君の全部
目次
出会い桜
雨空の下で
三度目の告白
おんなじだね
夏の終わり
黄金色に染まる
雪と共に
彼女の声
最後の願い
君の全部
あとがき
12月20日、美咲が死んだ。
街は白銀に包まれ、息も凍るような凍てつく寒さの夜だった。
知らせを聞いた僕は病院へ駆けつけることも出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
開かれた一冊の手帳。
そこには彼女のものとは思えない、か細く震えるような文字で、こう書かれていた。
『かずくんは幸せになってね、それが私の願いです』
出会い桜
四月、高校に進学した僕は真っ先に陸上部の門を叩いた。
勉強も運動も、これといって秀でているもののない僕の、唯一の取り柄が走ることだった。
入学したての頃、体育の授業でランニングをした際には
「お前カモシカみたいだな」
と先頭を走る僕に驚いたクラスメイトが言っていた。
カモシカがどんな生き物かわからなかったが、まぁ足の速い鹿なんだろうな、となんとなく思った。
偏差値は中の下といったところで、俗にいうヤンキー高校の部類だったその高校の陸上部は、そういう先輩の吹き溜まりになっていた。
ヤンキー高校と言っても、漫画やドラマに出てくる如何にもというものではなく、敢えて分類をするなら、というレベルの至って平和な学校だった。
5,000m志望だった僕は、練習もろくにせず筋トレに勤しんでいる先輩達を横目に、毎日マラソンコースを走っていた。
四月も後半に差し掛かり、春の選抜大会が近付いた頃、比較的仲の良かった三年生の土田先輩がバイクでこけて足を骨折した。
一年生である僕は出場することはないため、特段気にすることなく日々マラソンコースを走っていた。
が、大会当日、なぜか僕の着るジャージには"TSUCHIDA"と書かれていた・・・
怪我をした先輩の代わりに、本人の振りをして1,500mに出場させられる事になったのだ。
なんという悲劇だろう。
陸上部に入りたての一年生が、練習を積んできた二、三年生に紛れてまともに戦えるはずがないではないか。
「まぁ気楽にな」
そんな先生の言葉をしり目にその場をそそくさと離れ、現実逃避するかのように同級生の敏文と、陸上競技場のベンチ裏にあるテーブルや椅子がならんでいる休憩室のようなところではしゃぎ回っていた。
敏文も同じ5,000m志望で、部内では一番仲が良く、練習ではいつも僕のだいぶ後ろを息絶え絶えに走っていた。
ふざけて僕を追い掛け回す敏文が、僕に追いつけるずもなく、振り向いて彼を挑発しながらテーブルの間を駆け回っていたその時。
何かにぶつかり
「きゃっ!」
と女の子の小さな声と、ガタンと椅子が倒れる音がした。
振り向くとそこにはショートヘアーの良く似合う、小柄で透き通るような白い肌の女の子が、痛そうに肘を抑え倒れていた。
他校の選手に怪我をさせてしまったのではないか、と焦った僕が近付いたその時
「大丈夫?」
キリっとした眉毛が特徴的な、肩下くらいの髪の女の子が駆け寄ってきて、倒れている小柄な女の子に声を掛けた。
立ち上がったその子は、バツが悪そうにごめんと謝る僕の目を見上げるように真っ直ぐ見ながら
「平気ですよ」
と小顔に映えるクリクリと丸い目をニコッとさせながらペコリとお辞儀をして、二人でその場を去って行った。
彼女たちの後姿を眺めながらその場にあった椅子に腰を掛けると僕を呼ぶ声がした。
「和樹じゃね?」
正志だった。
彼は小中と同じ学校だった。
クラスこそ違ったが家の方向が同じだったこともあり、小学校の帰り道によく遊んでいた。
頭も良く、この辺では進学校の部類に入る偏差値の高い、有山高校へと進学していたのだ。
彼が着ていたジャージが、さっきの二人組と同じだったことに気が付いたが、特にそのことには触れなかった。
「正志も陸上部に入ったんだ」
「うちの高校さぁ、陸上に力入れてて練習に着いていくのがやっとだよ」
僕の隣の椅子にドカッと座り、深くため息をついた彼は気怠そうに言った。
確かに有山高校といえば陸上でも強豪校で結構有名だったし、万年予選落ちのうちは気楽だなぁと思った。
「そういえばさっき吉村と何話してたんだ?」
「吉村?」
「うちのマネージャーの吉村美咲」
あー、あの子、吉村美咲っていうんだ、とぼんやり顔を思い出していると彼は続けた。
「あいつ中学の時、1,500mで結構いいところまでいったらしいんだけど、なんでマネージャーなんだろうなぁ、もったいねぇよなぁ」
「ところでお前、吉村と知り合いだったの?」
続けざまに話す彼に、説明するのが面倒に思ったが事の顛末を伝えた。
「吉村美咲、あの子可愛かったなぁ」
「なんだお前あぁいうのがタイプなのか、なら紹介してやるから着いて来いよ」
突然正志は椅子から立ち上がり、有川高校のベンチへと向かって行った。
「おい、いきなりマジかよ」と思いながら人見知りの僕は急に緊張して黙ってしまった。
足早にベンチに向かう正志の後ろを何も言えず、着いていくことしか出来ない自分がいた。
正志の性格は思い立ったら即行動を絵に描いたような奴で、小学校の帰り道によく振り回されたことを思い出す。
うちより学校が近い彼は、家に着くなり
「ゲーセン行こうぜ」
そう一言いうと財布を取りに行き自転車に乗り、今でこそ大分伸びたが当時はまだクラスで誰よりも背の低かった僕を後ろにちょこんと乗せ、小学生にしては少し遠くのゲームセンターに向かった。
ただ彼がゲームしているところを横で見ていた。
こんなのが日常だった。
「吉村!」
正志が呼ぶと、吉村美咲とさっきの特徴的な眉毛の女の子がこちらを振り向く。
「こいつ小中一緒だった和樹、そんでこっちがマネージャーの吉村と佐伯」
そうテキパキと紹介をこなした。
「吉村さん、さっきはほんとごめんなさい」
「全然気にしなくていいよ!初めての高校生の大会ってなんだかテンション上がるよね!」
あっけらかんと答える吉村さんの隣で、キリっとした眉毛の佐伯さんが
「美咲もさっきまではしゃぎ回ってたんだよ」
そう言いながら笑っていた。
「おんなじだね!」
無邪気な笑顔で見上げるようにそう言う吉村美咲に思わずドキッとした。
「美咲でいいよ、和樹君!」
人懐っこいというかなんというか、とにかくこの瞬間から彼女に惹かれていたことは確かだった。
そこから三人で、僕の苗字はジャージに書いてある土田ではなく中田だということ、先輩の代わりに試合に出なくてはならなくなったことなど、たわいもない話をしながら、ここに来て良かったなぁと思い少し浮かれていた。
三人でというのは、正志はいつの間にかどっかに行ってしまっていたからだ。
もちろん敏文を裏の休憩室に放置して来たままだということは忘れていた。
暫くしてから二人はマネージャーの仕事に、僕は自分のベンチに戻った。
ベンチと言っても全ての参加校に割り当てられている訳ではなく、うちの高校はスタンドから離れた草が生え、勾配のある土手のようなところだった。
「お前どこに居たんだよ、今日はお前は一年じゃなくて三年として走るんだからな!しっかりストレッチしとけよ!」
土田先輩は悪びれる様子もなくそう言い残し、他の先輩達とどこかへ行った。
どうせ裏へサボりに行ったんだろう。
「まったく誰のせいだよ・・・」
ぼやきながらも出番が前半だった僕は仕方なくストレッチを始めた。
試合が始まると流石は強豪校、有山高校のベンチからの声援はもちろん、スタンドには沢山の観客が応援に来ていて一気に会場が沸いた。
説明するまでもなく、うちのベンチは静まり返っていた。
あっという間に次の種目は1,500mになり、頬を叩いて気合を入れた。
元々足が速かった僕はそれなりに自信があった。
そして何より有山高校のベンチには美咲がいて、400mのトラックを約4周、つまり美咲の前を4回走る。
かっこいい姿を見せたいという、不純な動機にかられている自分がいた。
スタートの合図が鳴り響き、皆が一斉に猛ダッシュしたのには驚いた。
5,000m志望だった僕は体力温存のため、自分のペースを守るのが普通だと思っていたからだ。
それに陸上の大会なんてこれが人生で初めてだったので1,500mの戦い方を知らなかった。
一歩出遅れはしたが、これでもかというくらい駆けて数人を一気に抜き去った。
風に乗れた気がしてとても気持ちが良かった。
しかし、それも最初の一周で、体力を使い果たしてしまった後は地獄のようだった。
