#36 露に濡れる薔薇⑩ 崩壊の音
吹きすさぶ風と呪いのような声が薄暗い空の中で入り混じり、雪山の隠れ家を押し潰そうとしている。鬼と化した女の吊り上がった目は、真っすぐにロゼールさんを射抜いていた。
「……あらあら、オリーヴお嬢様。ノックもなしに人様の家に入るだなんて、失礼が過ぎますよ」
ロゼールさんが余裕と皮肉をたっぷりこめて火に油を注ぎ、私は気が気でなくなってしまう。
「ど、どうしてこんなところに? 逮捕されたはずですよね?」
「脱獄でもしたんでしょうかねぇ。どうやってここを突き止めたのか……尾行でもされたんでしょうか」
店長さんはのん気な調子ではあるが、きっちり貴重品をまとめて逃げる準備をしていた。
「ロゼール……あんただけは、絶対に許さないわ……!!」
「麗しいお顔が台無しですよ、オリーヴお嬢様」
「その『お嬢様』呼びをやめなさいって言ってるのよ!!」
「まあ。子供を子供扱いして何がいけないというのです? お嬢様」
舌戦ではロゼールさんが完全に優位で、オリーヴは今にも爆発しそうなほど顔を真っ赤にして震えている。
「こ、の、女ぁ……!!」
怒りが頂点に達したらしいオリーヴは、魔族の力を得た人たちがそうだったように、黒い霧のようなものを纏い始める。それは燃え盛る炎のように、全身から湧き上がっていった。
舞い上がった黒い火柱は、嵐となってその勢いのまま私たちのほうに襲いかかる。
呆然としていた私の肩がぐいっと引っ張られて、ロゼールさんのもとに引き寄せられる。彼女は大きな氷壁を出して、黒い嵐から私たちを守ってくれていた。
「エステルちゃんは私から離れないで。店長は勝手にどっか逃げてください」
私と店長さんへの扱いにだいぶ差があるが、店長さんは言われずとも勝手に避難を始めていて、ある意味彼への信頼から発せられた言葉なのかもしれない。
氷にぶつかった黒炎が飛び散っている間に、私はロゼールさんに誘導されて脇のほうへ回り込む。が、簡単に逃がしてくれるような相手ではない。衝撃で巻き上がった雪煙の奥から、蛇のような鋭い眼光がギラリと動く。そこから黒い稲妻が一瞬にして私たちのほうに伸びてくる。
ロゼールさんは咄嗟に私を背後に隠すようにして、突き出した右手から丸い氷の盾を張る。稲妻が透明な面にぶつかって弾ける――と同時に、一部がそのガラスを突き破ってロゼールさんの頬を掠めた。
「!」
彼女の細長い人差し指が傷をなぞると、指先に赤い筋が付着した。ロゼールさんの氷の盾がこうもあっさり破れるなんて……。
風が黒煙を攫って、魔族の力を手にした女の姿を鮮明にする。狐のような釣り目の下に、細長い三日月のような邪悪な笑み。
「ふ、ふふ。二目と見られない顔にしてあげるわ」
灰色の空に薄く陰った一面の雪の上、2人の女性が対峙する。オリーヴがワイングラスでも持ち上げるように右手を出すと、手のひらの上に黒い炎が灯る。炎が再び稲妻と化し、燐光を散らしながら一直線に走る。
ロゼールさんはすかさず氷の盾を出すが、今度は外側にカーブした形状になっており、黒い雷は軌道を逸らされて明後日の方向に飛んで行った。壊されるなら受け流せばいいと判断したのだろう。
ならばとオリーヴは黒炎を二手に分けて左右から攻め込む。ロゼールさんは盾を2つに増やし、軽く攻撃を流した。さらに三手、四手と分ければそのぶん盾を増やして対応し、炎の手が彼女に届くことはない。
そこで黒炎は1つの塊に戻り、大きな奔流となって襲いかかってくる。何手にも分けた薄い氷壁では容易く壊されてしまうだろう。
しかし、ロゼールさんは盾を出すでもなく、私をしっかり抱きかかえて――高く、跳んだ。
常人の跳躍力ではない跳び方で、大きなアーチを描きながら黒炎の波の外へ着地する。彼女は足元から小さな氷の台を突き出して、その勢いで跳んだのだった。
オリーヴが自分の技を外したと気づいた頃には、その肩にナイフのような氷塊が突き刺さっている。ロゼールさんが空中で抜かりなく放っていたものだった。
「くっ……!!」
オリーヴのこめかみに青筋が浮かぶ。いくら魔族の力があれど、技量の差は圧倒的だ。
「この、年増ぁ!! いつもいつも、わたくしの邪魔をして……!!」
