。明らかに泣いているというのがわかるようにではなく、どちらかといえば泣くのを我慢しているけれどそれでも堪えきれなかった……というように。
理想を体現したかのような男だ。聞こえたのであれば、一応気にして確認に来るだろう。
ミメットの予想を裏切る事なくアレックスはそちらへ足を運び、そうして目撃するのだ。
ずぶ濡れになった状態で、ボロボロの教科書を手にして泣くのを堪えているミメットを。
「……っ、一体それはどうした……!?」
困惑しつつもただ事ではないと思ったアレックスが声をかける。
かかった! とミメットは思ったし、内心でしめしめ……なんてほくそ笑んでいたが決してそれを表には出さない。
ここ数日鏡の前で特訓した泣きながらでもとても可憐に見える表情で、
「っ、王、太子様……」
とこれまたか細くありながらも可憐な声を出した。
「一体誰がそのような……」
「っ、いえ、これは何でもないのです。失礼、致します……っ!!」
明らかに誰かに害された、としか思えないミメットを純粋に心配しただろうアレックスに、しかしここでドロシーさんにいじめられてるんですぅ、などといって泣きつく事はない。
何故ならこれは自演だから。
そもそもミメットはドロシーの事をアレックスの婚約者というだけで蛇蝎のごとく嫌っているが、ドロシーはミメットの事を嫌っているわけではない。というか、恐らく存在を認識すらしていないだろう。接点がない。
無理矢理共通点を述べろというのであれば、まず人間であること。性別が女であること。同じ貴族院に通っている事。それくらいだろうか。ミメットとドロシー以外の人間も当てはまるくらいには二人の間に共通点がない。
なのでいきなり貴方の婚約者に虐められていて、なんて言っても即座に嘘がバレる。
まずは王太子に自分の存在を認識してもらうところから。
なので見られたくない場面を見られてしまった、という風に装って、ミメットはたっと駆け出したのである。
一度や二度の接触でアレックスがこちらを認識してくれるか、と言われればとても微妙であった。
けれどもミメットは根気強く、陰で虐められているけれど健気に耐えている令嬢、という風にアレックスが一人の時にだけ目撃されるように、コツコツと実績を積み重ねていった。正直もっと積み重ねるべき実績が他にあると思うのだが。
毎回教科書がボロボロだとかずぶ濡れだとかでは芸がないので、時としてちょっと怪我をしている様子を見せたり、私物が壊されたように見せたりと、手を変え品を変え何度か繰り返していくうちに、お優しい王太子様はある時立ち去ろうとするミメットを呼び止めて傷の手当てを自らなされたのである。
自作自演の女なので、放置で全然かまわないというのに。
そうしてどうしてこんなことに……という疑問に対して、ミメットは言葉を濁すように少しだけ答えた。
「色々と、あの方も大変なんですきっと。それを発散しているだけ、だと思うんです」
ぽつぽつと、自分に言い聞かせるような口調で語る。
明らかに誰かにやられているが、その相手は自分よりも身分が上。騒ぎにしたところで揉み消されて終わる。そう明確に言わずともにおわせて、アレックスの同情を引いた。
「そのような……卑劣な真似をするような者が、ここに……!?」
聞かされたアレックスとしては信じられない思いだ。何せ貴族としてマトモな教育を受けている者ばかりなのだ。少なくとも自分の周囲では。だがそれは表向きであって裏でこのような事に及ぶ者がいるのかと……そう思うと何ともやるせない気持ちになる。
ミメットの自作自演なので、そんな気持ちになる必要はこれっぽっちもないのだが。
「いえ、きっと今だけです。今だけ、そうやってストレスを発散させてるだけだと思うんです。あの方も大変な立場だろうから」
相手を庇うように言って、ミメットはかすかに微笑んだ。
この微笑みもまた数日間鏡の前で練習して自分にできる最強に可愛らしい、それでいてどこか儚げで守ってあげたくなるような笑みであった。
それを見た王太子が何を思ったかはわからない。ただ、
「何か私にできる事はないか……?」
そう問いかけてきたのである。
ここででは是非私をお傍に置いてください! と言うのは悪手だ。王太子の威光で守ってほしい、というように思われてはいけない。王太子がいる間はそれなりに安全かもしれないが、離れた途端危険になるなんてのは王太子だって考えずともわかるだろう。
