#36 露に濡れる薔薇⑤ Under the Rose
古い価値観の残るこの土地では、女性が家を継ぐということに対して抵抗感を持つ領民も多く、オリーヴもいずれ領主にふさわしい夫を迎えるだろうという期待が厚かった。だが、並みの家柄相手では彼女のプライドが許さず、良縁に恵まれずにいた。
そこに飛び込んできたのが、一国の皇太子との縁談であった。オリーヴにとっては願ってもない好機だが、同時にそれを持ち掛けたロゼールを無下に扱うことはできなくなる。
ひとまずロゼールは仕事量の削減と魔術の使用を認めさせ、屋敷内を自由に動き回れるようになった。いまだ疑念を抱いているオリーヴだが、見合いの準備もあって四六時中ロゼールを監視しているわけにもいかなくなった。
これ幸いにと、ロゼールはいつも通りさっさと仕事を済ませて当主の妹を探すことにした。一通り探索を済ませていたので、だいたいの当たりはつけていた。そこは、ロゼールにとっても思い出深い場所だった。
屋敷の東側にある尖塔の最上階。中庭の花園がよく見渡せる場所で、ロゼールが敬愛していた奥方が最期の時を過ごし、その亡骸が安置されていた部屋。
古びた扉を2回ノックする。返事はない。声をかけてみるが、中に誰もいないのかと思われるほど静かだった。鍵がかかっていたので、ロゼールは氷魔術で鍵を作り出し、ドアを開けた。
中は無人ではなかった。
薄暗く埃っぽい部屋の中央にあるくたびれたベッドの上に、10代半ばほどの少女が座っている。腰まで届くつややかな長髪に、オリーヴとよく似た美しい顔立ち。しかしその表情は、生きている人間とは思えないほど虚ろだった。
この少女がオリーヴの妹であることは疑いようがなかった。軟禁されているという推測もほぼ正解だろう。しかし、ロゼールは何か強烈な違和感を覚えた。こういうときの勘は当たるものだと彼女はこれまでの経験から自負している。
「突然お邪魔してしまって申し訳ありません。私、新しくこのお屋敷にお勤めすることになったロゼールと申します」
ひとまず挨拶をしてみたものの、反応は皆無で視線すら動かない。
「実は以前もここに勤めていたことがあったもので、懐かしくてここに立ち寄った次第でございます。中にいらっしゃるとは知らず……非礼をお詫びいたします」
丁重に頭を下げても、少女は微動だにしない。ロゼールの姿など見えていないかのように。
仕方がないわね、とロゼールは繕った表情を外す。そうして少女の耳もとにそっと手を添え、吐息がかかりそうなほど顔を近づけて――あることを、囁いた。
「……!」
陶器のようだった少女の顔に、驚愕の表情が灯る。震える瞳がおずおずと動き、錆びたブリキのようなぎこちない動きで首を捻った。
「ようやく振り向いてくださいましたね」
「……。あ、なた、は……?」
長い間人と喋ることがなかったのだろう、少女の声は消え入りそうに掠れている。
「古くからの使用人のロゼールと申します。失礼ながら、お名前を伺っても?」
「……ルネ」
「ルネ様。驚かせてしまって申し訳ありません。これだけはどうか信じていただきたいのですが……私は、あなたの味方です」
自分を脅かすかもしれない外界の空気に突如晒されたその少女に、ロゼールの言葉がどれほど浸透したのかは未知数だった。しかし、拒絶されているわけではないことは彼女の慧眼が正確に読み取った。
「またここに参ります」
次への約束だけを残して、ロゼールはその部屋を後にした。
◆
この日のロゼールの朝は、キッチンの手伝いから始まった。といっても、やることといえば炎魔術で鍋の火加減を調整したり、洗い物を水魔術でさっと綺麗にしたりするだけだ。
「お嬢さん、こっちのお鍋の火をもう少し弱めてくれるかしら」
ここの料理長は80歳近い老婆で、実はロゼールとは古くから面識があるはずなのだが、歳のせいかボケてしまったらしく、屋敷にいる女性をオリーヴ含めて全員「お嬢さん」と呼んでいる。ただし料理の腕は一品で衰えることを知らず、いまだこのキッチンを切り盛りしているとのことだった。
「スープはこれでいいわね。あとはパンとサラダと……」
「オムレツですね」
