#37 不死身の騎士⑥ 無償の愛
「見張りはぼくらがやっておくから」
そう言ってマリオさんはヤーラ君を連れて、通りのほうがよく見えるところの物陰に身をひそめる。行きがけに、ヤーラ君が「そろそろ在庫切れでしょう」とスレインさんにポーションの瓶をいくつか渡していた。スレインさんはばつが悪そうに受け取って、私と一緒に路地の奥へと足を踏み入れた。
月明かりも窓の灯も届かない建物の狭間で、かすかに見えるのはスレインさんの悲痛を押し殺そうとしている表情ばかりだ。
「私たちのために、いろいろ頑張ってくれてたんですよね。それを台無しにするようなことしちゃって、本当にすみません」
「いや……」
言うべき言葉をうまく見つけられないみたいに、消え入りそうな声がかろうじてこぼれ出た。伏せた目の光はいつになく弱々しくて、その横顔に残る生傷は見ているだけで苦しくなる。
「……。ロゼールに、怒られてしまうな」
「ロゼールさんは全部わかっているみたいでしたよ。ゼクさんは、牢屋を壊しかねないほど怒ってましたけど」
「ゼクが」
少し黒ずんだ口の端がわずかに上がって、控えめな笑みが漏れる。でもそれはすぐに消え去って、憂いを帯びた色に塗り替わる。
「……お兄さんのところに、戻りたいですか?」
思い切ってそう尋ねると、地面に吸い込まれそうになっていた目がはっと開いた。
「スレインさんが<ゼータ>を離れたいなら、それがスレインさんの望むことなら、私は受け入れます。どんな考えを持っていても、私は反対したりしませんから」
力のない瞳は夜空を仰いで、見えない月の光を探し求めるように、それでいて光などどこにもないことを悟って諦めているように、宙を漂っている。
「……君は、兄上が善人だと思うか?」
目は合わないままに、質問だけが投げかけられる。私に嘘なんてつけないので、正直に答えた。
「善人……では、ないと思います」
「そうだな。人を陥れ、力を欲し、一切の情もなく、正義を嘲笑う――白か黒かで言えば、あの人は真っ黒だ。それを白と偽って大勢に信じさせる能力があるものだから、手に負えない。兄上は、完全なる悪だ」
言葉に反して、非難している調子はまったく含まれていなかった。淡々と事実を描写したような言い方の後に、じわじわと感情が染み出していく。
「表向きの兄上を慕う者は多い。だが……本当の兄上を知っていて、それでも愛せる人間がどこにいる? 私しかいないんだ。血を分けた私しか……。そう思ったら、私はあの人の傍を離れられないんだ……」
ほとんど後ろに倒れるみたいに壁にもたれかかり、自嘲気味の吐息が漏れる。
「馬鹿みたいだろう? 誰に望まれているわけでもない、ただの自己満足だ。そんなもののために、私は自分の命だって懸けられるんだ。……馬鹿みたいだろう」
尻すぼみになっていく言葉の最後はわずかに震えていて、あとは悲壮感を色濃く含んだ吐息が聞こえるばかりだった。
夜の静けさが戻ってくる。余計なもののない澄み渡った静寂が、スレインさんの言葉を、感情を、自分の中に取り込む手助けをしてくれる。
夜の色に濁った瞳が、そっとこちらを覗き見る。なじってくれと言わんばかりの眼差しに、私は心からの笑顔を返した。
「私、スレインさんのことがもっと大好きになりました」
大きく開かれた目の中の瞳に、薄い光が差したように見えた。けれど、いまだ辛そうにひそめられた眉間のあたりに暗い影が巣食っている。その影はしだいに濃くなって、閉じられた瞼とともに闇に沈んでいく。
その目が再びカッと開いたと同時、私の両肩がしっかりと掴まれた。
「ここから逃げてくれ。どこか遠くに……。牢にいる2人はなんとか出られるようにする。追手がそっちに行かないよう尽力する。だから……」