何人に抜かれたのか数える余裕もなく、美咲の存在すら忘れる程だった。
カランカランと残り一周を知らせる鐘が鳴り、ラストスパートを掛けたその時、
「和樹君頑張って!」
大きな声がベンチから聞こえた。
美咲だった。
思わずベンチの方に目をやると、彼女と僕の間には桜の花びらが1枚舞っていた。
音が止み、時が止まるような錯覚に陥った。
不思議とそれまでの疲労がなかったかのように、このまま駆け抜けゴールを決めよう。
そう思ったその時
「お前周回遅れだよ!」
土手の方から先輩が叫んでいた。
ダサかった。
なんと情けない姿を晒していたんだろう、そう思いながらも息絶え絶えに、目の前を走る有山高校の選手をなんとか一人抜き、ゴールまで辿り着けた。
ふと向こうのベンチに目をやると、顧問と思わしき人に怒られながらこちらにピースサインを送る美咲がいた。
自分の順位やタイムは関係なく、ただそれだけで満足だった。
雨空の下で
それは五月に入ってからだった。
あの日、美咲に連絡先を聞かなかったことを悔やんでいた頃、偶然街で正志に会った。
「美咲は元気?」
「あぁ元気だよ、ただちょっと部活さぼりがちだけどな」
そんな正志の言葉に「あんな子でも部活さぼるんだなぁ」と思いながら美咲のLINEを教えて欲しいと伝えると、彼は笑いながら
「お前マジになっちゃったのか?」
茶化されたようで恥ずかしくなり、僕は黙ってしまった。
「もう忘れてるかもしれないし、やめた方がいいんじゃね?それに俺も連絡先とか知らないし」
「じゃあ俺のLINE教えて、良かったら連絡して欲しいって伝えてくれよ」
「OK!会ったら伝えておくよ」
食い下がる僕に正志はそう軽く返してきた。
その日から毎日、ことある毎にLINEをチェックする日々が続いた。
一週間もすると正志からLINEが来た。
「吉村、LINEどころか携帯も持ってないらしい」
「お前の番号教えてもいい?」
続けざまに来たそのメッセージに間髪入れずに僕は、「OK」と不細工な猫のスタンプを返した。
その日の夜、知らない番号から電話が来た。
美咲が自宅の電話から掛けて来たのである。
「和樹君?」
「違ったらどうする?」
少し緊張しているようにも聞こえたその声にちょっと意地悪気に答えた。
「そういうのやめてよー、間違ってたら恥ずかしいじゃん!」
「ごめんごめん俺だよ、和樹だよ」
むくれる美咲に笑って見せた。
「今どきの女子高生が携帯持ってないなんて驚きでしょ、うちの親厳しいんだよね」
少し調子を取り戻した美咲に、唐突に切り出した。
「俺と付き合って欲しい!」
その後のほんの少しの沈黙が僕にはとても長く感じられた。
やっちゃったなぁと思い、なんてフォローしようか考えていると、いつもの無邪気な声であっさりと振られた。
「だーめ!」
「えー!まさかの失恋」
恥ずかしくなった僕はふざけて返してみた。
「だって私まだ和樹君が走る姿しか見てないもん」
「走る姿がダメだった?」
「かっこよかったよ!思わず応援しちゃったもん、そのせいで先生に怒られちゃったけどね」
笑いながら質問する僕に、彼女も電話越しに笑っていた。
「じゃあ俺まだ可能性はあり?」
「うーん、どうでしょう」
重苦しい空気も漂わず、楽しく振られたのでまぁ良しとしよう!
そんな思いになれたのは、美咲の明るい性格のおかげだろう。
「じゃあ電話したり会ったりするのはあり?」
「電話はいいけど会うのはうーん、どうでしょう」
そう言って彼女はまた笑った。
「あ、あと掛けるのは私からね!」
自宅電話で親が出たら気まずいし、頑張ればそのうち会えるだろう、そう前向きに捉えた。
「じゃあ今日のところはそれで許そうじゃないか」
「なんか偉そー」
「ごめんごめん、でも電話楽しみにしてるよ」
「和樹君面白いね!」
そんなこんなで週に1~2回の僕達の電話デートが始まった。
デートと言ってもふられてるんだけどね・・・
六月になり梅雨入りをした頃、ようやく本当のデートに漕ぎつけた。
「俺がよく行く喫茶店があるんだけどそこ行ってみない?」
「どんなところ?」
「まぁ普通かな、駅近だし学校帰りでもそんな遠回りにならないから」
「うーん、どうしよっかなぁ」
「悩むくらいならトライしよう!」
「そうだね!行こう!」
そんなこんなで電話で約束を取り付けた。
デートと言っても部活終わりに喫茶店で会うだけの約束だったが、それでも僕にとっては一世一代のデートだった。
次に会えたらもう一度告白をしよう、そう決めていたからだ。
この一ヵ月、電話で二人の距離が縮まった気がして少しだけ自信が持てた。
初デートである水曜日の夕方、僕が指定した松本駅近くにある信濃館という喫茶店に向かった。
時間までそわそわと待っていられなかった僕は、放課後の練習をサボり一時間も早く店に着いてしまった。
ここは中学生の頃からよく通っていて、気立てのいいおばちゃんと、無口なおっちゃんの二人で切り盛りしており、僕達は通称、館と呼んでいた。
無口なおっちゃんは顔こそ怖そうだがある日、夜遅くまで友達とコーラを一杯ずつ頼んで二人で将来の夢を語り合っていた時、もう一杯ずつ無言で出してくれるような優しいおじさんだった。
おばちゃんはよく話を聞き可愛がってくれて、当時の僕にはとても居心地のいい店だった。
しかしそれが失敗だった。
その日の店内は空いていて、こんなところで美咲と会ったらおばちゃんに冷やかされるのが関の山である。
もちろん告白なんて出来るわけもなかった。
しかしまぁ早く着いて緊張している僕にとっては、おばちゃんとのたわいもない会話がそれをほぐしてくれたので、結果ここが正解だったんだろうとも思った。
約束の時間を10分ほど過ぎた頃、ようやく美咲が店内に顔を出した。
「ごめんね、部活が長引いちゃって」
「俺もバタバタしててさっき着いたとこだから丁度よかったよ」
ふと見ると、おばちゃんはニヤニヤしながらこっちを見ていた。
もうこの人の存在は無視しようと決めた。
部活でタイムが縮んだこと、中間テストが散々な結果だったこと、気が付けば自分のことばかり話し、あっという間に二時間が過ぎた。
「そろそろ帰らないとお母さんに怒られちゃう」
「じゃあ途中まで送るよ」
別れるのが名残惜しかった僕は、帰り道に告白のチャンスを伺うことにした。
いつの間にか振り出した雨の中、傘を差しながら女鳥羽川沿いを自転車を押しながら二人で歩いた。
辺りは雨音と、たまに通り掛かる車の音だけで静まり返っていた。
これから告白しようと緊張していた僕は、自然と無口になってしまった。
「かずくん遠くなっちゃうしこの辺でいいよ、ありがとね」
かずくん、初めてそう呼ばれて思わずドキッとした。
「なんかあっという間だったね、寂しいなぁ」
「私だって寂しいよ」
その言葉を聞いて、このタイミングしかないと思った僕は二度目の告白をした。
「そろそろ俺の彼女になってくれてもいいんじゃない?」
重苦しい空気にならないよう慎重に。
しかし彼女の言葉は、予想に反してその場の空気をより重くしていった。
「私たち、やっぱり会わない方がいいかも」
三度目の告白
あの日以来、美咲からの電話は来ていない。
あれから二週間が経とうとしていた頃、居ても立っても居られなくなった僕は、彼女の家に電話を掛けることにした。
「はい、吉村です」
電話口に出たのは母親らしき女性の声だった。
家族が出たことで緊張し、少しどもりながら尋ねた。
「や、夜分遅くにすみません、中田ですけど美咲さんいらっしゃいますか」
「美咲、今いないのよ」
母親らしきその声は一瞬の間を置き、そう答えた。
とっくに部活も終わっているはずなのに帰り遅いなぁ、などと考えながら伝言を残さずに電話を切った。
ついこの前まで、あれだけ楽しく電話をしていた彼女が急に遠く感じ寂しくなった。
そしてあと一週間だけ待ってみよう、そう心に決めたがそれも虚しく、その後も電話が鳴ることはなかった。
ただ時だけが過ぎ、雨でじめついた空気の中、僕の心はまるでその湿気に溺れているようだった。
こんなに美咲のことが好きなんだと、心底実感したのもこの時だったのかも知れない。
想いが募り積もった頃、ある決心をした。
それは美咲に会うために校門で待ち伏せをすることだった。
翌日、朝練の時間に間に合うように6時半に家を出て有山高校に向かった。
他校の制服に警戒されないように物陰に隠れながら美咲の登校を待っていた。
しかし、8時半を回り校門が閉まっても彼女は現れなかった。
見逃したのかな?
