#37 不死身の騎士⑨ 絶望の底
女の細身を貫く刀身から、血の雫が機械的なリズムでしたたり落ちる。ロゼールの顔が色を失っていくにつれて、あたりに血の臭いが広がっていき、ゼクはようやく現実感を取り戻した。
「てっ……テメェ!!」
瞬間的に上った怒りに任せて駆け出したゼクだが、ルアンが脱力しきったロゼールの身体を持ち上げて前に出すと、その勇み足に急ブレーキがかかる。
「野郎……!」
「まあまあ落ち着きたまえ。ここからは話し合いだ」
ゼクの神経を逆なでするように、ラルカンが両手を挙げて間に入った。
「彼女は死んではいない。このまま放っておけば死ぬだろうが……助けてやっても構わない。君の命と引き換えにね」
山脈のような太い血管が、眉間の傷跡をまたいで鮮明に浮き上がる。鋭利な吊り目は火炎のように血走り、殺意に滾る瞳が微笑を浮かべる卑劣漢をまっすぐに穿った。
「この、クズ野郎……テメェだけは、ぶっ殺さねぇと気が済まねぇ……」
「やってみるかい? まあ、彼女は死ぬだろうがな」
ルアンがさらに剣を押し出すと、ロゼールは声にならない悲鳴とともに顔を歪め、血の塊を吐き出した。生気の薄れた碧眼はゼクの顔をじっと見つめる。自分を見捨てろ、と言わんばかりに。
ゼクは奥歯を嚙みしめる。仲間を見捨てるという選択を、そう易々と選ぶわけにはいかなかった。誰か一人でもいなくなれば、<ゼータ>というパーティそのものが致命傷を負うのだ。
「君のような奴でも、仲間を大切にしたいと思うものなんだな」
ラルカンはその笑顔にいくらかの嘲りを含ませて、わざとらしく皮肉を浴びせる。
「なんだと……?」
「考えてみたまえ。彼女が背後をとられたのは、君を守ることに意識を割いていたからだ。君がもっと強ければ、攻撃を受ける危険性もなく、彼女は背後から近づくルアンに気づけたかもしれない」
ゼクの頭に上っていた熱がさっと引いていく。一人で平気だと豪語しながらも攻めに転ずることすらかなわず、ロゼールのサポートがなければ戦況はより厳しいものになっていたことは否定できない。
「そもそも、トーナメントのときからそうだった。君はいつも独断で突っ走り、相手に足止めされて、その間に仲間が削られる。それでも勝てたのは仲間のお陰だ。<スターエース>戦では仲間がみんなやられて君一人しか残らなかったから負けたんだ。違うか?」
ラルカンの言葉ひとつひとつが、小さな棘となって心臓を刺してくる。
「君は、君が思っているほど強くはないんだよ。ゼカリヤ君」
抵抗する気力はそこで完全に崩されてしまった。ギラギラと殺意に煌めいていた赤い瞳は影に呑まれ、足元へ落ちていく。
「君のせいで仲間が死んでしまうなんて、あんまりじゃないか。……さあ、武器を捨てるんだ」
「……」
視線は足元に固定したまま、力が抜けるようにその手から大剣が滑り落ちる。ラルカンの勝ち誇ったような笑みが頬を裂く。
白刃が虚空を駆け抜ける。同時に黒い突風が戦士の太い首をかすめる。たちまちそこから血飛沫が噴き上がり、彼の巨躯が音を立てて地面に沈んだ。
血だまりが煉瓦造りの道に染み渡っていくのを確認し、ラルカンはもう用は済んだとばかりに自分のではないほうの剣を放り捨てた。
「団長殿。この女はいかがいたしましょう」
「とっておけ。そいつはまだ使い道がある」
ルアンはほとんど意識も薄れているロゼールから剣を引き抜く。咳きこむ彼女の傷口を布で軽く縛って、肩に担いだ。
「スレインを探そう。逃げた<ゼータ>の2人も警戒しておけ」
「は。あのような失態、二度と演じませぬ」
「そう気張るな。僕だって酒を盛られた。……行く前に、ひとついいか」
ラルカンは剣を握ったまま、倒れている部下たちのほうへ戻っていく。夜闇の中に細い刀身が不気味な光を放った。
「この役立たずどもは、処分しておこう。なに、<ゼータ>に罪を被せておけばいい」
蚊帳の外で呆けていた騎士たちは、一斉に青ざめた。逃げる隙も、命乞いをする暇もなく、黒い嵐が街の一角に吹き荒れた。
