#36 露に濡れる薔薇⑥ 灰色の夜空
いよいよオリーヴが帝都に発つ日が明日に迫ってきた。オリーヴは皇子を射止めるために入念かつ周到に準備を重ねており、今はドレスルームで衣装のチェックを行っていた。
肩のあたりを広く露出したビスチェタイプのトップス、ボリュームたっぷりのプリンセスラインには何層ものフリルが折り重なっている。紫を基調とした生地に色とりどりの花が咲き乱れ、あの煌びやかな花園をそのまま写し取ったような、なんとも豪華なドレスだった。
白い肌を飾るアクセサリーも宝石をちりばめたような豪奢な品ばかりで、この見ているだけで眩暈を起こしそうな満艦飾と見合いをしなければならないトマス皇子に、ロゼールはいささかの同情の念が湧いた。
「どうかしら?」
化粧気たっぷりの顔で、オリーヴは使用人たちに意見を求める。
「とてもよくお似合いですわ」
「皇太子殿下もきっと喜ばれます」
この数日の観察で、ロゼールは屋敷の使用人は3つに大別されると気がついた。
1つはオリーヴに忠誠を誓う信奉者たちで、当然オリーヴは彼女たちを常に傍に置いている。もう1つはオリーヴの魔術で従っている、主体性の薄い操り人形たち。そして最後に、表面上当主に従っているだけの比較的古参の者たち。数は少なく、当主からも冷遇されている。
オリーヴは帝都に行くのにも信奉者たちで周りを固める心づもりのようで、立場上同行するロゼールに実質味方はいないことになる。それは承知の上だったが、その間の留守を任せるのもオリーヴが最も信頼している使用人になるようだ。
「ロゼール」
「はい。とてもお綺麗でございますよ」
「そうではなくて。最近よく妹と話しているらしいじゃない?」
顎を突き出して見下すような態度を前面に出しながら、オリーヴは問いただす。
「ええ。あの狭いお部屋に籠っていらっしゃるのが、どうも不憫に思えてしまって」
「仕方ないわ、あの子は外に出たがらないんだもの。……何を企んでいるのか知らないけれど、あの子がわたくしに刃向かうなんてことは万に一つもありえないわ。下手な期待をしないことね」
「……おっしゃっている意味がわかりませんが……先ほども申し上げた通り、ルネ様の身の上を想ってのことでございます」
上辺だけのごまかしと判断したか、オリーヴはフンと鼻を鳴らして背を向けた。
「ともかく、あの子をたぶらかさないでちょうだい」
横目で釘を刺したオリーヴは、それきりロゼールと顔を合わせることはなかった。
◆
その日の夜、ロゼールは主人の言いつけを完全に無視して、ルネを中庭に連れ出すという大胆な行動に打って出た。当然ルネは渋っていたものの、オリーヴは明日に備えてもう寝たからとか、今なら誰もいないからとか、ロゼールが説得に説得を重ねて強引に引っ張りだした形になる。
長年あの狭い部屋に閉じ込められていたせいか、ルネは少し歩いただけでもう疲労の色が見え始めた。
「少し休まれますか?」
「……」
返答こそないものの、まだ歩きたそうな様子だった。久しぶりの外出をもう少し味わっておきたいのかもしれない。
ロゼールは指先に魔法で火を灯し、小さな明かりを作る。ゆっくりと歩きながら花を一つ一つ照らし、花の名前や特徴などを説明して聞かせた。
「……ああ、ここは――以前お話ししましたね。奥様と一緒に草むしりをしたところです。あのときは日差しが強くて、終わるころには2人とも汗びっしょりになってしまって……その後、ご入浴をお供させていただきました」
時折そんな昔話を挟んでは、思い出に浸ることもあった。ルネは黙って聞いていたが、しばらくすると何か訴えるような視線を送ってくるようになった。月明りの下、小さな火に照らされたロゼールの顔に薄い笑みが浮かぶ。
「前に……私がオリーヴ様をどうするつもりなのかと、お尋ねされたことがありましたね」
「……」