そんなことを考えながらとぼとぼと自分の通う学校へ向かった。
もちろん遅刻だが、そんなことを気にする余裕もないくらい美咲のことで頭がいっぱいだった。
翌朝も同じ時間に家を出て有山高校に向かったが空振りだった。
そしてそれが日課になった。
これではまるでストーカーである。
しかし彼女は相変わらず登校している気配はなかった。
それは通い始めて一週間を過ぎた頃だった。
珍しく晴れたある朝、登校時間ギリギリになって彼女が現れた。
空は広く青く快晴だった。
彼女は少しやつれたように見え、小柄な体はより小さく見えた。
声を掛けようと近付く僕に気が付き、目が合った瞬間、ハッとした表情を一瞬見せたが、何事もなかったかのようにそそくさと校門を通り抜けて行った。
僕はただそれを眺めていることしか出来なかった。
帰り道、何故無視されたのか考えたがどうも煮え切らない。
振った相手だからと言って無視することはないじゃないか。
そう考えるとなんだか腹が立ってきて、その日はそのまま学校をサボった。
そして明日もう一度会いに行こう、今度はちゃんと声を掛けようと決意を固めた。
その夜はなかなか寝付けなかったせいか、翌朝目が覚めると時計の針は7時を指していた
慌てて準備をしながらふと見ると、昨日と同じような青空が窓の外いっぱいに広がっていた。
そのまま急いで自転車を漕ぎ有山高校に着くと、ばったりと美咲に会った。
急だったため「よっ」とだけ声を掛けた。
「久しぶりだね」
ほんのり笑顔を見せた彼女は
「急がなくちゃ」
そう言い残して足早に校舎へと去って行った。
一瞬の出来事だったが声を聞けただけで少し安心した。
近くの公園のベンチに腰を下ろし、どうしたものかと考えたが答えが見つからず、ただ時間だけが過ぎていった。
そこからは遠目にグラウンドが見え、その先には有山高校の校舎があった。
このままじゃダメなのはわかっていた。
そして意を決した僕は暴挙に出たのだ。
公園から有山高校まで走り、校門を乗り越えそのままグラウンドまで駆け抜けた。
美咲がどこの教室にいるかなんてわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
「吉村美咲さん!俺と付き合ってください!」
とにかく大声で叫んだ。
グラウンドから聞こえる叫び声に、何事かと思った生徒達がいくつもの教室の窓を開けた。
僕はその中から必死に彼女を探した。
二階の端の方の窓から他の生徒とともに顔を覗かせるショートヘアーの女の子。
その目の前まで駆けて行きもう一度言った。
「美咲、俺と付き合って欲しい」
彼女は大粒の涙を流しながら両手を頭の上に上げて丸を描いた。
その日の天気予報が梅雨の終わりを告げた。
おんなじだね
また電話デートが始まった。
掛けてくるのは相変わらず向こうからで、電話代を気にしながらも僕はひたすら浮かれていた。
彼女は陸上部のマネージャーを辞めていた。
暫く体調を崩していて学校を休んでいたことで、これ以上迷惑を掛けたくなかったからという理由だった。
僕の待ち伏せ大作戦で彼女になかなか会えなかったのもそのせいだった。
「もう大丈夫なの?」
「うん!ただ風邪を拗らせたようなものだから」
まぁそういうものなんだろう、と何となく納得した。
「俺も部活やめようかな」
「だーめ!かずくんの走る姿見るの好きなんだから!」
「でもそれだとなかなか会えないじゃん」
「それはそうだけど・・・」
特に部活が好きだったわけでもなかった僕は、休部届を出して暫く様子を見ることにした。
学校帰りに会うには部活が終わるまで彼女を待たせてしまうからだ。
帰り道にちょっと遠回りをして彼女と一緒に歩くのが日課になった。
たまに館に行ったりカラオケに行ったりしていたら、あっという間に夏休みが近付いて来た。
夏休みの計画は館で立てた。
「どこか行こうよ!」
そう彼女に言い掛けると
「中田君よかったじゃない」
ニコニコしながらおばちゃんがコーラを二つ運んできた。
館のおばちゃんは僕達二人のことを誰よりも祝福してくれていた。
と言うより特に理由はなかったが、彼女のことを周りに言っていなかったから、僕の周りで知っているのはこのおばちゃんくらいだった。
「なに?夏休みに二人でお出掛け?」
「小遣い少ないしそんな遠出は出来ないけどね」
そう僕が返した矢先
「私行ってみたいとこあるの!」
唐突に美咲が切り出した。
それは東京の方にある大きなテーマパークだった。
話を聞くと、彼女は一度も行ったことがなかったという。
そういう僕も、小さい頃に一度だけ家族旅行で行っただけだった。
そんなこんなで一泊二日の東京旅行が決まった。
当然ながらお小遣いが足りるわけもなく、家に帰って早速母親に泣きついた。
「一生のお願い!」この言葉をこれまで何度使ったことか。
子供だけの旅行に反対もされたが、この"一生のお願い"の連呼に母親は
「あちらの親御さんにもちゃんと許可取りなさいよ」
そう呆れたように許してくれた。
兎にも角にもお年玉の残りと、母親から前借したお小遣いをかき集め、なんとか資金調達をした。
しかしもう一つ問題があった。
旅行の計画を立てるのが初めてだった僕達は、テーマパーク近くのホテルはとっくに満室になっている事を知らなかったのだ。
ちょっと離れたホテルも目ぼしい所はなかなか空室が見つからなかったし、開いていても予想より高かった。
仕方なく最寄り駅から離れた場所を探すことにした。
電車で20分くらいの所にある、安いホテルに電話を掛けると運よくツインルームが一つだけ開いていたのでそこを予約した。
予定よりも出費を抑えられたのは良かったが、初めて二人だけでの遠出に不安を感じながらも、お泊りデートに気持ちが高ぶっていた。
当日朝7時に松本駅に集合し特急あずさに乗り込み東京へと向かう。
朝食を取っていなかった僕達は早速、車内販売で黄金シシャモめしというお弁当を買った。
初めての彼女との旅行での朝食ということもあり、これ以上にないくらい美味しく感じた。
彼女はひたすらはしゃいでいた。
途中で見えた富士山も、運よく窓際だったこともあり、美咲と富士山をスマホのカメラに収めた。
思えば彼女の写真を撮ったのはこれが初めてだった。
「着いたら何に乗りたい?」
「ジェットコースターに乗りたい!」
「ごめん、俺高い所はちょっと・・・」
「えー、かずくん高所恐怖症?」
「うん、なかなか重度の」
「意外!真顔で乗ってそうなのに」
「そんなやついるのかよ!」
どんなアトラクションがあるのかよく分かっていなかった僕達はそう言って二人で大笑いした。
ホテル最寄り駅までの道のりは遠かったがあっという間だった。
美咲との楽しい時間がそう感じさせてくれた。
ホテルに着く頃には午前10時を回っていた。
荷物を預け、すぐさまテーマパーク最寄り駅に向かった。
とにかく電車が混んでいたが、園内に入るとそれと比べ物にならないくらいの人の多さに驚いた。
東京は毎日がお祭りのようだとはよく言ったものだ。
アトラクションに乗ろうにも、どこも長蛇の列で長いところは二時間以上待たなければならなかった。
「これじゃあ全然乗れないね」
「いいの!初めてがかずくんと来れただけで満足だもん!」
そう言って彼女は無邪気な笑顔を見せた。
僕はこの笑顔が大好きだった。
「あれに乗りたい!」美咲が指差したその先にはクマのキャラクターで人気のアトラクションがあった。
僕達は120分待ちと書かれたその列に並ぶことにした。
列を進むと、ほんのりと甘い蜂蜜の香りと、絵本の世界に紛れ込んだような感覚に二人で大はしゃぎした。
二人でいたら120分なんてあっという間だった。
ぴょんぴょん駆け回るキャラクター達に二人揃って虜になった僕達は、結局二回乗ったあと園内を散策し、最後のパレードを見てその日は終わった。
入り口付近には沢山のショップがあり、買い物客でごった返している中をかき分けながら進んだ。
はぐれないようにと伸ばしてきた美咲の手を取り、いろんなグッズやお菓子を見て回った。
学校の帰り道、いつも自転車を押しながら歩いていた僕達は、手を繋ぐのはこれが初めてだった。
少し緊張した僕は、それを誤魔化す様にキャラクターの耳の付いたカチューシャを着けはしゃいで見せた。
「かずくんあれ見て!」
さっきのクマのキャラクターのぬいぐるみを見つけた彼女は、僕の手を引き駆け寄った。
そして一番大きなぬいぐるみを手に取り、丸く大きな目をキラキラさせて「可愛い!」と抱きしめて見せた。
「買ってあげるよ」
そう言って値段見て固まった。
ぬいぐるみってこんな高いんだ・・・
「無理しなくていいの!」
そう言われちょっと情けなくなった。
「節約、節約!」
そう言って彼女はまた無邪気に笑って見せた。
