#37 不死身の騎士⑩ 生死の向こう側
<ゼータ>か兄か、どちらかを選べ――そう迫られたスレインさんは、死刑宣告を言い渡された罪人のように愕然としていた。そんなことできるわけがないって、私でもわかる。わかったうえで言っているのだ、あの人は。
「近衛騎士団と<ゼータ>がここまで対立してしまった以上、どちらにつくかはっきりさせておかなくてはならない。そうだろう?」
「で……ですが……」
「逃げることは許さん。お前が選ばなければ、僕はその娘を殺す」
鉛のような声に、スレインさんは足が凍りついてしまったようだった。兄がためらいもなく剣を抜くのを、ただ震える眼で見送っている。
「それが嫌なら――その娘につくのなら、ここで僕と戦って退けてみろ。僕に忠誠を誓うのなら、その娘を自ら斬ってみせろ」
スレインさんにのしかかる重圧はますます重みを増していく。喉を絞められているみたいな浅く速い呼吸が歪なリズムで繰り返される。
「さあ、剣を抜け」
その声に操られるように、スレインさんはふらふらと立ち上がって剣の柄に手をかける。カタカタと金属が小刻みに揺れる音とともに、か細い刀身が不恰好に抜かれる。切っ先はどこにも定まらないまま、だらりと頭を垂れている。
引き締まった両腕に力強く握られ、月光を反射しながら夜空を貫くように一直線に伸ばされた近衛騎士団長の剣とは、まるで対照的だった。刃を交える前から決着がついているようなものだ。
ふいに、スレインさんが幽霊でもいるかのようにおそるおそる私のほうを振り返る。
目が合った。飼い主に殴られ続けた子犬を思わせる、あまりにも弱々しい目だった。
カラン、と細い直刀がその手から滑り落ちた。
「できない……できません、私には……。どちらを、斬ることも……できません……!」
スレインさんは空になった両手で髪を掻きむしりながら、その場にうずくまってしまった。忌々しげな舌打ちが小さくこだまして、騎士団長の剣に不穏な光がひらめく。
だけど――彼が動く前に、私が動いた。小石を拾うみたいにして、スレインさんの剣を手に取る。金属の重量が手のひらに伝わってくる。
私の突飛な行動に、兄妹は2人して怪訝そうな目を送ってきた。
「おいおい……なんだ? 君が相手してくれるのかい?」
「違います。でも、ちょっとだけ借りてもいいですか?」
「……何を、するつもりだ?」
スレインさんは薄々感づいてきたのか、そろそろと慎重に立ち上がって私のほうを注視する。
「私、これ以上スレインさんに苦しい思いをしてほしくないんです。ラルカンさんの言う通りにして、私たちを捨ててもいい。……たとえ、私が死ぬことになっても」
「……」
「スレインさんが生きて、幸せでいてくれるなら、私はなんでもいいんです。私自身が生きていても、死んでいても――どっちでもいいんです」
本音を言えば、私だって死にたくはない。でも、スレインさんは今までもずっと、私のために命を懸けてくれた。私のために死ぬ覚悟を持っていてくれた。私がそれを望んでいなくても。
それなら、私がスレインさんのために死ぬくらいのことをしなくては、その義に報いることはできないだろう。
まだまだやりたいことはある。別れたくない人たちもたくさんいる。それらを全部捨てても、スレインさんのためになるのなら喜んでそうしよう。最善の手ではないことはわかっている。それでも、少しでもスレインさんの苦しみが減るのなら……。
雲が月を覆い隠し、辺りの闇が深まっていく。私は手もとが覚束ないままに、長い剣の切っ先を自分へ向ける。
ふいにその刃を5本の指でしっかりと挟まれて、私の手が止まる。
そっと見上げると、自らの剣を素手で掴むスレインさんの影法師のようなシルエットが映った。荒い呼吸も手の震えもいつのまにか収まっていて、立ち姿からは何の感情も読み取れない。