◇
気がつけば人の気配もまるで存在しない、川べりの橋の下に私たちは潜っていた。走りっぱなしだったスレインさんは橋の影の中で乱れた息を整えている。その間、私はマリオさんたちの状況を確認するために連絡を試みた。
すぐに応答が返ってきて、彼は淡々と説明してくれた。マリオさんとヤーラ君が騎士団の追手を足止めしていたが、ラルカンさんが来て追い詰められてしまったこと。その後、脱獄したゼクさんとロゼールさんが応援に来てくれたこと。
マリオさんは怪我を負い、ヤーラ君はその治療で体調を崩してしまったようだけど、ひとまず<ゼータ>はまだ無事だ。そのことに私は安堵するが、スレインさんはいまだに落ち着かない様子だった。立場上、どちらが負けても辛い運命は避けられないからだろう。
「大丈夫ですよ。ゼクさんとロゼールさんは強いし……ラルカンさんを殺してしまったりはしないはずです」
「……」
私の気休めの言葉では、スレインさんの苦悩を慰めることはできなかった。むしろ、何か別のことで心をすり減らしているように見える。
そのまま言葉が生まれることはなく、川面が揺れるかすかな音だけが時折耳にそっと触れた。眠りについたこの街は、もう目を覚まさないかのように思われた。いずれゼクさんかロゼールさんからすべてが終わったことを告げる報告が届いて、平和な朝を迎えられることを祈った。
にわかにペンダントが発光し、その周囲の闇を退ける。祈りが通じたのかもしれない、と一縷の望みをかけながら、私は応答した。
「どうしました?」
しかし、<伝水晶>は光を放ったまま何も言葉を伝えてくれなかった。嫌な予感が胸の奥をよぎる。
「……ゼクさんですか? ロゼールさん?」
呼びかけても、返ってくるのは無音ばかりだ。私がいぶかしんでいると、スレインさんが弾かれたように立ち上がった。その視線の先を追うと、黒い人影と手元に光る小さな星のような何かがある。
私が待ち望んでいた2人のうちどちらにも該当しない、すらりと背の高い短髪の男性のシルエット。
「こいつは便利だな。同じ石を持っている者なら、居場所もわかるというわけだ」
のん気に感心するような、それでいてその内には何の感動も起こっていないことがうかがえる平板な声。
「兄上……」
私たちは、いちどきに絶望の底へ叩き落されたのだ。
その闇にゆらめく真っ黒い人影の手元、煌々と光る小さな石。あれは――ロゼールさんがいつもつけていたピアスだ。じゃあ、ゼクさんとロゼールさんは――……?
「これの持ち主が気になるか?」
掲げたピアスの宝石の光が、残忍なまでに素朴な微笑みを浮かべた顔を照らす。じわじわと湧き出る恐ろしい想像が、私の内臓を全部凍りつかせてしまったような感覚。
「そう怯えるな。あのハーフエルフの女はまだ生きている。今こちらで保護しているところだ」
保護、とは要するに人質ということだ。どうして? 何があったの? ゼクさんは……?
恐怖と混乱が頭の中を渦巻いている最中、私を庇うようにスレインさんが前に出て、兄の前で膝をついた。
「兄上! すべての責任は私にあります。エステルは、<ゼータ>は関係ありません。どうか……」
「これだけお互いに血を流しておいて、無関係では済まされないな」
「それでも、償いはすべて私が……! どうかお願いします、兄上……」
スレインさんは額が地面につきそうになるほど必死に訴えている。そんな妹を見下ろす兄の目つきは壊れかけの玩具を見る子供のそれで、残酷な遊びを考えているみたいに口角を上げながら顎を撫でている。
「<ゼータ>ってのはすごいな。スレインにここまでのことを言わせるなんて」
私はその言葉を賞賛として受け取らなかった。どちらかといえば、もはや和解できる未来など永遠に来ないと確信しているような、敵愾心に近い。
軽い皮肉のあとでさらりと付け加えられたのは、あまりにも残酷な提案だった。
「今、ここで選んでもらおう。僕を取るか、<ゼータ>を取るか」