必死の形相でまくしたてるスレインさんの手に、私はそっと自分の手を重ねた。
「私、本当はスレインさんと離れたくないです」
困らせてしまうのはわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。ここにいたら、スレインさんはいつか殺されてしまうかもしれない。それだけはどうしても嫌だった。
「……君は、君ってやつは、本当に――」
私たちの間を引き裂くように、胸のペンダントが光を発した。<伝水晶>を通して届けられたマリオさんの冷静な声音が、緊急事態を告げる。
『敵に見つかった。早くその場から離れて』
「その敵って、まさか――」
『装備からして近衛騎士団みたいだね。ただ、ラルカン・リードの姿は見えない。ぼくらはある程度時間を稼いでから離脱する。その間に逃げて』
「わ……わかりました。気をつけて!」
通信が切れると、咄嗟にスレインさんと目を合わせる。こうなってしまっては、四の五の言っている暇はない。
走りだそうとした矢先、私はスレインさんに抱き上げられた。自分で走るよりも遥かに速いスピードで、裏路地を脱して夜の街を駆け抜ける。まだ葛藤が渦巻いているであろう苦悶の横顔を目に映しながら、行くあても知れない逃避行が始まった。
◆
夜の通りを埋めつくさんばかりの甲冑の騎士たちを前に、マリオとヤーラはたった2人で彼らと対峙していた。事前にロキやアンナから近衛騎士団の話を聞いていた2人は、中央で厳格な顔つきをしている男が副団長のルアンであると瞬時に判断した。
「我らが団長殿に無礼を働き、妹君までかどわかしたのは貴様らだな」
その下に怒りが煮えたぎっているのがうかがえる、険のある顔つき。マリオは一切ひるむことなく、その威圧を受け流す。
「何のことかわからない。スレインがどうかしたの?」
「とぼけおって……! 貴様らを捕縛して拷問にかけてやっても構わんのだぞ!」
「近衛騎士団はこんな小さな子供にまで暴力的な脅し方をするのかい?」
「<ゼータ>のことはとうに調べてある。子供とて油断はできんとな……」
痺れを切らしたように、ルアンが剣を抜く。他の騎士たちも副団長に倣い、武器を手にした。
「下がってて」
「……はい」
ヤーラは緊張に張り詰めた面持ちでじりじりと後ずさりする。前線にたった一人残されたマリオに、騎士たちの目線が集中する。
「捕らえろ!!」
ルアンの号令で、騎士たちが一斉に標的に向かって駆け出す。
しかし、その標的が煙のようにふっと消え去ると、彼らの足は一度に止まる。
「上だ!!」
騎士たちが空を見上げると、月光を背負って飛んでいる糸使いの姿があった。そのまま建物の壁に着地したかと思えば、再び跳躍して通りの向かいにある別の建物に飛び移り、宙を跳ねまわって見る者を翻弄する。
空中を駆け回るさなかに身体をひとひねりすると、左腕の糸巻がギュンと唸りを上げる。同時に地面でうろたえていた騎士たちの何人かがその場で転倒し、引きずられ、放り投げられる。わけもわからぬ状況に集団の中にパニックの波紋が広がっていく。
「落ち着け、糸だ!! 奴は――」
ただならぬ気配を感じ取り、ルアンは言葉を切った。自分に向かってまっすぐ飛んでくるマリオの姿が見えたからだ。
「舐められたものだ……!」
迎撃の構えをとったルアンが剣で受け止めようとする直前、マリオの軌道が急転換して真横に逸れる。かわりに来たのは風に舞う砂塵のように吹っ飛ばされた仲間たち。
前方には、いつから、どこから湧き出たのかわからない――巨大な怪物。
後ろに控える小柄な少年が、その眼に金色の輝きを纏わせて名を呼んだ。
「アレクセイ!」
呼応するように突撃してきた怪物が、ルアンの身体をボールのように軽々と殴り飛ばした。




