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#37 不死身の騎士⑪ フロイデ

 同じ形の剣を同じ構えで向け合う兄妹の間を、生ぬるい夜風がするりと抜ける。私は巻き込まれないように後ろに下がりながら、戦闘の緊張感とは違う不思議な空気を肌で感じていた。幕が上がる前の舞台のような、厳かな静けさだ。


 ラルカンさんの鋭い眼差しからは殺意がありありと滲み出ているが、スレインさんのほうはといえば、いつもと違ってほどよく力が抜けた姿勢で、これからスポーツに興じる人みたいだ。


 先に動いたのはラルカンさんだった。ゆらりと傾いた切っ先が、ヒュッと目にも留まらぬ速さで空を一閃する。そこから黒い風のようなエネルギーが起こり、凄まじいスピードで駆け出した。マリオさんから聞いていた、飛ぶ斬撃だ。


 スレインさんは剣で防ぐのでも飛び退くのでもなく――ごく普通に、散歩でもするみたいにゆっくりと歩き出した。


 黒い風がぶつかってしまうと思った矢先、スレインさんは小石でも避けるかのように斬撃の塊をひょいと通り抜け、ラルカンさんに近づいていく。


 ラルカンさんはやや戸惑いを見せつつも、姿勢を低くして迎撃の構えをとり、無防備に接近してきたスレインさんに狙いを定める。地面すれすれのところを滑走した刃は、いきなり刀身が伸びたかのように横長の楕円の軌道を描いて斬り上げられる。


 刃先が届くか届かないかという絶妙な間合いに踏み込んだ、見事な一撃だった。しかし、スレインさんは無傷のままそこにいた。避けたのか弾いたのか、私の目では追えなかった。


 スレインさんは兄の姿を眼下に捉え、剣を振り上げて、下ろした。


 ラルカンさんの高速の剣技とはまるで違う、一つ一つの動作が落ち着いたテンポで進んでいくような剣筋。

 なのに、その刃は正確に彼の肩を削いだ。


 赤黒い血飛沫が噴き上がる。彼はぐらりとよろめいたが、しっかり踏みとどまって身体を支える。傷口にそっと触れた手に血が付着するが、それほど深くはないようだった。それでも彼の顔が青ざめているのは、私にも理解できることだった。


 スレインさんは今、ラルカンさんを殺そうと思えば殺せたはずだ。首を斬り落とせる場面で、わざと肩を浅く斬るにとどめたのだ。


 なぜ? 理由は簡単だ。あっさり勝ってしまったら、ラルカン・リードの武勇を傷つけてしまうから。

 彼は一進一退のギリギリの死闘を繰り広げた末に、華々しく散らなければならない。スレインさんの頭にあるのは、それをどう演出するかということだけなのだ。


 それから幾度かの剣の応酬があった。甲高い金属音が何度も響いた。傷を増やしていくのはラルカンさんのほうばかりだ。騎士団長の剣術は素人目にも相当の練度だとわかるが、どうしてスレインさんが無傷で済んでいるのか、わけがわからない。


 未来予知でもしているのかと疑われるほどラルカンさんの動きは完全に読まれていて、鋼の指揮棒に操られているかのように右へ左へと踊らされている。

 剣も防具もズタズタに刻まれ、流血に染まっていく彼は、初めて恐怖を顔に出した。怖気づいたが最後、騎士の魂とも呼べる剣は、軽々と弾き飛ばされてしまう。


 ガラン、と鋼が石にぶつかるのを見届けた後、そろりと前方に戻った彼の視線は、鋭い眼光を煌めかせて剣を構える実の妹に注がれる。あと一振りで命が絶たれてもおかしくない場面で、彼は別の作戦に切り替えた。


「まっ……待ってくれ! ぼ、僕が悪かった。今までのことは全部謝る。このとおりだ……」


 植物が萎れるように、彼はしおしおと膝をつき、頭を下げて許しを乞うた。


「お前をそこまで追いつめてしまったのは、僕の責任だ……。頼む、こんなことはもうやめにしてくれ」


 スレインさんは鋭い目つきのままに、弱々しい兄の姿を見下ろしている。プライドも威厳も何もかも投げうっての謝罪は、その黒々とした眼に吸い込まれてしまう。


「何をおっしゃるのです? 兄上は何も悪くありません。さあ、剣を取ってください」


 ラルカンさんは、頭を垂れたまま動かない。心からの謝罪でないことは私にもわかった。だけど、この姿勢ではスレインさんも斬るに斬れないのだ。彼は、戦って死ななければならないのだから。


