#34 雪原のアルケミスト⑫ 星が届くように
私の思考と、全身の細胞の活動が、そのときだけピタリと停止したような気がした。
「…………え?」
かろうじて絞り出せた声がそれだけだった。聞き間違いではない。冗談でもない。それだけは絶対ありえない。
要するに本気だということで……待って待って待って。なんで私なんか……とか思ったら失礼だって。え、いつから? だいぶ前からだとしたら、私けっこう悪いことしちゃってたかも? どうしよう、顔がめちゃくちゃ熱くなってきた。
テンパる私を前にして、ヤーラ君はのん気にもくつくつと肩を震わせている。
「エステルさん、ほら」
そう促されて、最初にお願いされたことを思い出した。断ってほしいって、そういうこと……? こんなに難しいお願い事をされるとは思ってもみなかった。でも、ちゃんと応えないと。
「ええっと……その、気持ちはすごく嬉しいんだけど……」
本当は受け入れてあげたかった。でも、それはできない。私には他の仲間もいて、全員が大切で、誰か一人を選ぶなんてできないのだ。そんなことはヤーラ君もわかっているから、断るように言ったんだ。
「……ごめんね」
心の底から申し訳なさがこみ上げてきて、それをそのまま口に出して謝った。ヤーラ君は口元だけは満足そうに笑って、でも下がり気味の眉はどこか切なさを湛えている。
「こちらこそ、僕のわがままに付き合わせてしまってすみません」
「……ヤーラ君のほうが大人だよねぇ」
「そうですか? 年上の女の人が好きっていうのはコドモっぽく見えるらしいですけど」
「あー……でも、ヤーラ君はもう少しコドモっぽいほうがいいと思うよ」
そう言うと、ヤーラ君はちょっといたずらっぽい半眼を覗かせてきた。
「じゃあ、今から悪いことしていいですか?」
「こ、今度はなに?」
「そんな身構えないでくださいよ。家に帰るだけです」
「家って……レオニードさんのところ?」
「そうですね。それで、朝帰りします」
なるほど、ピンときた。レオニードさんたちは戦いから戻ったばかりで、今頃酒盛りでもしているところだろう。
「エステルさんは、怒られちゃうかもしれませんけど……」
「全然いいよ。いってらっしゃい」
「ありがとうございます」
悪いことをすると言うわりには丁寧なお礼を述べて、ヤーラ君は自分の家の方向へ歩いていった。その背中に声をかけようと思ったけれど、やめておいた。
夜風が私の髪をさらって、星の煌めく空へ舞い上がっていく。私はさっき飲み込んだ言葉をその風に託すように手のひらをかざした。
この思いが、あの大きな星に届きますように。
◆
家に近づくにつれて、夜闇に漏れ出る明かりと喧騒が際立っていく。この時間ならまだ2、3杯程度のやや出来上がってきた状態で、それほど悲惨なことにはなっていないはずだ。
ドアを少し開けただけで、隙間から馬鹿笑いの爆風が耳に吹き込んでくる。その爆心地に足を踏み入れると、その賑わいがピタリと収まる。
「んお……え? ヤーラ!」
ほんのり顔を赤くしていたレオニードが跳ねるように立ち上がり、突然帰ってきた弟分の肩を叩く。
「なんだよお前、牢屋にぶち込まれたんじゃなかったのか!?」
「も、も、もしかしてあれかぁ!? ユーレイ!?」
「死んでないわよ~。脱獄したとかかしら?」
動揺するゲンナジーも煙管をふかすラムラも好き放題言っていて、ヤーラはここに戻ってきたという実感に包まれる。
「死んでもないし脱獄もしてません。クエストのときだけ出られるんです」
「なんだ仕事帰りか。ちょうどいいや、付き合えよ。なんなら永遠に向こうに帰らなくてもいいぜ」
レオニードは気分よく自分の席に戻ろうとするが、ヤーラがその場から動こうとしないので、怪訝そうに振り返った。
「おん? どした」
どこか元気がなさそうにうつむいていたヤーラは、ゆっくりと顔を上げて、困ったように垂れ下がった眉とはにかみ笑顔を見せた。
「……失恋、しちゃったんで、慰めてくれませんか」
ピシリ、と3人は目を丸めて石のように硬直する。一瞬の間があって石化が解除されると、男2人はテーブルの上に散乱したジョッキや瓶や皿を乱雑にどかし、ラムラは煙管の灰をトンと落として飲み物を用意する。