そもそも自作自演である。
「では……少しばかり恐れ多いのですが、時々で良いので話し相手になってくれませんか……?」
「そんな事でよいのか?」
「はい、そんな事、とおっしゃいますが、そんなことが良いのです」
こんなだから、話し相手も今いなくて、と小さく付け加えれば、アレックスは数秒沈黙した後に、
「そうか、わかった」
と頷いた。
別に誰からも虐められてなんていないのに、ミメットはまんまと同情を買いアレックスを話し相手にする事に成功したのである。
とはいえ、だからといって私は王太子様のお友達になれたのよ、なんて言うような事はしてはいけない。どうやってそうなったのか、を問われるわけにはいかないのだから。
虐めにあっている、というミメットの状況が嘘である事がバレるまでには時間が多少かかるかもしれないが、周囲を調べられるのは困る。
だからこそ、誰も虐めをしているようには見えないが、それでも誰かが陰でそんな陰湿なことをしている、というのを調べられるような状況は避けたかった。誰も虐めていないとはいえ、ミメットの惨状をアレックスは見ている。だからこそ調べられても最初のうちは隠蔽されていると思われるかもしれないが、そんなのは時間稼ぎにもならないだろう。
誰にも見つからないように、数日に一度、ミメットはアレックスと二人きりで話をした。
正直天にも昇る気持ちだった。恋焦がれて仕方のない相手と二人きり。実質これ逢瀬ですよね!? と鼻息荒く詰め寄りたい気持ちで一杯だった。やったら幻滅されるからしないけど。
話の内容は、日常の他愛のない話だ。
ミメットは自分が虐められているという事を言わないし、虐めの内容もなるべく言わない。だが、アレックスが見てわかる程度には見た目で匂わせていた。
それは例えば誰かから突き飛ばされたのだろうな、と思えるような小さな打撲痕や、インクをかけられそうになったのだな、とわかる程度に服の裾にインクの汚れを。
しかしミメットはそれらを、これくらいの怪我なら大した事ないんですよ、と言ったり服なら洗えばいいだけですから、と笑顔で言う。ちなみにその笑顔は極力健気そうに見える感じのやつだ。決して太陽のような満面の笑みを浮かべてはならない。あくまでもちょっと寂しそうに、何かを耐えるような少しばかり芯のある強さを感じさせるような笑みであることがポイントである。
正直周囲の人に見せつけてもしかして二人は恋仲……!? と思わせたりもしたい。既成事実作ってどうにかしてアレックスの妻になりたい。いっそ愛人でもいい。だがしかしドロシーが正妻なのは許せない。
そんな逸る気持ちを抑えながら、ミメットは着実にアレックスとの距離を縮めようとしていた。
機会は思っていたよりも早く訪れた。
何度目かの二人きり。
アレックスからすれば身分の低い女など、ちょっと変わった生き物くらいに思っていたとしてもおかしくはない。けれども、その生き物が憐れで、だからこそ寄り添っていただけであったとしても。
ほんの気まぐれであったとしても。
今まで名を呼ばなかったミメットに対して、アレックスと呼ぶ事を許可する、と言った事でミメットは多分その時精神的に一度死んだ。それくらいの衝撃であったのである。
今まではずっと話の中では王太子殿下、と呼んでいたので。時々うっかり王太子様、という事もあったが、まぁ身分が何せ男爵令嬢なので多少の不作法はアレックスも身分が身分だしな、でスルーしていた部分があった。
自分と相手の身分を比べれば多少、恐れ多すぎてちょっとテンパっても仕方ないだろう、それくらいの認識である。
名前で……? と念を押すように聞けば、あぁ、とアレックスもまた鷹揚に頷いた。
「あ、アレックス様……」
「あぁ、なんだ」
「あっ、あの、呼んでいい、と言われたので呼んだだけです……っ」
「そうか」
その時ミメットは顔を赤くしていた。多分耳まで赤くなっていただろう。自覚していたからこそ、そっと両手で頬をおさえるようにして、俯く。
誰が見ても恋する乙女であった。
アレックスはそれをわかっているのかどうなのか、優し気に微笑むだけであった。
もしかしてこれ、頑張ったら本当にいけるんじゃない……!? とミメットは内心でそんな風に考えていた。演技などではなく本当に照れてしまってどうしようもないのだが、アレックスの態度からはそれを迷惑そうに思っている様子もない。
