#36 露に濡れる薔薇⑦ 美しき罠
巨大なシャンデリアに照らされた、宮殿の中でも一段と豪華な一室で、トマスとその仲間たちは部屋の華やかさと対照するような神妙な面持ちを互いに突き合わせていた。というのも、彼らはこれから魔族の手先とも呼べる人物を迎え入れなければならないからだ。
エステルからロゼールの計画を伝えられたトマスの行動は早かった。魔族の息がかかっているというオリーヴ・ド・プレヴェールを帝都に招くために、縁談という強力なカードをためらいなく切ったのだ。
「もう一度、作戦のおさらいをする」
トマスは真摯な目つきで仲間たちに告げる。
この場にいるのは、ミア、ノエリア、シグルドの3人だ。ヘルミーナは協会の診療所に行っており、ロキはいつも通り不在だった。それでも戦力としては申し分ない。
「初めはお互いの話をして普通にそれらしく見合いを進める。途中で俺がオリーヴの額の痣に気づく。それは協会の報告書で見た魔族の協力者の証だと問い詰めるから、お前たちは奴が尻尾を出した瞬間にとっ捕まえてくれ」
「りょーかい! シッポつかまえるのはおとーさんで練習してるからトクイだよ!」
ミアはしっぽをピンと立てながら敬礼の真似をした。ノエリアはそんなミアを微笑ましげに撫でてやる。
「あちらにはお姉様もいらっしゃるのでしょう? わたくしたちの出番がなくなってしまうのではないかしら」
「だとしても、数が多いに越したことはない」
「お姉様を召使いにするなんて身の程知らずも甚だしいですけれど……それはそれとして、お姉様の給仕姿を見られるチャンスですわ!!」
そっちが本音なんじゃないかとトマスは勘繰りたくなったが、興奮しているノエリアには何を言っても無駄だと諦めた。のん気な女子2人の傍ら、シグルドは難しい顔で腕を組んでいる。
「心配するな。うまくやるさ」
トマスがそう声をかけても、シグルドの表情は変わらなかった。
オリーヴ・ド・プレヴェールは派手好きだという噂通り、派手なドレスを纏い、馬車まで派手に装飾し、帝都に住む人々の目を引くだけ引いて、優雅な足取りで宮殿を訪れた。彼女は豪奢に仕立てられた宮殿の中でも何より華々しく存在感を放っていた。
その使用人たちは恰好こそ一般的なメイドのそれだが、規律正しい軍人のように息の合った所作で徹底して主人を立てていた。もちろん、その中にはロゼールの姿もあった。
「本日はお招きいただき、感謝申し上げます。トマス皇太子殿下」
淑やかに礼をするオリーヴだが、その眼のうちには何か邪なものが潜んでいることをトマスたちに予感させた。
「そう畏まらなくてもいい。楽にしてくれ」
トマスは彼の武器でもある大らかな親しみやすさを発揮し、ひとまずこの場の主導権を握る。ソファに座った2人はそれぞれ表面上の笑顔を向け合った。
「急な話を持ち込んでしまって悪かったな。そちらも忙しいだろうに」
「いえ、滅相もございません。皇太子殿下から直々にご縁談を持ち掛けてくださるなんて、この上ない喜びでございますわ。どうしてわたくしのような若輩の地方領主なぞを?」
「知ってると思うが、俺は<勇者協会>の勇者でもある。そこにいるロゼールにも世話になってな。彼女から君のことを聞いたんだ。その歳で家を継いで頑張ってるってな」
名指しされたロゼールは小さく会釈をするだけで、他の使用人に溶け込んでいる。
「まあ、そんな……至らないことばかりで。お恥ずかしい限りです」
オリーヴは白い手で口元を隠しながら、照れたように笑っている。トマスはその仕草をじっと観察し、なるほどその気品は貴族としても申し分ないと評価した。容貌の美しさも相まって、外からの印象だけなら皇太子妃としても何ら遜色ないように思われた。
トマスは宮殿勤めの使用人を使わず、今回はノエリアにお茶を淹れさせた。育ちのいい彼女はそつなく2人分の紅茶を用意してくれた。密かに横目でロゼールの姿をちらちらと確認しながら、だが。
「あなた、ティヘリナ卿のお嬢さんでしょう? 剣と魔術の両方の才能に恵まれてらっしゃるとか」