醜い怨嗟の叫びに呼応するように、風が荒々しく吹きすさぶ。感情の昂ぶりはその声に乗せられ、その声量が増すごとに暴風はますます荒れ狂う。
「気持ち悪いんだよ、あんたら!! あんな死体に固執して!!」
ぴく、とロゼールさんの肩がわずかに動いた。子供を相手にするような余裕はその顔から消え失せて、しばらく表情のない表情がそこに凝固する。
「……死体を――」
おそろしいほどに静かで、しかし確かな輪郭を持った声が強風を刻む。
「愛していたんじゃ、ないわ」
辺りを吹き荒れていた風が、一斉にオリーヴのほうへ向きを変えて軍隊のように突撃していき、雪を根こそぎ噴き上げて猛烈な吹雪となる。
全身を殴りつけるような白雪の暴風を浴びたオリーヴはまともに立っていられなくなり、その場に膝をついた。頬や腕にこびりついた雪の白が広がっていく。
だが、それで諦めるオリーヴではなかった。膝をついて地面を掴んだ姿勢のまま、その背から巨大な黒い塊を生み出した。
ほとんど白に染まった顔から2つのどす黒い眼光が閃くと同時、黒炎は竜巻となって風に抗い、吹雪の中を貫いていく。風も負けじと竜巻を外側から削り、黒い閃光を散らせている。
2人の激しい感情を具現化したような吹雪と竜巻の競り合い。とうとう突風が竜巻を縦に裂き、黒い軌道が2つに割れて、1つは私たちの遥か後方に突き刺さった。
しかし、残るもう1つは執念が宿っていたのか、吹雪の中を暴れながらもロゼールさんのほうに伸びていき――彼女の胸の辺りで、稲光が砕け散った。
「ロゼールさん!!」
私は思わず叫んで、のけぞるように倒れそうになる彼女の背を受け止めた。胸元には痛々しい焦げ跡が焼きついて、口から一筋の血が流れている。
吹雪が弱まった。風の音にかわって甲高い笑い声が山中に響いた。
「あっはっはっは!! ざまぁないわ、ロゼール!! このまま顔もわからないくらい黒焦げにしてやる!!」
腕の重みがふと軽くなったかと思うと、ロゼールさんが私の肩を支えにしながらよろよろと立ち上がっていた。
「……顔、顔って。本当にあなたらしいわね」
「何?」
息をするのも苦しそうなロゼールさんだが、ほとんど瞼に覆われた深淵の色の瞳は、くっきりとオリーヴの姿を映している。
「外見だけ派手に飾って、周りの注目を集めていないと気が済まない。常に自分を肯定してくれる人間を傍に置いていないと不安でしょうがないのよね。だって、あなたって中身が空っぽなんだもの。外面だけせっせと取り繕っても、内面は空虚なまま。虚しい人間なのよ、あなたも」
「……」
オリーヴは怒りに震える瞳をロゼールさんに突き刺す。食いしばる歯からはその返答が出てくる気配はなく、ただ漏れ出す白い息だけがゆらめいていた。溢れ出る殺意は言葉ではなく、手元の黒い炎となって表出している。
次はきっと、さっきよりも強力な一撃が来る。身構える私に、一転して穏やかな色になった碧眼がそっと寄り添う。
「エステルちゃん。私から離れないでね」
崩壊の足音は、背後から迫ってきた。
視界の端から端までを優に超える一面の白が、津波のように押し寄せてくる。さっきオリーヴが外した一撃が、雪崩を引き起こしたのだ。荒れ狂う雪はここにいる全員を丸ごと飲み込もうとしている。
まさに目の前に差し迫った雪崩に私は身構えたが、言われた通りロゼールさんの傍を離れなかった。
迫りくる雪の壁は、私たちの手前で綺麗に二手に分かれた。透明な氷の壁が、私たちを守ってくれたのだ。
分かれた雪の波は再び合流してひとつに戻り、斜面の下のほうにいるオリーヴのもとへ突き進んでいく。なすすべなく呆然と立ち尽くしている彼女を、ロゼールさんが冷やかに見下ろした。
「自らの行いで自らの破滅を招くだなんて、本当にあなたらしいわね」
「……ロゼ――」
ぐしゃりと歪んだ顔から恨みの声が発せられる前に、すべてを雪が覆い隠してしまう。雪崩の勢いはしばらく止まらず、生命線ともいえる氷壁から出ないよう、私はじっとロゼールさんにしがみついたまま耐えていた。
「私の氷は100年は解けないわよ」
山が静まって雪煙が消え去るまで、ロゼールさんはずっと私の肩を包み込むように支えてくれていた。