一応分を弁えつつもそれでも嬉しさを滲ませ天真爛漫な少女、という感じを演じつつ、アレックスとの他愛のない話に興じる――が、ふとアレックスの口から婚約者の名が出た瞬間、ミメットは現実を突きつけられたかのように凍り付いた。
「? ミメット……?」
「ぁ、あ、いえ、なんでもございません」
軽く頭を振って、本当に何でもないのだと告げる。
今までは話題に出てこなかったけれど、それでもドロシーは婚約者。いずれ、何かの拍子に話に出てもおかしくはないと思っていた。そして出てきた以上は、そういう反応をするつもりでいた。
その後はどこか空元気に思えるような態度でアレックスと会話し、そうして別れる。
明らかに、ドロシーとの間に何かありますよ、と言わんばかりの態度であった。
とはいえ、まだこれは一度目だ。いきなり何かがあったと決めつけてアレックスがドロシーに問いかける事はないだろう。仮にドロシーにミメット嬢について、と聞いたとしてもドロシーからすればどちら様? 状態である。
場合によってははぐらかすように思われるかもしれないが、本当に二人の間に接点などないのだから、この時点でそれ以上の何かがあるはずもない。
とはいえ、アレックスが疑いを持つには充分だろう。
本当にミメットの事など知らないドロシーが正直に答えたとしても、多少の疑いは残るかもしれない。
それに、ドロシーではなく別の何かに反応した可能性もアレックスなら考えるはずだ。
その後も何度かそれっぽい疑いを抱かせるような事をして、恐らくはそろそろアレックスの疑惑もかなり高まっていることだろう。
もう少し。もう少しで作戦は完遂できる……! ミメットの作戦は終盤へ突入していた。
アレックスをずっと見つめ続けていて、正直ドロシーの情報なんていらないけれど相手はアレックスの婚約者。嫌でも知らなくていい情報が集まってしまう。
おかげで彼女の利き腕もどっちかなんて把握している。
彼女の利き腕で正面から切り付けられたら傷口がこうで、こう……と頭の中で予習しながらも、とある日、ミメットは密かにドロシーを学舎の滅多に人が来ない場所へ呼び出していた。
ドロシーがミメットを虐めている、とアレックスは疑っているだろう。
だが実際は全てミメットの自作自演。ドロシーは完全に無実である。
なので今更ドロシーがミメットに危害を加えるような事があるはずもない。
だがしかし、ミメットはここでドロシーに傷をつけられた、という状況を作り出すつもりでいた。
勿論、虐めていないドロシーがここでミメットを攻撃する理由がない。
ミメットの中ではただ気に入らない男爵令嬢を虐めているドロシー、という状況を作るのではなく、ミメットを虐めている犯人がドロシーである、という疑いをアレックスがやんわりと抱いてしまった事を謝罪し、誤解を解くのに一緒に来てほしい、と呼びだしたつもりがあらぬ疑いをかけられたドロシーがあんたのせいで! と逆上し襲い掛かってきた、というシナリオを作っていた。
要は冤罪である。
そもそも最初から最後まで冤罪たっぷりであるが。
懸念事項はあったが、今まで観察していた結果から恐らくは大丈夫だろうと思えた。
懸念事項。それは、王族やそれに連なる貴族たちの中では時折魔法を使う事ができるものがいるという事だ。
王家の人間は皆使える。
だがそれも日常的に使うのではなく式典などちょっと使って見せる程度。昔はもっと大掛かりな魔法を使えたらしいが、今となっては奇跡を起こせるほどの魔法の使い手はいなかった。
今の貴族たちは魔法が使えるといっても、せいぜいちょっとした暗闇を照らすぼんやりとした光を出すだとか、コップ一杯分の水を出すだとかだ。
公爵家は王家に程近い。魔法が使える者がいてもおかしくはない。――が、ドロシーが何かの魔法を使えるという話は今まで聞いた事がないし見た事もない。
できたとして、ミメットが傷つけられればこれ幸いと虐めの主犯にできるだろうし、できないならできないで、ミメットの当初の計画通りにするだけだ。
ここで、ドロシーは王太子の婚約者に相応しくないという現実を突きつけなければ。
結果として新たな婚約者にミメットが収まることができればいいが、果たしてどうだろうか。
いいえ、私の計画はここまで上手くいったのだから、きっとこれからも上手くいく。やってみせるわ!!