闇の中にそこだけほの白く浮かぶ大きな目の中央に一点、まじりけのない純粋な黒で塗りつぶされた瞳が、どこを見つめるでもなくそこに漂っている。
「生きていても、死んでいても……いい。……そうか。確かに、そうだ」
ぽつりぽつりと雨粒のようにこぼれる独り言。何かに取り憑かれたように、私の手からゆっくりと剣を取り外し、自らの手に収めた。漆黒の眼が長細い鋼の上を撫でるように滑っていき、鋭い刃先に到達したとき、影に覆われた顔の下方を三日月の笑みが切り裂いた。
「ふ、ふふ……ははは……。なるほど、そうだ。その通りだ。選ばなくていい。選ばなくてもいいんだ。救える……どちらも救える。これなら……」
乾いた笑いをまじえた声は、どこに向けられているのかも不明瞭だった。自分かもしれないし、自分以外のすべてかもしれない。あるいは、その両方。
「エステル」
「はい」
一転して角のとれた柔らかな両目の中に、私の姿が映る。
「私と一緒に、悪党になってくれないか」
答えは一つしかないということは、お互いに了解していた。だから、私は満面の笑みを返す。
「もちろんです」
雲が晴れて、月明かりがのびやかに下りてくる。安堵したように眉を開いたスレインさんは、余計なものを全部吐き出すみたいにふっと息をついた。そうしてくるりと私に背を向ける。
「……僕に刃向かう、ということだな?」
「いいえ、そうではありません」
訝るように片目をすがめる兄を前にして、スレインさんは滔々と続ける。
「以前、ある者に兄上のことを糾弾されました。失礼ながら……兄上を、自分の権力を拡大することしか頭にない悪党だと」
「はははっ。そいつの勘違いか、ただの妄想だろう。お前はそれを真に受けたのか?」
「まさか。しかし、見ようによってはそのように映るのでしょう。人を欺き、陥れ、暴力的に支配する悪党――これまでの行いを顧みるに、否定できない部分もございます」
「……お前まで僕を悪者扱いか」
「勘違いなされぬよう。私は兄上を心の底から敬愛しております。ですが、兄上が自らの望みを果たそうとすればするほど、そのような悪評が広がるおそれがあります。これはもはや、避けられぬ運命なのです」
よどみなく弁舌を振るっていたスレインさんが、そこで一呼吸置いた。
「……そんな不名誉を見過ごせるはずがありましょうか。ですから、今夜……私が兄上に代わって汚名を被ることにいたします」
不気味な予感がよぎったのか、ラルカンさんの顔から余裕が薄れ、警戒の色が濃くなっていく。
「何をするつもりだ?」
「筋書きはこうです――近衛騎士団長ラルカン・リードは、魔族の手先となった勇者パーティ<ゼータ>と勇敢に戦い、栄誉の戦死を遂げる!」
スレインさんは芝居の語り部のように、堂々たる口ぶりで自らの兄の死を宣告した。それを聞いたラルカンさんの、内側から煮え立つような強張った表情に動じることもなく。
「本気で言っているんだな……?」
「本気です。本気ですとも。たとえその身が果てても、義に尽くすのが騎士道というもの。兄上に教わったことです。兄上はその騎士道を立派に成し遂げるのです。生きているか、死んでいるかは関係ありません」
「僕に勝てると思っているのか。一度も勝てなかったお前が」
「兄上のためならば、私はなんでもできます。愛するあなたを斬ることだってできる」
言いながら、スレインさんは身につけていた防具をひとつひとつ外して地面に落としていった。すらりとした細身が露わになり、装備は鈍く光る直刀ただ一つになる。
ラルカンさんの憤りがいよいよ眉間のあたりに募り、彼の周りに魔族の気配のようなものが渦巻く。
相対するスレインさんは、今から斬り合いをするとは思えないほどの清々しい表情で、愛する兄をまっすぐに見据えた。
「私は死なない。私はもう傷つかない。すべては私の愛するもののために」