「あら、わたくしのことをご存じでしたの。才能だなんて、わたくしなどまだまだ未熟ですわ」
ノエリアに挨拶程度の愛想をふりまいたオリーヴは、トマスの後ろに控えている2人に目を転じた。
「そちらの小さい猫のお嬢さんが帝国軍の将軍閣下の娘さんで、隣の殿方はハイエルフの国の軍人さんでいらっしゃると伺っております。それから……ここへはいらしていないようですが、メランヒトン卿のお嬢さんと、ダークエルフの殿方もいらっしゃると」
ミアはいつもこういうときは自分の名前が出たことを無邪気に喜ぶのだが、今はしっぽをぱたぱた動かしてじっとオリーヴを見ている。シグルドも静かに腕を組んで控えているが、ロキのことに触れられた瞬間に眉をぴくりと動かした。
仲間たちが警戒感を保っている一方、トマスは素直にオリーヴの準備の良さに感心する。
「俺の仲間を知ってるのか。ずいぶん詳しいな」
「皇太子殿下にお目見えするのですから、そのお傍にいらっしゃる方々のことも知っておかなければと思いまして……。実際にお会いしてみますと、皇太子殿下のお仲間としてふさわしい方々ばかりですわね」
社交辞令に過ぎぬ言葉の羅列にちがいないのだが、なぜだかオリーヴの言い方からはとってつけたような媚びやへつらいは見受けられず、むしろ心地のいい気分にさえさせられる何かがあった。
「もちろん、トマス殿下のお身内の方々も……特にカタリナ皇女殿下などは、お優しく純粋で民衆から愛される素晴らしいお方だと伺っております」
その名が出た瞬間、ノエリアとシグルドはぐっと身構えた。この男に、溺愛する妹の話を振られるのは非常にまずい。
「そう……そうなんだよ! カタリナは本当にやさしくて心が綺麗で、この間なんて――」
トマスは子供のようにキラキラ顔を輝かせて妹の話を滔々と語り出し、ノエリアとシグルドは頭を抱えたくなるのを堪えねばならなかった。ミアは来るべき戦いの時がなかなか訪れないのを不思議がって小首をかしげている。
さすがのトマスも本来の目的を忘れることはないだろうが、にこやかに話を聞いているオリーヴに隙を与えるのは得策ではない。背後で控えているロゼールが、かすかに表情を歪めた。
「それで、そのときカタリナが言ったのが――……あ、悪い」
自分一人で盛り上がっていたことにようやく気づいたトマスは短く謝罪し、オリーヴはクスクスと愉快そうに笑ってそれを受け止める。
「お気になさらず。トマス殿下がカタリナ皇女殿下を可愛がっていらっしゃるのが伝わって、わたくしも心が安らぐ気がいたします」
「そ、そうか」
トマスは自身の失態を恥じ、ばつが悪そうにやや紅潮した頬を掻く。後ろで仲間たちが呆れている気配がじっとりと背中に貼りついた。早く本来の目的を果たさねばと焦るほど、かえって顔の熱が高まっていく。
ひとまずオリーヴの額の痣を確認しようとして、その艶のある水晶のような瞳に吸い寄せられた。
「それに――もしわたくしが殿下と結ばれたあかつきには、わたくしの妹になられる方ですものね」
長い睫毛に覆われて細められた両の眼は可憐な光を放ち、はにかんだように綻ぶ口元はすぐさま白魚のような指に覆われる。その姿は絵画や彫刻のモチーフにでもなりそうな、美しい気品が溢れているように映った。
気がつくと、トマスは立ち上がっていた。思考を差し挟む余地もなく、言葉が勝手に口から滑り出た。
「俺と結婚してくれないか」
凍りつくような沈黙が、この空間を閉ざす。
信じがたい光景を前にしたノエリアたちは、雷に打たれて停止してしまったかのように呆然と立ちすくんでいた。しばらくして正気に戻ったトマスは自分が口走った言葉に理解が追いつかず、内心余裕を保っていたオリーヴがすかさず切り込んだ。
「まあ! 皇太子殿下自ら婚姻の申し込みをしてくださるなんて、身に余る光栄ですわ! このオリーヴ、謹んでお受けいたします」
こうなってはもう取り返しがつかない。オリーヴは密かにほくそ笑み、トマスは青ざめたままその場から動けなかった。