内心でそう己を鼓舞し、ドロシーが来るのを待つ。
来ない可能性もあった。けれど、アレックス様についてのお話があります、と書いた以上はきっと来るはず。そう信じて待った結果、ドロシーは現れた。
「貴女がこの手紙を寄越したコレイル令嬢ですかぁ……?」
どこか間延びした口調で問いかける。
「はい、突然の呼び出しに応じて頂き感謝いたします」
ミメットはというとすぐに実行に移るでもなく、まずはすっと礼をしてこれからいかにも大事な話をしますといった雰囲気であった。
普段から一人でいるような令嬢だ。取り巻きだとかがついてくるとは思わなかったが、ミメットの思うとおりに一人でやってきた事に、ミメットは浮かびそうになる笑みを堪えた。
数日前の会話でこの日、アレックスがもう少ししたらこの辺りを通ることが予想されていたのでここに呼び出した。別の目撃者であっても構わなかったが、やはりアレックス本人に目撃してもらったほうが話が早い。
普段は使われていない教室。そこにドロシーが足を踏み入れ中央へやってきたあたりで。
ミメットは当初の作戦を実行した。
隠し持っていたナイフでもって、自分の腕を切る。
ドロシーの利き腕で傷つけられたならこういう風になるだろう、というのを何度も頭の中でシミュレートした。実際にナイフで切る時は、別の物を使って何度か練習したので力加減もバッチリである。
突然目の前で呼び出した令嬢が自分で自分を切りつける、という行動に及んだのを見せられたドロシーは最初何が起きたのか理解していないようだった。
その一瞬の隙をついて、ミメットは悲鳴を上げる。悲鳴と、それから相手に対してやめてください、と制止するような声。
この声が小さすぎては助けが望めない。この辺りにアレックスがいるであろうことは把握していても、正確にどのあたりにいるかはわからない。だからこそ、か細く、けれどもしっかりとした声をミメットは上げたのであった。
この日のためにコツコツとボイストレーニングをしていたのもあって、か細くありながらもしかしハッキリと、正確にこの辺りにいる者には聞こえた事だろう。
「今の声はなんだ……!? ミメット……!?」
意外と近くにいたらしいアレックスの声がする。
勝った……!!
ミメットは己の勝利を確信した。カランと音を立てて落としたナイフは、咄嗟にドロシーが落としたような状況に見えるだろう。血が流れている腕をもう片方の腕でおさえて、どうしてこんな事を……!? とでも言いたげにしてドロシーを見る。
アレックスがこちらに向かっているであろう足音が近づいてくる。
そうだ。これで勝利は目前だ。
そう、ミメットが勝利を確信しかすかに口元に笑みを浮かべそうになったその瞬間。
弧を描くような笑みを、ドロシーが浮かべた。
え……? とミメットが不審に思ったのと同時に。
カシャン、と何かが床に叩きつけられるような音。
見ればミメットの滴り落ちた血があるあたりに割れた小瓶があった。ミメットはこんな物持ち込んでいない。となれば、誰がやったのかなんて言うまでもない。
小瓶に入っていたらしき液体が床に滴り落ちたミメットの血と混ざる。それと同時に、ミメットの意識がくらりと歪んだ。
「あ、れ……?」
なんでだろう。立っていられない。
腕をちょっと切っただけなのに。
こんな、立っていられない程の怪我をしたつもりはないのに。
一体どうして……?
どうにか足に力を入れようとしても入らずに、気付いた時にはミメットは倒れていた。
「パンパカパーン、おめでとうございまーす」
空き教室に足を踏み入れたアレックスを迎えたのは、そんなのんびりした声であった。
にこやかに微笑んでパチパチと手を叩くドロシー。そしてその向かいに倒れているミメット。床に落ちている血。血の付いたナイフ。割れた小瓶。
アレックスはそれを見て全てを理解した。
「そうか……彼女もか……」
「そうね、おめでとう悪い虫五十匹目よ」
す、っとドロシーが腕を伸ばせば、小さな丸い光のようなものがドロシーの掌の上に載る。それをそっと握るようにして、ドロシーは新しい瓶を出しその中に光を詰め込んだ。瓶の中に入った光はまるで意思を持つように、やや戸惑ったように揺れているが瓶はそう大きなものではないので、動き回れるほどでもない。どうにか瓶から出ようとでもいうようにぴょんこぴょんこと跳ねてはみたものの、既にしっかりと蓋がされた瓶がそう簡単に開くはずもなく。光は小さな振動を繰り返すだけだった。
「城の使用人、教師、更にここの学生……立場が違えどやる事みぃんな大体同じってどういう事かしらね。そういう教本でもあるのかしら?」
瓶をかすかに揺らしながら言うドロシーに、アレックスは「あぁ……」と困り果てたような声を出すだけだった。