結局クマのキャラクターのクッキーだけ買って他のショップを回ることにしたが、人混みの中逸れてしまった。
ちょっと手を離した隙に、小さな彼女の体はあっという間に人の波に押し流され、見えなくなってしまったのだ。
しかし焦ることはなかった。
そういう時の為に、待ち合わせ場所を入り口付近にある丸い大きな花壇と決めていたからだ。
僕はさっきのお店に戻り、中くらいのぬいぐるみを買って待ち合わせ場所に向かった。
彼女はぽつんと立って不安そうに周りをキョロキョロしていた。
それを見つけた僕は、すぐさま駆け寄り袋からぬいぐるみを出して手渡すと、大きな瞳をクリクリさせて驚いていた。
「宝物にするね!」
ぬいぐるみをギュッと抱きしめた彼女は、両腕にすっぽり収まったそれに顔を押し当てながら少し肩を震わせていた。
「もー!感激して泣きそうになっちゃったよ」
そう言って彼女は僕の手を握ってブンブンと振り回した。
そんなに喜んでくれるならいつか一番大きいのをプレゼントしてあげよう、そう思った。
お昼ご飯を食べていなかった僕達は、ホテルに戻る前にコンビニで食料やお菓子を買い込んだ。
予約していたツインルームに入り、ご飯を食べながらいろんな話をした。
初めて美咲と出会ったときにドキッとさせられたこと、連絡先を聞かなかったことを後悔したこと、初めての電話で緊張したこと。
付き合ってから今まで照れくさくて言えなかった事だった。
その度に彼女は「おんなじだね!」と屈託のない笑顔を見せた。
「おんなじって?」
「私も出会った日、ほんとはかずくんともっと仲良くなりたいって思ってたもん」
「もしかして俺達って最初から両想いだったの?」
「そうみたいだね」
照れるように俯きながら彼女は答えた。
「俺ってさぁ、昔からあがり症でダメなんだよね」
「学校まで突撃しといてよく言うよ」
「子供の頃はほんと酷かったんだよ!」
小さな頃から内気だった僕は会話が得意ではなく、すぐに緊張してしまう内向的な子供だった。
授業中、指名され黒板に答えを書きに行くだけで足が震えた。
そんなところも彼女は似ていたようで、繰り返すように「おんなじだね!」と言った。
美咲は共通点を見つけるのが好きなようだ。
思い返せば初めて会った時も"おんなじだね"と言っていた。
早起きだったため、お互い疲れてはいたが、寝るのがもったいないと言う彼女と、別々のベッドに寝転びながらも会話に付き合うことにした。
最初にも述べたように、僕は走ることしか取り柄がなかった。
頑張って走ると先生に褒められ、同級生にも一目置かれた。
そんなこんなで走るのが好きになっていた。
それにあの風に乗った感覚が好きだった。
彼女も同じことを言っていた。
僕は内心「美咲は勉強も出来るじゃん」と思ったが「おんなじだね」という彼女にそのことは口に出さなかった。
唯一走ることに反対していたのは母親だった。
小さい頃、川崎病を患っていた僕の症状は結構重かったらしく、物心がついた時には病院通いだった。
その後も小学生の頃は毎月心電図を取り、ちょっとでも不整脈が出たら即検査入院を繰り返していた。
所謂、病弱だったのだ。
「そんなとこまで似なくていいのに」
彼女は薄暗い部屋で表情に影を落としたように見えた。
「寂しいからこっちで一緒に寝よ」
そう言う彼女に、緊張しながらもベッドへ潜り込んだ。
「なんか緊張するね」
「でもこの方が落ち着く、それにかずくんの手、好きだよ」
その日は手を繋ぎながら狭いベッドで二人、眠りについた。
翌日、早く目が覚めた僕達は都内観光をすることにした。
テキパキと準備を整えチェックアウトをし、渋谷に向かった。
僕は小学校の修学旅行で一度来たことがあるが、彼女は初めてだと言っていた。
コインロッカーに荷物を預けようと思っていたが、どこもいっぱいで結局持ち歩くことにした。
お互い荷物が少なかったため、ぬいぐるみと彼女の荷物を僕のバッグに詰めようとしたが、ぬいぐるみだけは手放さなかった。
彼女はそれを抱えながら人混みの中を楽しそうに回った。
僕はキョロキョロとしながら人の多さに眩暈がした。
タピオカ屋さんを見つけた彼女は、嬉しそうに駆け寄りタピオカミルクティーを買った。
それを飲み干した後、軽くショッピングをし、パンケーキを食べたいと言う彼女とスマホで店を探した。
その中からブログで紹介されていたカフェを選んだ。
美咲の好きなクマのキャラクターの絵柄がプレートに描かれた、ワッフルの写真があったのが決め手だった。
お昼時で不安ではあったが電話を掛けることにした。
「一時間後でしたらお席をご用意できます」
感じの良い店員さんがそう言ってくれたので、ゆっくり散歩をしながら向かった。
お店に着くと窓際の席に案内された。
メニューには可愛い料理の写真が並んでいて彼女は興奮していた。
バジルが好きだった僕はイタリアンラーメンを、彼女は天使のオムライスのコースを頼んだ。
もちろんクマのワッフルも注文した。
ワッフルのプレートには好きなメッセージも入れてもらえるらしい。
料理を待つ間、星のマークがついたガラス窓を背景に二人で写真を撮った。
画面に写る仏頂面の僕の隣の彼女は、相変わらず満面の笑みを浮かべていた。
料理が運ばれてくると、金色の天使の羽が生えた真っ白いオムライスが到着し、大はしゃぎする彼女に写真をせがまれ繰り返しスマホで撮影した。
そっちも食べてみたいと、せがむ彼女にラーメンを一口食べさせるとすぐさま苦い顔をした。
どうやらバジルはお気に召さなかったらしい。
一人前でお腹いっぱいの僕をよそ目に、オムライスと小さなデザート、それにクマのワッフルをペロッと平らげた。
こんな細い体のどこに入ってるんだろう。
プレートにはチョコペンで"かずくんとみさの東京デート"と美咲が考えたメッセージが書かれていた。
帰りが遅くなってしまうため新宿に移動し、特急のチケットを購入した後、その辺を少し散策してから帰路に就いた。
電車の中で彼女は、僕のスマホで一生懸命パズルゲームをしていた。
適応力が高い彼女はその小さな手ですぐさま高得点をだした。
悔しかった僕は同じステージを繰り返し、10回を過ぎた頃やっと同じ得点を出したが、超えることは出来なかった。
疲れたのか、いつの間にかぐったりとシートにもたれ掛かる彼女は
「おんなじだね」
そう小さな声で呟いた。
夏の終わり
夏休みも終わりに差し掛かった頃、僕らはいつも通り館でコーラを飲んでいた。
「かずくんは部活に戻らないの?」
「うーん、どうしようね」
部活のことなどすっかり忘れていた僕は曖昧な返答をした。
「部活出てたら放課後一緒に帰れなくなるよ?」
「毎日会えなくてもいいから、かずくんには走っていて欲しいな」
その言葉に悩んだが、とりあえず休みが終わったら朝練と、彼女と会う予定のない日は放課後も出ることにした。
緩いうちの部活は、そんなこともまかり通ってしまうのだ。
「もうすぐ夏休みも終わりだね」
「その前にどこか行く?」
ストローで氷をかき回していた彼女はこちらを見て瞳を輝かせた。
松本の夏休みは短く、八月中には二学期が始まる。
「映画館とかは?」
「かずくんとならどこでもいいよん」
「じゃあ映画館もあるしショッピングモールに行こう」
松本駅近くにあるそこへは、まだ二人では行ったことがなかった。
東京に行ったばかりの残り少ないお小遣いでは、あまり出来ることはなさそうだなと思いつつ、早速予定を立てた。
夏休み最終日の日曜日だった。
「流石に日曜日は混んでるなぁ」
「逸れないように手離さないでね」
「美咲は小さいから目を離したらすぐに見えなくなっちゃうからね」
僕を見上げる彼女は相変わらず眩しいくらい笑顔だった。
適当にランチを取り、色んなお店を回った後、話題のホラー映画を見た。
大して面白くはなかったが、怖かったのか繋いだままの美咲の手は汗ばんでおり少し熱を感じた。
人混みに疲れたのか、ふら付く彼女の手を取りショッピングモールを出ると、外は相変わらず蒸し暑く、近くにある"あがたの森公園"で休むことにした。
木陰はひんやりと気持ちのいい風が吹いていた。
「大丈夫?疲れちゃった?」
「へーきだよ、それより明日から部活復帰だね。意気込みをどうぞ!」
彼女は無邪気な顔で覗き込むようにして聞いてきた。
「正直真夏のマラソンコース嫌だなぁ、冷房の効いたコースを走りたいよ」
そう笑いながら「美咲の走る姿も見てみたいな」ふとそんな事を言ってみた。
「私はもう無理だよ、ブランクもあるしね」
彼女は寂しそうに呟いた。
「中学の頃は早かったんでしょ?今からでも遅くないよ」
本当は走りたいのかな、そう思った僕は聞いてみた。
「二年生の頃はね・・・でももう無理なの!」
ちょっと強めの口調の彼女に驚いた。
「まだまだ夏は終わりそうもないなぁ」