「そうだったかしら。……そうだったわね、火をお願い」
年老いた料理長はそう言って手早く卵を割り、シャカシャカとかき混ぜる。そしてロゼールが温めてバターを溶かしておいたフライパンに卵を放り込むと、細かくかき回しながら形を整え、くるりと空中で一回転させてあっという間に仕上げてしまった。手際の良さは相変わらずだ。
「さぁて、後は……。あら? これは誰のお食事だったかしら」
「こちらは私が持っていきますから、朝の仕事はこれで終わりですよ」
「あらぁ、そうなの」
理解しているのかいないのか、老婆はゆっくりとエプロンを外す。そうしてロゼールに「ご苦労様」とにこにこ笑いながら労いの言葉をかけ、厨房からのそのそと出ていった。
ロゼールは出来上がった料理をトレーに乗せ、あるところへ向かう。東側の尖塔の最上階――当主の唯一の血縁者が軟禁されている場所。
「ルネ様。お食事をお持ち致しました」
庇のような長い睫毛がふるりと揺れて、窓外に向いていた薄い瞳が声のほうに移る。表情はほとんど動いていないが、ここ数日でわずかながら外界への関心が芽生えてきたと見える。
言葉を発することはないが、視線はずっとトレーの上に注がれている。おかずが一品増えていることに気づいたらしい。
「料理長がサービスしてくださったみたいですね」
ロゼールは何食わぬ顔で言い添えて、貴族にしてはまだ粗末な食事をテーブルの上に並べる。ルネは文句ひとつ言わず、食べ物を機械的に口に運ぶ作業を始める。
ロゼールはルネと出会った翌日から食事を運ぶ係を申し出て、日に3度この部屋を訪れては少し話をしていくというのを習慣にしていた。話すのはもっぱら世話になった5代前の当主夫妻のことだ。
当初はただ聞き流している様子だったルネも、今はじっくり耳を傾けるようになった。元々この部屋には狭いながらも立派な書棚があり、軟禁生活中に読書で退屈を紛らわせていたのだろう。一方的に話を聞くことにも抵抗はなさそうだった。
「今日は……そうですね。先ほどもご覧になっていたようですが、その窓から中庭が見えますでしょう? 昔は一面バラの花が咲き乱れていて、奥様もたいそう気に入ってらしたのですが……」
窓を開けて、変わり果てた花園を見下ろしながらロゼールは淡々と言葉を紡ぐ。
屋敷に来た当初は名前のない奴隷だったこと。にもかかわらず、奥方が中庭に散歩に連れ出してくれたこと。好きな花や夫との思い出なんかを話してくれたこと。それに対して、自分は不愛想に相づちを打つばかりだったこと。
「ふいに奥様がお話をやめて、咲いているバラの花を摘み取りました。それから花を編みこんで冠のような形になさったのを、私の頭に被せてこうおっしゃいました。『今日からあなたの名前はロゼールよ』と」
――姓が必要なら「ロゼール・プレヴェール」とでも名乗っておきなさい。
そんなぞんざいな調子で、奥方は自分の家名を奴隷の少女に与えたのだった。
「それまでずっと番号で呼ばれておりましたから、意味のある名をいただいたことが、なんと申しましょうか……一筋の光が差したような、初めて空を見たような、そんな心持ちがいたしました」
置物のような無表情を貼りつけていたルネが、ぴくりとかすかな反応を示した。
「あのときはどうして奥様が私なぞを気にかけてくださるのか不思議でしたけれど……今なら少し、わかる気がします」
ロゼールは慈しむような眼差しをルネに注ぐ。それからもう一度中庭に目を転じ、物憂げに息をついた。
「……あの頃の景色は、もう見る影もなくなってしまいましたけれど」
コトン、と空になった皿に食器を置く音が静かな室内に響く。それが2人の時間の終わりを告げる合図だった。
だが、その日はそれで終わらなかった。
「ロゼールは、姉様をどうするつもりなの?」
唐突に投げつけられた疑問に、ロゼールはやや驚きつつも振り返る。
自由を奪われ、絶望を通り越して諦念に至ってしまったこの幼い子供は、しかし愚鈍ではなかった。ロゼールの企みをある程度察していないと出てこない質問だった。
その件に関しては、ロゼールは一切の虚偽もごまかしも言うつもりがなかった。