実のところ、ミメットのようにドロシーを追い落とそうと考えた者は今までにも大勢いたのだ。正確には四十九名ほど。先程のミメットで五十人目である。
大抵は何か悩みを持っているかのように振舞い、そうしてアレックスが何か悩みがあるのであれば聞こう、と手を差し伸べればそれに乗っかる。最初はいきなりドロシーに虐げられただとか荒唐無稽な事を言い出す者もいたが、それは少数だ。
そのうち危害を加えられただとか言ってドロシーが悪いのだとアレックスに訴える。訴えずともそういった状況を作り出そうとしてドロシーを巻き込もうとした者もいた。目撃者を作ればドロシーが例え何もしていなくても状況証拠がある。ドロシーを追い落とそうとするという一点において、皆やる事は一緒だった。
誤算があるとすれば、ドロシーは希代の魔女であるという部分か。
魔女、という言い方は少しばかり語弊があるが、要は先祖返りだ。
見た目にわかりやすい魔法を使えるわけではないが、それでも彼女は魔法を常に使えるだけの力があった。
そうして、自分を陥れようとした相手の魂を今まで引っこ抜いてきて、そしてそれを人形の材料にしてしまうのである。
無差別にできるわけではない。血を流している相手にドロシーの魔力を使い作った薬品を混ぜる必要がある。そうすることでその血の持ち主の魂が肉体を離れ――後は今しがたドロシーがやった通りだ。
ミメットの魂は既にミメットの身体を離れ、彼女が持つ瓶の中。
魔法が使えると言っても目に見えて派手なものはなかった。だからこそ、ミメットは、いや、今までドロシーに冤罪をかけようとしていた者たちは誰一人として気付けなかった。
アレックスに近づく不穏分子の存在を、とっくにドロシーは把握していた。
多少の違いはあれど、大まかには一緒。アレックスの周辺に守りの魔法をかけているので、一人で行動しても余程の事がない限りは安全。そして、アレックスが無防備にも一人であると思いこんだ相手が近づくのである。
アレックスから近づく事もあったけれどそこはそれ。
本当にただ救いを欲しているだけの者も中にはいた。
とはいえ、そういった本当の意味で善良であった相手など今までに精々二人くらいだ。
その二人は今城で活き活きと働いている。
だがそれ以外の者は――
「えい」
ドロシーは指を振って魔法を使う。
ミメットの身体が少しだけ動いて、落としたナイフを持つとそのまま自分の胸にナイフを深々と突き刺した。既に魂は体の中にないので、痛いだとか叫ぶ事もない。
「これでよし」
「どういうつもりだ」
「あら、だってこの方、どなたかに虐められていたのでしょう? それを苦にしてこうして自殺。ね? でも実際は誰からも虐められていない。虐められてると思いこんだ心を病んだ令嬢が、ここでその人生を終わらせた。ただそれだけの話よ」
「そういう事にするのか」
「えぇ、簡単でしょ?」
証言についてはどうでもいい。
誰も虐めていないというだろうし、最初はそれを隠蔽しようとしていると思われたとしても。
アレックスが確かに虐められているように見えていたと証言し、しかし同時にだがあれは自分でやっていたようだ、と言えばそれで終わる。
実際に自作自演だったのだから、誰からの擁護も出てこないだろう。
そもそも他の誰かにミメット自身虐められていると言ったりはしていない。彼女の友人も何も知らないのだ。
「他の誰かに言ったとしても、調べられたら自作自演がバレるものねぇ。でも、それでも誰かに言ってたら、それなりにこっちも疑われたりしたのに。ま、前にそうやって自滅した人もいるから、どっちにしても結果は変わらないのだけれど」
彼女の両親が納得するかは別であるが、納得するしかないだろう。
そうでなければ、娘は公爵家の令嬢を陥れようとした、という事実が出てくるのだから。そうなれば娘の命一つで済む話でなくなってしまう。
「ところでその……
いつまでそんな外見なんだ?」
「不満?」
「いや、そういうわけではないが。けれど、あえて見た目を悪くみられるような事をしなくても、君は充分に美しいのに……その見た目で隙を作っているのではないか、と」
「そうね。でもその方がわかりやすく引っかかってくれるんだもの。大丈夫よ、貴方が王となるその日には、きちんと元に戻すから」
「いや、そこを心配しているのではなくてだね……」
「それよりも、もう五十匹目なのよ。
貴方が王になるまでに、一体あと何匹悪い虫が寄ってくるのかしらね?」
例え何匹発生したとしても。
人形の材料が増えるだけだから、全然かまわないのよ。
そう言って笑う婚約者に。
「婚約者じゃなくて生餌みたいな扱いだな」
そう不満を漏らしながらも、二人は何食わぬ顔で教室を出たのであった。