「まあそう落ち込むな、おめぇはよくやったよ」
「そうかぁ~~、辛ぇよなぁ~~。うおおぉん……」
「まだ何も言ってないんですけど」
「だいたい想像つくけどね~」
こういうときに限って男らしい寛大さを見せるレオニードがウンウンと共感を示しながら労い、涙腺の狂ったゲンナジーは滝のような涙で床をびしょびしょに濡らし、ラムラは普段通りマイペースに構えつつもさりげなく気遣いを見せるといった具合に、ヤーラの慰労会はつつがなく進行していった。
ただし、彼らに限ってそこに酒を伴わないということがあるはずもなく、さらには通常ストッパー役となるヤーラが本日の主役であるためほぼ機能せず、歯止めの利かなくなった飲み会はいつも以上の出来上がりとなった。
「そいでェ? お兄さん、そのときエステルちゃんは、なんて!?」
「『なんて』っていうか……しばらく呆然と固まってましたよ。顔、真っ赤にして」
『キャア~~~~ッ!!』
成人男性2人の野太い悲鳴がこだまする。
「そりゃぁおめぇ、かっ、かっ、可愛かったんだろうなぁ!?」
「そんなの……当たり前じゃないですか」
『ギャア~~~~ッ!!』
男2人が喚き散らす地獄絵図を阻止するはずの少年もまた、眠いのか雰囲気に当てられてか、はたまた飲み物にアルコールが混入していたかで、やや紅潮した頬をふにゃふにゃと緩めている。
「まあ……さすがに申し訳なかったんで、先に断ってくれって言いましたけど」
「あら~。そういう気遣いができる人って素敵よ~」
「それでもすっごい断りづらそうにしてましたよ……エステルさん、優しいから」
「ワカル! ワカルぞー、少年! あの子はマジで、天使のように優しい……! そして笑顔がキュート……!」
「ちょっと抜けてるとこも可愛いよなぁ~。守ってあげたくなるぜぇ……」
「そうですね……あと……」
ヤーラは眠そうに薄く開いた目を床に落としたまま、寝言のように呟く。
「あと……いい匂いがします……」
その一言は、モテない男たち2人に電流を走らせた。うとうと揺れるヤーラの薄い肩をレオニードががっしりと固定する。
「どッッッ……どういうことだテメェコラァ!!?」
「酢酸エチルとかラクトン化合物みたいな匂い……」
「そういうことじゃねぇーッ!!」
「うおぉ、なんにもわかんねぇ……お、お、お、女の子の、に、に、におい……?」
レオニードが鬼気迫った表情で肩を揺するが、もうほとんど寝落ちしているヤーラは無抵抗に首をがくんがくん前後させるばかりで、その後ろではゲンナジーが顔を真っ赤にしながら一人でパニクっており、ラムラは我関せずと2本目のビールを開けた。
結局ヤーラはそのままソファに沈んで安らかな寝息を立て、ついでに酔いつぶれたゲンナジーの怪獣みたいないびきと一緒にちぐはぐなハーモニーを奏でていた。
「ったくよー、気分よく眠りこけやがって。むかつくガキだぜ」
「い~じゃない、元気そうで。……覚えてる? 最初の頃なんて、あんたが酒瓶取り出しただけでびくびく怯えてたじゃない」
「……忘れるわけねぇよ」
ここに来た当初のヤーラは、今より小さい身体が消え入りそうなくらい縮こまっていた。まるで、自分だけ助かってしまったという罪悪感に圧迫されていたかのように。
「寝室まで運んであげたら?」
「……しゃーねぇ、お子様の世話してやるかぁ」
「いつも酔い潰れたあんたの世話してるお子様でしょ~?」
「っせーな」
ヤーラを背負ったレオニードはしぶしぶ階段を上って寝室に向かう。背中に感じる体重は想像よりも重く、小柄なその身体を白いベッドに横たえた。
「……あり……がとう、ございます」
目は閉じたまま半分とろけたような声で、ヤーラは呟く。
「ンだよ、今日はお前が――」
「あのとき……助けてくれて、本当に……」
虚を突かれたレオニードは一気に酔いの吹っ飛んだ眼でヤーラを見下ろした。ほとんど眠りの中にいるのは間違いないが、その言葉は寝ぼけて言ったわけではないことだけは確かだった。
「……お前、ちょっとでっかくなったんじゃねぇの」
感覚の残っている左手で、少年の髪の毛を無造作にかき回す。窓の外で、2人を見守るように一等星が空高くに輝きを放っていた。




