誰かの代わりの女
33歳、拙いながらも、生まれて初めて小説を書いてみました。お手柔らかに感想、アドバイスなどいただけると嬉しいです。
ドアを開けた瞬間から、カレーだ、と分かる。
グツグツと煮立った鍋の横には板チョコレート、まな板の隣には飲みかけのスーパードライが置かれていた。
「お前、まさかチョコレート入れたのかよ」
「そんな顔しないでよ。昔さ、なんかのアニメでやってたのよ、隠し味に入れると美味しいって」
十年前に卒業したぼくの中学校のジャージを着た早苗は、口を尖らせてそう言いながら、テーブルにカレーライスを運んだ。
「ね、美味しいでしょ」
と、得意げな表情を浮かべている。
「悪くはないね」
「へへ、ビールも入れたんだ」
などと言って笑っていた。早苗が家に転がり込んできてから三ヶ月が経っていた。
マッチングアプリで五人目に会った女が早苗だった。三年近く付き合った恋人に浮気されていたことを知り、僕はろくに話も聞かずに別れを告げた。それから二年、恋人はいない。そんな時、おせっかいな会社の後輩から勧められてしぶしぶ始めたのだが、何一つ質問してこない女、話の合わないアパレルの女、一時間で灰皿を満たした女、片道二時間の女、といずれも食事や散歩などをして、それきり連絡はないし、こちらからも連絡をしなかった。
平日の昼休み、「あっついね! ビール飲みたいです」と早苗からのメッセージがあり、「飲もっか」と返信をしてみたところ、その日のうちに急遽会うこととなったのだ。
駅前で、深々と帽子を被った早苗と簡単な挨拶を交わすと、お互い気になっていた大衆酒場の人気店で飲んだ。どちらかと言えば、あまりお酒に強くなさそうではあったが、早苗はとても飲みたがった。
「お酒おいしーって思ったことないんだよね。酔うために飲んでるっていうか」
最初の「ビール飲みたい」は何だったのだ、とは思ったが、実際一緒に暮らしてみても早苗はそういう飲み方をする女だった。
特に音楽や映画の趣味が合う訳でもなかったが、不思議と会話は途切れることなく、居心地は良かった。二軒目はどうか、と店に来る途中の路地に見えたバーへ誘うと「一択でしょ!」と当然のようについてきた。
随分な時間になっているとは気づいていた。しかし早苗は酒に酔ったトロンとした目をしながら、一向に終電を気にする素振りを見せず、案の定、終電を逃した。「漫喫に泊まるから大丈夫!」と平気な顔して言う早苗に、冗談めかして「ウチくる?」と聞くと、「いくいく!」と怯むことなくついてきた。
二人で家に帰ると、当然のなりゆきであるかのようにぼくらは寝た。こういうことがあるたびに、こういうことが初めてか、今までに何度かあったか、はっきりと分かるものである。早苗は紛れもなく、後者だった。
「例えば誰かと付き合ったりするじゃん? けど、なんとなくその相手が別の誰かを思い浮かべているかなんてすぐに分かっちゃうの。それでも折り合いつけて付き合っていければいいんだけど、結局自分は誰かの代わりでしかないって思うとたまらなく寂しくなるんだよね」
「俺はどうだと思う?」
「どうって……付き合ってないし、今日会ったばっかじゃん。けど、ちゃんとあたしのこと見てくれてる感じはするかな」
実際のところ、僕は前の恋人が家に来ていた頃のことを思い出していた。
翌朝、「いってらっしゃい」とまだ目の開いていないような早苗に送り出され、仕事を終えて帰宅すると、彼女は朝と同じ体勢で横になっていた。昼間からハイボールを飲んでいたようだが、氷は溶け、炭酸はもう抜けていた。
「いいなぁ。あたしと入れ違いみたいですね」
僕にマッチングアプリを勧めてきた後輩は、彼氏が出来たものの三ヶ月で別れたらしい。
「別に付き合ってはないよ。一緒に暮らしてるだけ」
「それって同棲ってことじゃないですか。付き合う以上のことですよ」
たしかに家族以外の人と暮らすなんてことは始めてだった。ただ、僕としては外食続きの生活から、自炊しなくても手料理が食べられる生活になったことが一番のメリットだと思っていた。「もう少し詳しく聞かせてくださいよー」と言われたものだから、飲みに行く約束をした。その日の昼休み、他の女性と二人で飲みに行く後ろめたさもあって「今日は残業長引きそうだから、ご飯はいらない」と早苗に連絡をしたところ、不服そうな表情をした自撮りだけが送られてきた。
定時で上がった僕と後輩は、初めて早苗と行った大衆酒場で飲んだ。一人分の肉豆腐や、紅生姜のかき揚げを箸で切り分け合いながら小一時間飲んでいると、
「ほんと男って、一緒にいても別の女性をチラチラ見てますよね」
と後輩から蔑んだような表情で言われ、少し遅れてから、それがコの字カウンターの向かいに座った金髪の女を見ていた自分に向けられた言葉だと気がついた。
「とは言っても、それは女だって同じでしょ」と特に今までそうは思ったこともないが言ってみた。
「他は知りませんけど、あたしは一途です。隣にいる人のことしか考えてないです!」
少し遅れてから、それも自分に向けられた言葉だと気がつくと、なんとも気まずい空気が流れた。
改札口まで送ろうと歩きだすと、後輩の方から手をつないできた。
「おい、会社の人に見られたらどうすんだ」
「見られたっていいです。あたし本気ですから」
振りほどくのも些か乱暴な気がして、後輩のペースに持っていかれたままにしていると、向かいの道路に買い物袋を持った早苗がいた。早苗は僕と目が合うと、顔を隠すようにして足早に家の方向へ歩いていった。
別に付き合ってる訳ではない。一緒に暮らしているだけ。そうは思っても、嘘をついて飲んでいたものだからなんとなく顔を合わせづらくなってしまった。後輩を改札口まで送り届けた後、一人で飲みに行き、日付が変わる頃、ようやく帰路についた。
ドアを開けた瞬間から、いないな、と分かる。
部屋の明かりをつけると、靴はもちろんのこと、早苗が持ってきたスーツケースはない。ゲーム機はない。歯ブラシはない。さっき早苗が持っていた買い物袋が乱雑にテーブルに置かれていた。中を見て、カレーを作るつもりだったとすぐに分かった。この三ヶ月ほぼ寝間着として使っていた、僕の中学時代のジャージは、綺麗に畳まれ、椅子の上に置いてあった。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
連絡は一向につかなかった。
四日目の夜、僕は数年ぶりに自炊をした。
置いてあった具材で、カレーライスを作ったのだ。なんとかあの味を再現しようとして、板チョコレートも入れた。意気揚々と食べ進めるも、どうも深みが足りないな、と思った。皿を洗っている時に、ビールを入れ忘れていたことに気がつくと、何故か知らないけど、とてつもなく泣いた。
誰の代わりでもなかった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。