話を逸らすように座っていたベンチを離れた僕は、照らしつける太陽を見上げた。
「でもまだ終わって欲しくないなぁ、カキ氷も食べてないしね」
振り向くと彼女は無邪気な笑顔を浮かべていた。
「そうだ!次の木曜日は部活休むからカキ氷を食べに行こう!」
スマホを取り出し天気予報を確認した僕は、来週一番気温の高い日を指定した。
「お前昨日、女とデートしてたんだって?」翌日の朝練でニヤニヤとした表情の敏文が近付いてきた。
「まぁな」
「くっそー、抜け駆けしやがって!」
「もしかして百瀬さんか?」
「ちげーよ」
「じゃあ誰だよ」
「内緒だよ」
「誰だよ教えてくれよ」
そういう敏文の相手をするのが面倒になったので「ほら行くぞ」と適当にあしらい、いつものマラソンコースに向かった。
別に隠していた訳ではなかったが、敢えて彼女の存在は学校では言わないようにしていた。
彼女と会うため、そんな理由で休部していたなんて、とても言えなかったからだ。
しかしデート中、何度か同じ学校の生徒に遭遇していたので、同級生にはとっくに噂が広まっていた。
「あの子と付き合ってるの?」
ある日、四組の百瀬さんにそう問い詰められた事があった。
彼女とは選択授業が一緒だった。
教室の席に座る彼女は、凛としていて目立つ存在だった。
僕は特段モテるタイプではなかったが、学校をサボりがちだった彼女はクラスに友達がいないのか、事ある毎に僕のいる三組に会いに来ていた。
そんな彼女が自分に気がある事に薄々気が付いてはいたが、その強気でグイグイ来る感じが人見知りの僕にはちょっと苦手だった。
百瀬さんの事が気になっていた敏文はそんな僕に嫉妬をしていた。
「お前ばかりずるいんだよー!」
相変わらず遥か後ろを走る敏文は、息絶え絶えに叫んでいた。
僕はちょっと優越感に浸りながらも聞こえないふりをし、木曜日を楽しみにした。
その日の夜、美咲からの電話はなかった。
思えば最近電話の頻度が減っていたが、夏休み中頻繁に会っていたため、あまり気にしていなかった。
水曜日になり電話が鳴った。
公衆電話からだった。
「ちょっと体調が良くなくて、電話出来なくてごめんね」
「そう言えばこの前もあまり体調良くなさそうだったもんね。夏風邪?」
「そんな感じかなぁ」
「じゃあ明日はしっかり休んでカキ氷は次回にしよう」
「それは嫌、明日は絶対に行く」
彼女は少し元気なさげな声でそう言った。
「ほんとに大丈夫なの?」
「うん、毎日楽しみにしてたんだもん」
そういう彼女に「おんなじだね」と返すと少し笑った。
待ちに待った木曜日の放課後、僕は足早に待ち合わせ場所であるPARCO前に向かった。
近くに自転車を止めてキョロキョロしていると、後ろから「よっ!」と脅かすように肩をポン叩く彼女がいた。
「びっくりしたなぁ、てか元気そうだね」
「うん!この通り元気だよ!」
「そかそか、安心したよ」
そういう僕を見上げながら彼女は自分の右手を差し出した。
「だから大丈夫って言ったでしょ!」
なんだか浮かれているように見える彼女の手を取り二人のんびり歩いた。
縄手通りを進み、途中にある四柱神社に立ち寄りお参りをした。
美咲とこの先ずっと一緒にいれますようにと。
「かずくんは何をお願いごとしたの?」
「まぁあれだ、部活のことだよ」
「えー、顔に嘘って書いてあるよ!」
「そういう美咲は?」
「ひみつー」
そう言って彼女は笑顔でくるくると回って見せた。
「そういえばここって何の神様だっけ」
「なんだろ、私もよくわかんないや」
そんな会話をしながら目当てのカキ氷屋さんに着くと二人分注文し、近くにある藤ノ木の下のベンチに座った。
「やっぱ夏はカキ氷が一番ですなぁ」
そういうと彼女はあっという間に平らげてしまった。
僕も負けじと追いかけたが、こめかみがキーンとした。
「ここはのどかでいいね」
女鳥羽川を見渡しながら僕は言った。
川沿いを吹く風は夕方だったこともあり、夏を忘れさせるようなひんやりと気持ちの良いものだった。
「実はお母さんに怒られちゃったの」
唐突に切り出す彼女の話を聞くと、東京旅行のことだった。
彼女は、学校で一番仲が良かった佐伯さんの家に泊まると母親に嘘をついていた。
しかし、ぬいぐるみを抱き抱えて帰ってきた娘を見た母親は、不振に思い佐伯さんの自宅に連絡をしたのだ。
マネージャーを辞めているにも拘わらず帰りが遅いことが多かったり、夜な夜な部屋でこそこそと電話をしている美咲に、彼氏が出来たんじゃないかと以前から疑っていたらしい。
「お母さん反対してるんだ、かずくんとのこと・・・ていうか彼氏の存在にだけどね」
だから昨日は公衆電話だったのかと妙に納得した。
「私、体弱いから余計に心配なんだと思う」
「でも風邪は良くなったんでしょ?これからは早めに帰るようにしないとね」
彼女はうなずく様子もなく黙っていた。
「まぁ俺は美咲とこの先ずっと一緒にいられたらそれで十分だけどね」
そう言って、俯く彼女の顔を覗き込んだ。
「そうなるといいね」
彼女は寂し気にぽつりと答えた。
夕日に照らされる彼女の顔は、また少しやつれたように思えた。
黄金色に染まる
あの日を境に、美咲からの連絡はピタッと止まった。
最初のうちは母親の禁止令が発動したのか?と呑気に構えていたが一向に掛かってくる様子もなく、じりじりと時が経っていった。
ただただ彼女への思いが募り一ヵ月が過ぎた。
何度かこちらから掛けたが、その度に母親らしき女性の声で「今いません」と素っ気なく切られるばかりだった。
ある日「また校門で待ち伏せ作戦かなぁ」そんなことを考えながら部活帰りに自転車を漕いでいると、ばったり正志に出くわした。
美咲と付き合っているどころか、連絡先を聞いて以降一度も連絡を取っていなかった僕は、薄情な奴だなぁとそんな自分が恥ずかしくなったが、久しぶりということもあり自転車を押しながら世間話をして帰ることにした。
彼女のこと聞きたいけどなんて切り出そう、そう思いながら二人のんびりと歩いた。
「部活の方はどうだ?」
美咲とのことを何も聞いてこない彼に、僕と彼女の関係を何も知らないのではないかと感じた。
「弱小のうちの部活なんて大したことないよ」
「それより美咲、マネージャーやめたんだって?」
試すかのように続けざまに聞くと、彼は驚いたかのように
「お前聞いてないのか?あいつ入院中らしいぞ。お前たち付き合ってるんだろ?吉村のことはお前が一番よく知っているのかと思ってたよ」
彼は僕らの関係を知っていた。
寝耳に水だった。入院ってどういうことなんだ。
もしかしたらあの日、僕が連れ出したのが原因なのか、いろんなことが頭の中をぐるぐると巡った。
正志も詳しいことはわからず、噂話程度の情報しかないらしい。
「佐伯ならクラス一緒だし、知ってるかも知れないから聞いておくよ」
そう言って僕らは別れた。
数日後、正志からグループチャットの招待が届いた。
それは佐伯さんとの三人のものだった。
佐伯さんが言うには夏休み以降、美咲は一度も登校していないとのことだった。
中学が違うため、その頃はどうだったかはわからないが、高校に入学してからの彼女は休みがちで徐々に登校日が減っていたらしい。
夏休みが明け、暫くしても学校に来ないことを心配した佐伯さんは、彼女の家に電話をしたところ体調を崩して入院していることを知ったのだ。
病院の場所は、本人の希望により教えてもらえなかったという。
「入院先、頑張って聞き出せよ」
そんな正志の言葉に後押しされた僕はその日の夜、意を決して彼女の家に電話をした。
「はい、吉村です」いつものように電話口に出たのは母親だった。
「中田ですけど」そう言い掛けると「美咲はいないわよ」と間髪入れずに返された。
「美咲さんの入院先教えてください!」
なんて切り出そうか迷ったが、考えても仕方がなかった。
少し間を置いてた母親は
「本人が誰にも教えて欲しくないって言ってるのよ」
そう言って深くため息をついた。
「いつ退院しますか?」
「それは誰にもわからないわよ」
強めに言い放たれたその言葉に返す言葉が見つからず、その日は電話を切った。
"それは誰にもわからないわよ"その言葉が妙に引っ掛かっていた僕は、グループチャットで二人に報告した。
何の病気かもわからなかった僕達は、当たりをつけて病院に突撃することにした。
一ヶ所だけ心当たりがあった。
というよりもそこしか思いつかなかった。
僕には五つ下に絵里という妹がいた。
過去形なのは、僕が小3の時に亡くなっていたからだった。
4歳だった。
と言っても、喋ることも歩くことも出来ない大きな赤ちゃんのようだった。
生まれてからの妹は、その生涯のほとんどを母親と一緒に病院の個室で過ごした。
妹が生まれてからというもの、うちに母親がいる日が少なく、甘えん坊だった僕はとても寂しかった。