「答えは変わりません。私はあれを退けるつもりでいますが、ルネ様に特別何かご協力をお願いするつもりもありません。かといって、ルネ様に不利益が及ぶようなこともしないとお約束いたします」
「じゃあ、どうして――」
反射的に漏れ出た声に、ルネは自分で驚いているようだった。その戸惑いも含めて、ロゼールは穏やかに受け止める。
「あなたが、昔の私に似ていたからです」
「……」
「すべてはただの自己満足にございます。ルネ様は何もお気になさらないでください。ただ――もしお許しくださるのなら、私の罪の告白をここでお聞きいただいても構いませんでしょうか」
ルネは間をおいて、こくりと小さく頷いた。ロゼールはゆっくりと灰色に濁った夜空を仰ぎ、遠い記憶を呼び覚ます。
「奥様は……ご病気で亡くなられたと申しましたね。当時は治療法も確立されていない病で、旦那様も手を尽くされましたが、病状が良くなることはなく……むしろ日に日に悪化していくのを、黙って見ていることしかできませんでした」
そのときの悲しみや無念さがありありと蘇り、夜空を映す碧眼が足元の花壇に下りていく。
「美しいお顔はお気の毒なほど痩せこけて、重くなっていく症状に苦しまれているご様子は、見ているだけでも耐えがたいものでした。特にお傍で見守っていらっしゃった旦那様の心中は、察するに余りあるというもの。それで……とうとう、旦那様はあるご決断をなされたのです」
ロゼールはしゃがみこんで、足元に咲いている花を指でそっと撫でた。
「……ご存じですか? この庭の花は見た目の綺麗なものが選ばれているのですが、中には毒を持つものもございます。この花などもそうで、これは当時も植えられていたものです」
ルネは少し不思議そうな顔を見せたが、すぐにロゼールの言わんとしていることを察したらしかった。
「その日は――奥様のお食事をお持ちするのを、料理長ではなく旦那様から直接言いつけられました。私はすべてを理解して、奥様の寝室へ向かいました。……奥様も、悟っておられました。そんな奥様のお顔を見ていたら……私は、そのお食事をお出しすることができなくなってしまったのです」
――どうしたの、ロゼール。私はもうお腹がすいてしょうがないわ。早くそれをちょうだいな。
病に侵されて食欲もなかったはずの奥方は、ほとんど枯れ切ったような声でそう促した。ロゼールはいよいよ手が震えて、食膳を手放すことができなくなってしまった。
『あなたもそんな顔するようになったのねぇ。私は本当に幸せ者だわ。あなたに最期を看取ってもらえたなら、これ以上思い残すことはないわね』
もしここでロゼールが膳を下げたところで、別の人間がまた同じものを持ってくるだけだ。それならば、その役目が務まるのはロゼールしかいない、と――奥方は暗にそう示していた。
ならばと覚悟を決めて、ロゼールは普段の所作からは考えられないほどぎこちない手つきで食膳を置いた。震えた手はうまく離れず、カタカタと食器が揺れる音がしばらく続いた。
『それなら――』
ロゼールは乱れた呼吸を押し切るように吐き出した。
『それなら、どうか私もご一緒に……』
『なりません』
奥方はピシャリと打つように強い声を発した。明確な怒りをぶつけられたロゼールは、その先を言うことができなかった。それから一転、奥方は穏やかに息をついて、ロゼールの手をそっと握った。
『愛しているわ、ロゼール』
それが、最後の言葉になった。私もです――という言葉は、溢れる涙にかき消されて声にならなかった。
花園の土に、数滴の涙が染み込む。ロゼールは屈んだまま、金色の長髪を月光に晒していた。ルネは一言も発することなく、月に淡く照らされるその姿を凝視していた。
やがてロゼールは、その姿勢のまま話の続きを語り出した。ただ淡々と事実だけを並べていくように、奥方がどのように死に至ったかをつまびらかに伝えた。
語り終える頃には、ルネはロゼールがこの話をしたもう1つの意図に気づき始めていた。




