私たちは、肥えられる。
2021年7月某日、某放送局の野球実況にて――。
「さあ、いよいよ東京オリンピックが開催される7月となりました」
実況アナはいつになく上機嫌で切り出した。
「今日は、巨人対ヤクルトの一戦をお送りいたします」そこで、はっと思い出したように、「解説は、○○さんにお願いいたします。○○さん、よろしくお願いいたします」付け足すように言った。
「はい、よろしく」
解説者は不愛想に答えた。
解説者の暗い声とは対照的に、実況アナの声は甲高かった。
実況アナは不自然なほど明るく言った。
「今日の巨人対ヤクルト、楽しみなのですが……」
そう言ってから、
「○○さんは、オリンピックの思い出など、何かおありですか?」
実況アナは突然、解説者に話を振った。
解説者はしばらく無言でいた。
ようやく口を開き、
「巨人対ヤクルトと、オリンピックと、何の関係があるの?」と言った。
解説者が白けた感じで言うと、実況アナが「ん、んー」と悶えた。
そして、しばらく悶えていたが、返す言葉が見つからなかったのか、
「さあ、ヤクルトの一番バッターが打席に入りました。ピッチャーの投球を待ち構えます」
解説者の問いかけを無視し、実況を始めた。
マウンド上のピッチャーが投球モーションに入った。一球目を投げた。審判がストライクと告げると、実況アナは言った。
「まずストライクを取りました」そこで、「あ」と声を上げ、「そう言えば、ボールは丸い。まるで五輪のマークのように」と、取ってつけたようなことを言った。
さらには、打者が打球を打ち上げると、
「あ、打ちました。打球が弧を描いてスタンドへ。そこはまさか、新国立競技場のスタンドではないのかあっ」
実況アナは頭がおかしくなっているのか、訳の分からないことを言いだした。
しかし、実況アナの言葉とは裏腹に、打球は失速した。新国立競技場のスタンドどころか、外野へすら届かなかった。力ない打球は、内野手のグラブに収まった。
「ああ、セカンドフライでした」
実況アナはさもがっかりしたように、声のトーンを落とした。
解説者がすかさず言った。
「勢いがなくなったね。なんか、オリンピックのこれからを予感させるような……」
解説者は皮肉っぽく言いかけた。
ところが、実況アナはみなまでは言わせなかった。その言葉におっかぶせるように、いきなり叫んだ。「ここでCMです。スポンサーはアサ……」
が、言った途端、「んんー」と悶え、
「間違えました。まだ、イニングは終わってませんでしたね」
またまた、「んんー」と悶え、
「さあ、二番バッターが打席に入ります」と実況を続けた。
その後はしばらく、実況アナが一人で話し続けた。解説者に話題を振るものの、解説者は押し黙ったままでいた。
解説者が取り合ってくれないからか、実況アナは暴走し始めた。
二番バッターがヒットを打つと、アナは言った。
「おおっと、ヒットだ。これは次打者が打たせたのでは。なにしろ次の打者は、侍ジャパンですから」
そして、勢いづいて、
「侍ジャパンについて、説明いたしましょう……」
そう言ってから、侍ジャパンに絡め、オリンピックのことを語りだした。
業を煮やしたように、解説者が横から口をはさんだ。
「目の前の野球中継に専念しなよ」
言われた実況アナは、例によって「んんー」と悶えた。
「し、失礼いたしました」と素直に謝った。
が、次打者があえなく凡退すると、
「んんー、惜しい。この雪辱は、きっとオリンピックで果たしてくれるでしょう」
そんなことを言って、またも「オリンピック」というワードを口にした。
そうしているうちに、ヤクルトの攻撃が終了した。
インターバルを利用し、実況アナは懲りずに言った。
「いよいよ、7月です。東京オリンピックが始まりますねえ」
アナは、「ねえ」と言って、解説者に同調を求めた。
しかし解説者はすげなく言った。
「さっきも言ってたよ。しつこいね」
実況アナはめげなかった。「でもですね」と食い下がり、「今回のオリンピックは復興五輪と言われていて……」
実況アナは、問われてもいないのに、オリンピックの意義を必死になって説明しだした。
その途端、解説者が「ちょっと待ってよ」と言った。そして、
「復興五輪って、何だよ。五輪をやると、復興が進むの?」
声を荒らげ、解説者は実況アナに迫った。
解説者の勢いに気圧され、実況アナは、「んんー」と悶えた。
しばらく悶えてから、
「でも、○○さんも、アスリート出身なのですから、オリンピックに興味は……」
すると解説者がすかさず言った。
「ないね。というよりさ、中止にしてほしいんだよね。だってさ、そもそも、こんなパンデミックのさなかにオリンピックをやるなんて……」
解説者は、今回のオリンピック開催は無謀すぎるし、道義にも反していると、訴え始めた。
解説者が語り始めると、実況アナは、「ん、んー」「ん、んー」と壊れたように繰り返した。
そして、
「さあ、ここでCMです」
解説者の言葉におっかぶせて、
「スポンサーは五輪のスポンサーにもなっている、トヨ……、コカ……」
実況アナは、スポンサーの名を連呼し始めた。