あの日のことは今でもよく覚えている。
ある土曜日の夜、一時退院していた妹は赤ちゃんのようにずっと泣いていた。
何をしても泣き止まない妹を見かねたお祖母ちゃんが母に「病院に連れて行った方がいいんじゃない?」と言うと「月曜日に連れて行くからいいの!」と大きく声を荒げた。
母はノイローゼになっていたのかも知れない。
月曜日になり、妹は緊急入院となった。
その週の木曜日、会社勤めだった父は夜遅くなっても帰って来なかった。
一つ上の姉と、お祖母ちゃんと三人でリビングにいると22時過ぎに電話が鳴った。
相手が誰かは分からなかったが、すぐに電話を切ったお祖母ちゃんは、その場にあった分厚い電話帳をバンバンと叩きながら「困る困る」と連呼して泣いていた。
「絵里ちゃんが死んじゃった」
暫くして落ち着いたのか、それだけ言い残して自身の部屋へ行ってしまった。
「なんかやだね」
静まり返っていたリビングで言葉が出てこなかった僕はそれだけ言って姉を残し、二階にある自分の部屋に戻った。
ベッドの中でもやもやしながらも、まだ実感が湧かなかった。
僕がその時思ったことは「これでお母さんが帰ってくる」ただそれだけだった。
翌朝、下の階が騒がしく目が覚めた。
一階に降りると、冷たくなった妹は布団に寝かされていた。
父親は大きな声で朝の歌を歌いながら「そろそろ起きなさい」と何度も語り掛けた。
そして目覚めない妹に「もう勝手にしろ」と吐き捨てるように部屋から出て行ってしまった。
通夜では親戚中が集まり、沢山の料理が並んでいた。
僕は絵里ちゃんが好きだった苺を始め、色んな料理を山のように盛り付け、遺影の前に置いた。
大切にしていたおもちゃやシールなんかも箱に入れてその前に並べた。
それらは元々、妹が元気になったらあげようと思っていた物だった。
「かずちゃんは優しい子だね」
親戚のおばちゃん達は口々に言っていたが全然優しくなんてなかった。
だって涙一つ流してなかったのだから。
その後両親から、集まってくれた親戚一同への挨拶が行われた。
そこで初めて知った。
絵里ちゃんは産まれた時から死ぬことが決まっていたということを。
そして予定よりもかなり早く亡くなったことを。
それを知った僕はその時初めて泣いた。
その場に居た参列者のすすり泣く声は、僕の泣きわめく声でかき消されていた。
結局、病名は僕にはわからず、その後も両親に聞くことはなかった。
美咲が入院している病院、年齢は違えど子供が入院するとしたらそこしか思いつかなかった僕は、妹が入院していた病院に行こうと二人に伝えた。
翌日の放課後、部活を休んだ僕達は松本駅に集合し、電車で数駅のその病院に向かった。
病院を目の前にした時、胸が苦しくなった。
美咲と妹の死を重ねて考えてしまったからだ。
彼女が死ぬわけない、何度も自分にそう言い聞かせた。
早速、院内に入り受付で尋ねたが考えが甘かった。
親族でもない僕達にはそんな簡単に個人情報を教えてくれる筈がないのだ。
それでも必死に粘った僕らを見かねた受付のお姉さんが、ここには入院している記録がないことを教えてくれた。
また振り出しに戻ってしまった。
そもそもここは小児科病院だし可能性が低かったが、まだ高校生の僕らにはそんなことはわからなかった。
しかし、病院さえわかれば、粘れば教えてもらえるんじゃないかと少し希望が見えた。
行く当てを見失った僕らは市内の病院を総当たりすることにした。
そこで先ずは松本駅に戻り、市内で一番大きな大学病院に行くことにした。
着いた頃にはもう夜で、面会時間終了まであと一時間になろうとしていた。
受付でそうとう粘ったが教えてもらえることはなく、落胆した僕らは成す術もなく椅子に腰かけて次の策を練った。
「入院していないって言わないって事はまだ可能性があるんじゃないか?」
「確かにここにいる可能性あるよね!」
二人の言葉に確かにと納得した。
「明日からは他の病院も回りながらここにも来よう!」
決意表明をするかのように僕は意思を固めた。
「流石に毎日は部活休めないなぁ」
「私も連日は厳しいかな」
「じゃあ明日からは俺一人で回るからLINEで報告するよ」
「お前ひとりで大丈夫か?」
そう正志が言い掛けたその時
「おばさん!」
突然立ち上がった佐伯さんが一人の女性に駆け寄って行った。
二人の会話を聞いているとどうやら美咲の母親のようだった。
「ごめんね、本人が無理だっていうのよ」
そういう母親に駆け寄った僕は懇願した。
「どうしても会いたいんです!会わなきゃいけないんです!」
何度もしつこく頭を下げた。
気が付いたら涙が溢れそうになっていた。
「君が中田君ね」
困ったような顔をした母親は少し考え込んでいる様子だった。
「ちょっと待っててもらってもいい?」
そう言うと足早に病院の奥に行ってしまった。
15分くらいだろうか。
ここに美咲が居ると知っていながら、ただ待つしかない自分に苛立ちを感じた。
ようやく戻って来た母親は「静かにね」とだけ言って僕らを案内してくれた。
そこは個室だった。
入り口の札を見ると"吉村美咲"と書かれていた。
急に入るのが怖くなった僕は、二人の後ろに隠れるように後を着いて歩いた。
「大丈夫?」
ベッドから起き上がろうとする美咲に佐伯さんが駆け寄った。
「ごめんね、来てくれてありがとう」
そう彼女は穏やかな笑顔を見せた。
「正志君もありがとう」
そう言い掛けてこちらを見た美咲が僕と目が合った瞬間、笑顔が消え泣き崩れた。
「電話できなくてごめんね」
「病人がそんなこと気にするなよ」
そういう僕にその後も、ごめんねばかり繰り返しながら泣き止むことはなかった。
そんな彼女に何て声を掛けていいか分からなかった。
目の前の彼女の姿が見る影もないほど痩せ細っていたからだ。
たった二ヵ月で足らずでこんなに人は変わってしまうのかと怖くなった。
入り口で母親と話していた正志は、僕の背中をポンと押すように叩いて佐伯さんを連れて病室から出て行った。
泣き止んだ美咲は少し落ち着いたように「やっと会えたよ」そう言ってまた少し涙を零した。
「実はね、ショッピングモールに行った日の夜に体調崩しちゃって、それからずっと入院してるの」
あのカキ氷屋さんに行った日、彼女は病院を抜け出して会いに来ていたのだ。
「無理して来るより早く治してまたデートすればよかったのに」
「あれが最後になるかも知れなかったし・・・」
その言葉を聞いた僕は言葉を失い、それ以上何も聞けなくなってしまった。
面会時間が過ぎていたこともあり、その日はそれ以上の話すことは出来ず帰ることになった。
「明日も来るね」
「うん、待ってる」
そのやつれた笑顔の彼女の目には、いつもの輝きはなかった。
病室を出ると入り口付近でみんなが待っていた。
母親にお礼を伝え三人で帰路に就いた。
「明日お前ひとりで大丈夫か?」
「あぁ」
「和樹君、美咲の傍にいてあげてね」
「あぁ」
僕はそれ以上なんて答えていいのかわからなかった。
まだ病名すら知らない僕はいろんな思いを巡らせ、その夜はなかなか寝付くことが出来なかった。
翌日の放課後、部活をサボり一人で病院に向かった。
正直心細かった。
しかし美咲はもっと心細い筈だ。
「俺が元気をなくしてどうする」そう自分を奮い立たせ院内へ足を踏み入れた。
「ただいま!」
無理に笑顔を作り冗談ぽく病室に入った僕を、彼女は元気な声で「おかえりなさい!」と満面の笑みで迎えてくれた。
「もう、昨日は突然すぎるよー、来るってわかってたらもっとちゃんとしてたのに」
そういう彼女は昨日と違い、髪をちゃんと整え普段着を着ていた。
その姿を見れただけで少し安心することが出来た。
「教えてくれない美咲のせいだぞ」
今度は自然と笑顔が出た。
「体調は?」
「うん!かんぺき!」
「じゃあ退院も間近かな?」
「それはちょっと気が早いかな」
残念ではあったが、元気な彼女を見れただけで安心した。
「早く元気になってくれないとデート出来ないぞ!」
そうふざけて見せる僕に彼女は「うん」と小さな声で答えた。
そして彼女は静かに語り始めた。
「私もうダメなんだ・・・」
「中3になってね、タイム落としまくりで、なんだかそれまでより体が重くて足が着いてこなくて、最初はスランプかなって思ってたの」
僕は彼女の話を黙って聞いた。
「最後の大会はもうボロボロで・・・体調も悪くなる一方で病院で検査する事になったの」
「結果は悪性リンパ腫、もう転移も広がっていて、そのせいで白血病みたいになっちゃって」
頭の中が真っ白になった。
そんなのはドラマや映画だけの世界だと思っていた僕は、頭が混乱していた。
「だからもうダメなんだってわかったのは、中3の秋くらいかな」
自分の命が長くないと知った彼女は、延命治療で苦しむよりも緩和ケアを受けながら、自分らしく今を生きて行くことを選び、高校に進学して日常生活を満喫してその人生を終えようと考えていたという。