 戦いを放棄することで、延命を図っているのかもしれない。待っていれば近衛騎士団の仲間が来るかもしれないと、そういう算段でも立てているのだろうか。


「…………わかりました」


 意外にも、スレインさんは簡単に剣を納めた。柔和な微笑みを浮かべながら、兄に手を差し出す。


「私も度が過ぎました。どうか頭を上げてください」


 ラルカンさんは素直に差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がる。その過程で、ほんの一瞬どす黒い眼光が閃いたのを私は見逃さなかった。


 やっぱり何か企んでいる――と私が警笛を鳴らす前に、おびただしい血の波飛沫が月夜の空へと舞い上がった。


 つい今しがた目にしたどす黒い眼光よりもさらに深い闇を宿した笑みを浮かべて、スレインさんが血みどろの剣を振り上げているさまが視界いっぱいに現れた。


 対するラルカンさんの身体には金属の防具まで巻き込んで、斜め一直線に赤い筋が走っている。


「私はもう悪党になったのですよ、兄上」


 仰向けに倒れて呻き声を漏らす兄に、恍惚とした眼差しが降り注がれる。


「ああ、可哀そうに……死闘の末、卑怯な不意打ちで命を落とす近衛騎士団長! ですが、ご安心ください。あなたのことは私が覚えています。輝かしい功績も、その陰に隠されたものも、全部。未来永劫、あなたの名誉は私がお守りいたします」


 広がっていく血だまりの中で、ラルカンさんはもう血のあぶくを吐くことしかできない。


「兄上――……いや、兄さん。私はずっと、あなたを愛しているよ」


 彼が最期に目にしたのはおそらく、至福の喜びを満面に溢れさせた妹の顔と、月の光を帯びて輝く剣の鋭い刃先だったのだろう。


 鋼鉄の刃に貫かれたその身体は完全に力を失って、革袋のようにぐったりと横たわり、それから二度と動くことはなかった。


 ふっと何かが突然消えたように、沈黙がこの場に横たわる。ひとつの事態が終わった後の空白。今さらになって、血の臭いがむっと鼻につく。


 ラルカンさんの亡骸を見ながら、この結末は彼自身が招いたものだというような気がした。自らの破滅の運命を丁寧に丁寧に拵えて、それが花開いたのが今日だった――そんなイメージだ。仮に今日を生きのびて栄華を極めたとして、その地位は長続きしないだろうという確信がどこかにあった。


 じっと兄を見つめていたスレインさんが、私のほうを振り向く。役者が幕間の舞台袖で垣間見せる、役の仮面を外した素顔。


「私はこれから、近衛騎士団の他の者も殺しに行く」


 宣言というよりは、了承を得ようとしているような言い方だった。自分が手を汚せば、私たちにも少なからず影響が及ぶ。さらに言えば、自分が人の道から外れるような人間になることを、私が受け入れられるかということを問うている。


「一緒に悪党になるって、言ったじゃないですか」


 私の心は変わっていない。これから何の罪もない近衛騎士が斬られることになるかもしれない。彼には愛する家族がいるのだろうし、叶えるべき夢を胸に抱いているかもしれない。

 それでも私は、スレインさんが生きていてくれることを選んだのだ。誰かが犠牲になるとしても。


「前にも言いましたよね。スレインさんがどんな選択をしても、私はずっと、大好きですよ」


 みるみる目を見開いたスレインさんは今にも泣きだしそうな顔になって、それを堪えるみたいに眉間に力を込めて固く目を閉じた。再び薄く開けられた両目は、返り血で塗れた自分の手に落とされている。


 私は自分が汚れるのも構わずその手を引いて、そっと抱きしめた。血の臭いはもう気にならなかった。やがてガラス細工に触れるかのような優しい手つきが私の背中に感じられた。


「みんなを集めておいてくれないか。必ず迎えに行く」


「……はい」


 スレインさんは待ち合わせる場所を告げて私から離れると――兄の剣を手に取って、自分の鞘に納めた。

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