「だってそれじゃあ・・・」
僕が言い掛けるとそれを遮るかのように話を進めた。
「もちろん両親には反対されたよ」
「悪いとは思ってるけど、苦しんで衰えて悲惨な最後なんて、その時の私には考えられなかったの」
「だってまだかずくんに出会ってなかったんだもん」
そう話す彼女の言葉に、僕は心臓が掴まれて押し潰されるようだった。
体調悪そうな美咲を何度も目にしてきたのに、何故僕はもっと早く気が付かなかったのか。
ヒントは山ほどあったのに。
静かに語る彼女の言葉に悔やんでも悔やみきれなかった。
「かずくんが悪いんだよ!」
そういうと彼女は突然泣き出した。
「かずくんと出会って生きたくなっちゃったじゃん!ダメだと思って何度告白されても私は我慢して断ったのに」
「ごめん」
僕はそういうのが精一杯だった。
「こんな見た目になっちゃって、これからもっと酷くなると思うの・・・そんな彼女嫌じゃん?」
「そんなことないよ!どんな見た目になっても美咲は美咲じゃん!」
「俺は絶対に好きな気持ちは変わらないよ」
そう言うと、零れそうになった涙をぐっと堪えた。
苦しいのは美咲であって僕ではない、そんな彼女の前で泣くわけにいかないと思った。
「もっと早く・・・中学生の時に美咲と出会っていれば・・・」
そんな事を今更言っても意味がないのは分かっていた。
「私、もういつ死ぬかわからないんだよ?それでもいいの?」
僕は妹の話をした。
「産まれてすぐ死ぬはずだった妹は4歳まで生きたんだよ」
本当はもっと長く生きる筈だった妹の話にちょっと嘘を混ぜたのは、彼女には諦めて欲しくなかったからだ。
それにこの時の僕はまだ、目の前にいる彼女が本当に死んでしまうなんて信じられなかった。
いや、信じたくなかったのかも知れない。
「ちゃんと治療したら来年の春まで生きれるかな・・・」
「なんで春?」
「だって、またかずくんの走る姿見たいじゃん」
「春なんて言わずもっと長生きしてよ、そしたら何度でも走って見せるから」
少し黙った彼女は決心したかのように顔を上げた。
「治療頑張る!だからかずくんはもうここには来ないで欲しいの」
なんで?と問いかける隙を与えないかのように彼女は続けた。
「私が苦しむ姿見られたくないの、ちゃんと治療して生きて見せるから、それまでかずくんはちゃんと部活に出て春の大会でかっこいい姿を見せて」
「みんなにもそれまで会いに来ないように伝えて欲しいの」
心が見透かされている気がした。
僕は、彼女がこれ以上衰えていく姿を見る自信がなかったからだ。
逃げ出したかったのは僕の方だったのかも知れない。
「でももし・・・」
「もし?」
「もし私が死んだら、魂の半分はかずくんに持っていて欲しいな、そしたら私はその中でずっと生きていられるから」
「そんなことにならないから治療に専念しなよ」
「そうだね・・・うん、わかった」
彼女の返事は弱々しく思えた。
「クリスマスは会いに来てもいい?」
「それまでまで生きれるかな」
相変わらず弱々しい彼女の言葉に僕は活を入れた。
「春までに元気になるんでしょ!クリスマスは会いに来るから、約束だからね!」
「わかった!約束ね」
「でも、もしもの時は私の半分・・・それも約束ね」
そう言うと彼女は近付いて、僕の唇にそっとキスをした。
彼女の頬から一筋の涙が流れ、初めてのキスはしょっぱかった。
ふと外を見ると、街はいつの間にか黄金色に染まっていた。
雪と共に
11月に入ると急に寒さが増し、吐く息は白く形を表した。
種目を5,000mから1,500mに転向した僕は、寒空の中、相変わらずマラソンコースを走っていた。
5,000mは敏文一人になったが、相変わらず遅かった。
春の大会までもうそんなに期間はない。
まずは、この陸上部で一番早くなくては話にならなかったが、そんなに難しくはなかった。
三年生が抜けたこの部は、如何せんレベルが低すぎた。
それに顧問の先生も大した指導をしないため、ほぼ自主練に近い状態だった。
陸上部は、野球部が使うグラウンドの片隅にしかスペースがなかったため、マラソンコースの折り返し地点でストレッチをしながら遥か後ろを走る敏文を待った。
ふと思い出す美咲の顔は、いつも元気で目をクリクリさせて笑顔だった。
そんな彼女が死ぬなんて到底思えなかったが、不安を拭い去ることが出来なかった。
11月も後半に差し掛かったある日の部活帰り、ふと館の前を通った。
美咲が入院してからというもの一度も顔を出していなかった。
特に避けていたつもりはなかったが、彼女との思い出が詰まったその店からは自然と足が遠ざかっていた。
「中田君元気?」
唐突に掛けられた声に振り向くと、店の前にいつもの優しい笑顔のおばちゃんが立っていた。
僕はどうも、というように会釈をした。
「最近見掛けないけど、あの子とは最近どうなの?」
最近どうなんだろう・・・
それを一番知りたかったのは僕だった。
「おばちゃんまた!」
急に不安に襲われた僕は、美咲との約束を破りその足で病院へと向かった。
久しぶりに会えばきっと彼女も喜ぶだろう、その時はまだそう思っていた。
病院に着くとすぐさま彼女の病室に向かった。
病室のドアを開けようとした時、聞こえてきたのは彼女が苦しみに荒げる声と、それを必死に宥める彼女の母親の声だった。
「もう無理!」
そう泣き叫ぶ彼女の言葉は、僕がドアノブから手を放す理由としては充分だった。
少し浮かれていた自分の愚かさに落胆した。
"もう無理!"
僕の心もそう叫んでいるようだった。
あの日から三日ほど経ったある夜、電話が鳴った。
公衆電話からだった。
美咲だと確信した僕は慌てて電話に出た。
「かずくん元気?」
そういう彼女の声には力がなく、治療の過酷さを物語っていた。
「毎日寒い中走ってるよ」
「早くみたいなぁ」
寂しそうに言う彼女の言葉に会えない辛さを募らせた。
「そういえば俺、1,500mに転向したんだ」
「そうなの?あの時のかずくんだ!」
少しだけ元気よく彼女は言った。
先日の苦しむ彼女に不安を消し去ることは出来なかったが、その声色に少し安心した僕はそのことに触れることはなかった。
「そういえば正志と佐伯さん、付き合ったんだよ」
彼女は知らなかったようで驚いていたが「お似合いだね」と言った。
二人とはグループチャットでたまに連絡を取っていたが、最近はめっきりご無沙汰だった。
二人は彼女の病気について詳しく知らないようだったので、僕も多くを語らないようにしていた。
「元気になったらみんなで出掛けようね」
「そうだね、私も早く会えるように頑張らなきゃ・・・」
「もうすぐクリスマスだよ」
「うん、楽しみだけどちょっと怖いなぁ」
変わり果てた姿を見られたくないのだろう。
「でも早くかずくんに会いたい」
その言葉が余計に寂しさを募らせた。
「やっぱりイブから行ってもいい?」
そう聞くと彼女は「うん!」と元気よく返事をした。
「それまでにもっと元気にならないと」
その言葉が、彼女の強い意志と言うより願いに聞こえたのは、僕自身が会うことを恐れていたからかも知れない。
冬になるにつれて寒さが一層厳しくなってきた。
遠くに見える山は既に雪で覆われていた。
12月も半ばになると、街はクリスマスムードで一色になった。
僕はプレゼントを探しに店を回った。
彼女の好きなクマのキャラクターの大きなぬいぐるみを探していたが、地元では見つからなかった。
仕方なくネットで探してみると、キラキラと雪が輝くクマの可愛いスノードームを見つけ、それをプレゼントすることにした。
あれ以降、一度も電話が鳴らないことに不安を抱えながらも、それでもまだ元気な笑顔が見れることに期待を膨らませていた。
あと一週間もしたら彼女に会えるのだから。
約束まであと4日となったある朝、外は雪が降っていた。
天気予報では、今夜は寒波の影響で12月では数年振りの大雪になると言っていた。
学校から帰る頃には道は雪に覆われ、自転車を押して歩いた。
「美咲もこの雪見てるかな」そんなことを思いながら。
家に帰ると、ネットで注文したプレゼントが届いていた。
ベッドに入ってからも、早く渡したくてうずうずしながらラッピングされたそれを眺めていた。
突然の着信音で目が覚めた。
知らない番号からだった。
いつの間にかうとうとしていた僕は、時計に目をやると針は23時52分を指していた。
電話に出ると美咲の母親だった。
「美咲がね、ついさっき亡くなったの」
彼女は押し殺すような声で言った。
僕は言葉に詰まってしまった。
「また色々と決まったら連絡しますね」
そう言って電話は切れた。
頭の中が真っ白になった僕は寝巻のまま玄関を出た。
深々と降る雪の中、ただ空を見上げていた。
手には美咲に渡すはずだったプレゼントを握りしめて。
外は凍えるような寒さだったが、美咲のそれに比べたら大したことなく思えた。
「何してるのそんなところで」
足音に気が付いたのか、玄関の中から母が声を掛けてきた。
僕はその声に何も返すことが出来なかった。
暫く様子を伺っていたが、何かを察したように優しい声で「早く部屋に戻りなさいよ」とだけ残して家の奥へと足音は消えていった。
寒さに震えながら部屋に戻った僕は涙を流すことはなかった。
まだ実感が湧かなかったのだ。
彼女は今何を思っているのだろう、そんなことを考えながらその日は朝まで眠ることが出来なかった。
美咲の命は雪に囚われ、僕達の願いは溶けて消えてしまったように思えた。
彼女の声
まだ冬休み前にも関わらず翌日から学校を休んだ。
親には何も告げなかったが、特に咎められることはなかった。
夕方になると彼女の母親からメールが届いた。
通夜の案内だったが、返信することはなく行くこともなかった。
部屋で一人、美咲へのプレゼント眺めていた。
翌日になっても僕はまだ、死んだ彼女の姿を見ることが出来なかった。
葬儀に向かう勇気すらなく心にぽっかりと穴が開いているようだった。
虚無感に襲われていた僕は、短かった彼女との思い出が繰り返し頭の中を巡っていた。
「美咲でいいよ、和樹君!」
初めての彼女との会話。
「今どきの女子高生が携帯持ってないなんて驚きでしょ、うちの親厳しいんだよね」
初めての電話。
「私たち、やっぱり会わない方がいいかも」
雨の中、二人歩いた女鳥羽川沿い。
「おんなじだね!」
彼女の口癖。
「そんなとこまで似なくていいのに」
暗い影を落とす彼女の表情。
「私もうダメなんだ・・・」
辛く切ない真実。
「それまでにもっと元気にならないとね」
美咲の最後の言葉。
全てが昨日のことのように何度も再生された。
「でも、もしもの時は私の半分・・・それも約束ね」
私の半分・・・繰り返し鳴り響くその声に
「嘘だと言ってくれよ」
そう呟くのが精一杯だった。
最後の願い
先日の大雪が嘘のように晴れ渡った23日の朝、彼女の母親から電話があった。
「今日火葬されるから最後に美咲の顔を見てあげて」
まだ僕は答えを見付けられずにいた。
悩んでいたのは、今彼女を見たら自分が自分では居られなくなるような気がしたからだ。
焦りを感じながらも刻一刻と時は過ぎていく。
「お前、最後まで来ないつもりかよ!」
開始時刻がとっくに過ぎた頃、正志からLINEが来た。
背中を押してくれるのはいつも彼だった。
「これが最後なんだ 」
心の声に突き動かされ、急いで身支度を整えた。
現実に押し潰されそうになりながらも必死に自転車を漕いだ。
角を曲がり女鳥羽川沿いを駆け抜け、火葬場へと続く長い上り坂を立ち漕ぎで駆け上がっているその時、チェーンが外れてしまった。
焦る僕はその場に乗り捨て、無我夢中で駆け上がっていたその瞬間
「和樹君頑張って!」
あの日、陸上競技場で必死に駆けていたあの思い出が脳裏をかすめ、美咲の声が聞こえた気がした。
そう思うと自然と体が軽くなり、時が止まったかのように自分が切る風の音だけが聞こえた。
「俺は美咲がいるから走れるんだ!だから彼女の元まで走り続けるんだ!」そう心が叫んでいた。
汗だくになりながらやっとの思いで到着すると、もう納骨式が始まっていた。
納骨は屋外で行われていた。
僕に気が付いた彼女の母親は、そっとその列に並ばせた。
憔悴しきったその顔が深い悲しみを物語っていた。
母親が手に持っている写真は、東京のカフェで僕が美咲にせがまれて撮った物だった。
その中の彼女は満面の笑みを浮かべていた。
遠くの方には納骨を終えたのか、正志と佐伯さんが並んで座っているのが見えた。
佐伯さんは泣いているようだった。
列が進むにつれ、目にしたものは変わり果てた彼女の、とても小さくなった白い欠片だった。
その小さな欠片は僕のことを待っていたように思えた。
順番が来ると、これが彼女だなんて信じられず震えが止まらなかった。
その震える手でなんとか、箸のようなものを使い、"それ"を壺へと運んだ。
納骨式が終わると彼女の母親は、ちょっと待っててと言うような仕草をし、建物の中へ何かを取りに行った。
それは小さな手帳だった。
その中の一ページを開き渡された。
『かずくんは幸せになってね、それが私の願いです』
か細く震えるような文字からは闘病中の美咲の壮絶な日々が伝わってきた。
「かずくんはってなんだよ、一人じゃ幸せになんてなれないよ」
絞り出すように発したその声は、僕がこの日初めて声に出した言葉だった。
美咲の入院を知ってからの三ヵ月間、ずっと我慢していた想いが急に込み上げ涙が溢れ出した。
恥ずかしいくらい大声を上げ、膝から崩れ落ち両手を地面に付け泣き叫んだ。
明日会うって約束してたじゃん!
春には応援に来てくれるって言ったじゃん!
生きるって約束したじゃん!
なんでもっと早く病気のこと教えてくれなかったんだよ!
俺はこの先どうやって生きていけばいいんだよ!
嗚咽を上げながら、血の滲む手で何度も地面を叩き付けながら、溢れ出る言葉を抑えることが出来なかった。
母親は「ごめんね」と繰り返しながら一緒に泣いていた。
いつの間にか横にいた正志は僕の肩に手を載せて摩った。
佐伯さんはしゃがんで反対側の僕の袖を掴みながら泣いていた。
「私の願いですってそんなの勝手だよ・・・」
少し落ち着いた僕のその言葉には、もう叫ぶ力も残っていなかった。
君の全部
翌年の春、桜が徐々に散りだした4月の終わり、僕はあの陸上競技場に立っていた。
きっと美咲が見てくれている。
もう聞くことの出来ない彼女の声や想いを胸に抱きながら1,500mを必死に走った。
結果は8位と惨敗だったが清々しい気分だった。
有山高校のベンチに目をやると、美咲の代わりに正志と佐伯さんがこちらに向かって親指を立てサインを送ってくれた。
その日の夜、夢を見た。
学校帰りに自転車を押しながら歩いていた。
桜が舞い散るその先に僕の家が見えた。
玄関からは30代後半くらいの男性が出てきた。
その顔はどこかで見たことがあるような気がしたが、すぐに大人になった自分なんだと気が付いた。
これは夢なんだ。
「絵里、遅いぞ」
優しい笑顔を見せた彼がそういうと、奥さんと思しき女性が出てきた。
女性の名前が、小さい頃に亡くなった妹と同じだった。
その後ろを着いて来るように出て来た僕と同い年くらいの女の子。
その子がふとこちらを振り向くと、クリクリと丸い目をニコッとさせ、満面の笑みを浮かべた。
その顔は元気だった頃の美咲によく似ていた。
あぁ、命って繋がっているんだなぁ。
「いつか再会するその時まで、君の半分を僕が守っていくよ」
僕は彼女にそう告げた。
2022年に入って一本の電話が鳴った。
久しぶりの地元の友人からだった。
特に用事がなくても年に数回、電話で話す関係は長らく続いていた。
そんな会話の中で、彼女と出会ったあの陸上競技場が建て直されることを知った。
それがこの物語を書く切っ掛けになったのである。
当時はスマホどころか携帯電話すら持っていなかった。
ネットで調べ物が簡単に出来るような時代でもなく、病気に関しては彼女の口から聞いたことを覚えている限りを書いたものであり、正確ではないかもしれない。
余命宣告に対し延命治療ではなく緩和ケアを選んだのは、覚悟ではなく中学三年生の彼女にはとても受け入れられるものではなく、また、実感が湧かないほどの残酷な現実だったのかも知れない。
彼女とのエピソードが少ないのは、それだけ彼女との過ごした時間が短かったのだ。
現代風に脚色されてはいるが、あの日彼女と出会い、甘くそして悲しい結末を迎えることになる恋をしたことは事実だ。
つまりこれは実話ではなく"実話を基にしたフィクション"ということになる。
不思議なもので物語を書き進めていくと、所々ではあるがその時の情景が鮮明に思い起こされる。
そして3度目の告白のシーンでは、大粒の涙を流す彼女の顔が昨日のことのようにはっきりと頭に浮かび、タイピングをしながら涙が止まらなくなった。
納骨式での出来事もそうだ。
彼女の残した震えるようなメッセージや、泣き叫んだ後に喉がビリビリと痛かったあの感覚が蘇り、涙が溢れ書き進めるのが困難になるほどだった。
書くどころか小説をまともに読むことすらなかった僕が、この物語を最後まで描くことが出来たのは、そんな沢山の思い出に助けられたのかも知れない。
すっかり忘れていたことがこんなに鮮明に蘇るなんて、人間の脳は本当に不思議だなと思いながらもなんとか結末を迎えることが出来た。
今も僕の中には彼女の半分がきっとあるのだろう。
それは決して忘れることの出来ない思い出として。
令和五年一月 楠木 圭